王子殿下の飼い猫はすこぶる毛並みが良いらしい

七期/ビーズログ文庫

試し読み その1

「おじようさま、お嬢様! 起きてくださいまし」

「……もう起きてるわ。ミレー」

 アデラインがしんだいの中から応えると、天幕が一気に開けられた。まぶしさにアデラインはまゆをひそめる。

「ミレー。眩しいわ……」

「朝でございますからね。明るいのは当たり前でございます」

 アデライン専属のじよのミレーは、アデラインよりもアデラインの母の年に近い。アデラインが生まれた時から側に仕えており、それもあってかアデラインにややえんりよがない。しんらいのおける姉のような存在ではあるが、このえんりよさが、思春期をむかえたころからアデラインにはなやみの種だ。

 アデラインはためいきを一つつくと、のろのろと起き上がった。

 寝間着からのぞくかたうでも細く、女性的ないろとぼしい。

 白い小さな顔に、やはり小さな黒い目とくちびる

 こしにまで届くたっぷりとした豊かなくりいろかみ

 もうすぐ、アデラインは十八さいになる。

 ごうしやな寝台の上で絹の寝間着に包まれながら、しかしその様子はまるで捨てられた子犬のようなぜいだ。

「私、いやな予感がするわ」

 ぼそぼそ、と唇を動かした。

 のなくようなその声を、侍女はのがさなかった。

「お嬢様?」

「ドレスのすそんでどろみずの中に転ぶとか、はちされて顔が満月みたいにふくらむとか……」

 おそろしい想像に、アデラインはブルッとふるがった。

「笑い者になるわ。絶対そうなる気がする!」

 アデラインは掛布の中にげるようにもぐりこむと、頭からしっかりかぶった。

 大きなため息をついたのは、今度はミレーだった。

「何を言ってらっしゃるんです。ほら起きて! 顔を洗っておえを!」

 ミレーは掛布をがそうとごういんに引っ張ったが、アデラインも負けじとしがみつく。

「私やっぱり今日は一日てる! お願いミレー! 私は熱があるから今日は行けないってお父様に言ってきて!」

「そんなことできるわけございません!」

 ぐぐぐっと、りようたんを引っ張られ、掛布はまるでつなきのつなのようだ。

「お願いお願いミレー! 一生のお願い!」

「できません!」

 軍配はミレーに上がり、まるであみにかかった魚のようにアデラインは掛布といつしよに寝台の上に投げ出された。

 本より重い物を持ったことがないアデラインと、水仕事からきゆうまでこなす体力まんのミレーでは、勝負のゆくは初めから決まっていたようなものだ。

「昨日も一昨日もその前もそのまた前も、ドレスの裾を踏んで転ばれることはございませんでしたし、ここ十日ばかり晴天続きですので泥水の水たまりなどありません! このあたりはすずしゅうございますので、蜂が飛び回り始めるにはまだ季節がはようございます! よって刺される心配は無用です!!」

「でも、だって」

 なみだごえのアデラインに、けれどミレーはようしやなかった。

「でももだってもございません! 皇国に留学なさっていたルトヴィアス王子殿でんが十年ぶりにもどられるのです! こんやくしやのお嬢様がおむかえなさらないでどうするのですか!」

 ぐうの音も出ない正論の前に、アデラインは肩を落とした。

 留学の名目でひとじちにされていた王子が、当初の『成人まで』という皇国との約束通り、ようやく帰国するのだ。

 王子は帰国の四ヶ月後に立太子することが決まっており、立太子のすぐ翌日には、アデラインとこんれいを挙げることになっている。

 病身の国王に王太子の不在と、不安をかかえていたルードサクシード王国民は、これでやっと安心できると胸をなで下ろし、そして、戦後初めてにして最大の国のけいを楽しみにしていた。

 たとえ高熱があったとしても、婚約者のアデラインが帰国する王子を出迎えないわけにはいかないだろう。

「さぁさ、顔を洗ってくださいまし。早くしませんと朝食を食べそこねますよ」

 さらうながしても寝台で半べそ状態のアデラインがあわれに見えたのか、ミレーはアデラインのとなりすわると、その背に手を回した。

「道が悪くてもだいじようなように、今日はき慣れたくつをご用意しましょうね。それからむしけのハーブを花帽の内側にいつけておきましょう。他に何か心配がございますか?」

「……馬車にってかないかしら」

「それならお手持ちのぶくろはつあめを入れておきます。酔った時におめください」

「……」

「お嬢様」

「……わかったわ。起きます」

 背中に伝わるミレーの手の温かさにはげまされ、アデラインは力なくうなずくと、ようやく寝台から降りた。顔を洗い、ミレーに手伝ってもらいながらいろのドレスにそでを通す。

「もっと他のお色のおものにしたらどうです? 他家のご令嬢はここぞとばかりにかざってきますのに……」

「いいの」

 短く言い切るアデラインに、ミレーはもう何も言わなかった。

 ルトヴィアス王子が国境をえるのは昼過ぎだ。それに立ち会うために数日前からアデラインは国境近くの領主が所有するこのしき宿しゆくはくしている。

 ルトヴィアス王子を出迎えるため、きゆうていだんをはじめ多くの貴族が集まり、更にその従者や馬車であふれ返った国境近くの街は、ちょっとした祭りのようになっていた。

 明るい人々の表情とはうってかわって、アデラインはいんうつな深いため息をこぼす。

 三年前の婚約解消そうどう以来、自分の立ち位置をアデラインは見失っていた。他の女性とけつこんするために、王子に捨てられかけた婚約者。公衆の面前で指を差されて『愛してない』とわめかれたも同然だ。『王子の婚約者』として公務をこなしても、かげで『名ばかりの……』とささやかれていることは知っている。

 名ばかりだろうと正式な婚約者であることにちがいはないのだから、開き直って堂々とすればよいとは思うのだが、アデラインにはそれができなかった。人前でおどおどすることが多くなり、最近では公務も満足にこなせない。その上、ルトヴィアス王子本人を目の前にしたら、自分はいったいどうなってしまうのか、アデラインは想像するのも恐ろしかった。

「髪はどういたしましょう、お嬢様」

「……いつもと同じようにして」

「……かしこまりました」

 ミレーがアデラインの豊かなブルネットをていねいにすいて、頭の後ろで一本の三つ編みを編み始めた。鏡の中の地味な自分の顔を、アデラインはぼんやりと見やる。

 しようほどこして、ようやく人並み程度に見られる顔。

 この鼻がもう少し高かったら、このまつがもう少し長かったら、目がせめてルトヴィアス王子のようなれいすいいろだったら……。

 そうすればルトヴィアス王子も、もう少しアデラインに関心をもってくれたかもしれない。婚約解消をするにしても、一言謝罪をくれたかもしれない。そうしたら心の整理もつきそうなものだ。

 騒動後、ルトヴィアス王子からは謝罪どころか個人的な便りは一度もない。

 手紙などは皇国に制限されていたので仕方がないのかもしれないが、大使が定期的に皇国とルードサクシードを行き来しているのだから、言付けくらいしてくれてもよかったのではないか。

(殿下は、政略結婚の相手に、そんなづかいは無用だと思っているのかもしれないわね)

 婚約解消騒動については、もうすべては終わったことだ。何事もなかったふりをするしかない。いつまでも引きずって謝罪を要求するような女など、ルトヴィアス王子はきっとわずらわしく思うだろう。

 それに、そんなことを言えば、アデラインがルトヴィアス王子をおもっていると、告白するようなものではないか。

 政略的な婚約なのに、アデラインだけが一方的に王子をしたっていると当のルトヴィアス王子に知られるのは、あまりにずかしくみじめすぎる。

 アデラインは、鏡の中にゆるゆると笑いかけた。

「ミレー」

「はい、お嬢様」

「私、ちゃんと笑えてる?」

 正妻のめかけへのしつは、はしたないこととされている。何事も知らぬふりで、ゆったりとほほむのが貴婦人のたしなみ。

「はい。とてもお綺麗です」

 ミレーは手を止めて、深く頷き返してくれた。

「……ありがとう」

 人に名ばかりの妻とあざけられ、それが聞こえぬふりをして微笑むなんて、まるでどうだ。

 せめてミレーの言う通り、本当に美しくありたかった。そうであれば『婚約者があれでは、婚約解消もしたくなる』と、ひそかに頷く人もいなかっただろうに。

 たくが終わり、朝食もすませ、アデラインはいよいよ国境に向けた馬車にりこんだ。

「行ってらっしゃいませ、お嬢様」

「行ってきます……」

 ミレーがわたしてくれたげの小袋には、油紙に包まれた薄荷飴がキチンと入っていた。花帽のみにも、虫除けのハーブがいつけられている。限られた時間の中で、予定外の仕事にもきっちり対応してくれる侍女に、アデラインは感謝した。そして侍女をいそがしくさせているだろう自分を情けなく思う。

 ガタガタとれる馬車の中で、アデラインはその日何度目か、もはやわからないため息をついた。

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