根の国

 グラインが行方不明になったと常世の国から戻った子供たちは語っていた。黒曜石の玉座に座る男は深くため息をついて、立ちあがる。男の髪もまた玉座のように黒く、その眼は夜の色を想わせた。

 黒曜石の飾られた法衣を翻して、根の国を治める夜の王は謁見の間の回廊を歩く。通路の脇に黒い御影石の支柱が建ち並ぶ謁見の間には、黒い装束を纏った廃人形たちが行儀よく佇んでいた。

 その廃人形たちに目配せをして、支柱の向こう側にある小さな通路の扉を開けさせる。その先には、奈落が広がっていた。扉の向こう側には螺旋階段が設置され、奈落の底へと向かうことができるようになっている。

 夜の王がその階段を降りるたびに、反響する靴音が奈落の断崖に響き渡る。断崖には硝子の結晶が咲き、その中には小さな子供たちが閉じ込められていた。子供たちはうっすらと眼を開けて、降りていく夜の王を見送る。

 奈落の底には、巨大な硝子の結晶が六角形の柱となっていくつも並んでいた。その中央に鎮座する一際大きな硝子の柱は崩れ、周囲に七色に輝く破片を散らばせている。

 夜の王は暗い双眸を細め、その支柱を見あげた。陽光を受けた雪花が虹色に煌めいて、硝子の柱の周囲を舞う。

 かつて、その中には一人の吟遊詩人が閉じ込められていた。灰の王と呼ばれる彼は、この世の吟遊詩人の中でもっとも世界樹と結びつきが強く、人々に愛されている青年だった。

 その愛ゆえに彼は孤独になり、祖国を裏切って夜の王の元へとやってきたのだ。

「君は死んでもグラインを想い続けるんだね……」

 そっと夜の王は砕けた硝子の支柱に触れていた。

 衰弱しきった少女を腕に抱え、自分に頭を下げる彼の姿を夜の王は今でも鮮明に思いだすことができる。そのグラインの危険を察知し、彼は祖国へと帰っていったのだろう。灰人形たちの詰まった輸送機に紛れて、彼は常世の国に渡ったのだろう。

「まぁ、そうなるように仕向けたのは私だけどね……」

 夜の王は苦笑を浮かべる。彼はそっと硝子の柱をなでて、眼を伏せた。

「死ぬ前に姉さんを、私は取り戻せるのかな?」

 彼の脳裏に浮かぶのは、自分と同じ夜色の眼をした一人の女性。彼女は我が子のために根の国を裏切り、常世の国の吟遊詩人となった。

 その我が子が、時を越えて彼女の故郷に戻ってくると誰が思っただろうか。

「本来なら、夜の王になっていたのはグラインなんだけどね」

 微かな呟きは、雪花の作り出す静寂に溶けていく。

「ねぇアッシュ。君は、どこで咲きたいんだい」

 遠い昔に思いを馳せながら、彼は雪の舞う灰の空を仰いだ。





 冷水が容赦なく体に襲いかかる。分厚い氷に覆われた湖の下で、グラインはもがいていた。アイスブルーに輝く氷の塊が沈んでいくグラインの周囲を覆っている。 ふわりと緑の髪を水に靡かせグラインは蒼く輝く湖面を見つめる。薄い唇を開けても、ごぼりと銀色の気泡がグラインの口からあがるばかりだ。

 言葉を発することが出来なければ、世界樹の力は使えない。絶望にグラインは眼を歪ませていた。

 ――心で唱えることを、教えたはずだよ。

 ふと、懐かしい声を思い出す。遠い昔にアッシュが教えてくれた言葉。強い祈りの心に世界樹は応えてくれると彼は言っていた。でも、グラインがいくら祈っても、祝詞なしで世界樹の力を使うことはできなかった。

 いくら祈っても、アッシュに出会うことはできなかった。

 ――。

 彼の名を呼ぶ。それは言葉にならず銀の気泡となって、虚しく氷に覆われた湖面へと消えていく。そんなグラインの視界を銀灰色の輝きが過った。

 それは水に広がる灰色の髪だった。三つ編みをほどいたアッシュがそっとグラインの体へと手を伸ばす。彼はしっかりとグライン片手で抱き寄せ、湖面目指して泳いでいく。

 廃人形となった彼の眼に光は宿らない。それでも彼の眼は、気遣うようにグラインを見つめてくる。グラインは眼を歪めて、アッシュの体にしがみついていた。

 ずっと会いたかった人が来てくれた。やっと、側に来てくれた。

 その事実が嬉しくて、彼が自分を救ってくれたことが嬉しくて、グラインは涙をこらえる。

 アッシュが頭上に手を掲げる。湖を閉ざしていた氷は軋んだ音をたてて割れた。グラインを両手で抱き寄せ、アッシュは湖面から跳び出していた。

 さすような冷たさが、水に濡れたグラインの体に襲いかかる。そんなグラインを庇うように抱き寄せて、アッシュは氷の塊の上へと着地した。

「死んでもお前は男前だなっ! アッシュ!」

 明るい男の大声が雪を震わせ自分たちにかけられる。アッシュはグラインを離し、自身の背中へと匿った。グラインは彼の背中越しに声の人物を見つめる。

 燃えるような赤い髪を後方へと流した、長身の男だ。引き締まった筋肉の肢体に緋色の外套を纏った彼は、大人の背丈の二倍はあろうかという槌を肩に担いでいる。

 グラインは男の髪色とその槌に見覚えがあった。

「ダルムさん?」

「おう! もしかしてグラインかっ! 別嬪になったな!」

 グラインの言葉にダルムは片手をあげて応えてくれる。彼はアッシュの旧友であるダルムだ。アッシュの育ての親であるウッシュを吟遊詩人の詩として仰いでいた青年。面倒見のいい彼は、幼い自分のことも随分と可愛がってくれた。

「そんな濡れて、可哀そうだなぁ……」

 ダルムは憐憫に金の眼を細めてみせる。グラインはそんな彼に笑顔を向けていた。彼は昔と変わらない。

 そっとグラインはアッシュの前から歩み出て、髪に手をやる。トネリコの簪を引き抜き短剣へと変えると、グラインはダルムヘと踊りかかっていた。襲いかかるグラインの刃を、ダルムは槌の握り手で防ぐ。グラインはそんなダルムから距離を置き、短剣を構えてみせた。

「ははっ! 死体愛好者どもにそうとう可愛がられたみたいだな」

「あなたこそ、アッシュよりも祖国を選んだ愛国主義者じゃない」

「あぁ、その愛国主義者は管理する硝子細工の民を死体人形にされて怒ってるんだ。だからここで、死んでくれっ!」

 ダルムは体を捻り、槌をグライン向けて放つ。グラインは横に跳んで槌を避け、腰をかがめた状態でダルムへと肉薄する。そんなグラインの眼前に、蛇のごとくうねる炎の竜が顕現する。

 根の国の輸送機を襲った竜だ。やはりダルムの仕業だったとグラインは舌打ちして、口を開いていた。

「アッシュっ!」

 グラインの叫びに応じて、巨大な氷塊が炎の竜めがけて飛んで行く。竜は氷塊によって四散し、その氷塊を跳び越えてグラインは駆ける。

 目指すはこちらへと向かってくるダルムのもと。得物をぶつけ合い、二人は絶えず距離をとってはお互いの様子を窺う。

「ほぅ、アッシュの奴はてんで駄目だった体術のほうもなかなかだな? それで何人男をやったんだか」

「私は、昔からあなたのそういうところが嫌いです」

 笑い合って、グラインとだルムはまた得物をぶつけ合う。グラインがダルムの喉を狙えば、ダルムは体を反らしてそれを避ける。ガルムが起き上がり体を捻って槌を振り回せば、グラインは跳んでそれを避けた。飛翔したグラインは体を捻って跳び蹴りをダルムにお見舞いする。ぎょっとダルムは眼を見開くもにぃっと口元を歪め、両の手を交差させてグラインの蹴りを受け止めた。

「アッシュっ!」

 氷上に着地したグラインが叫ぶ。その瞬間、グラインとダルムのあいだに割って入る灰の閃光があった。それがガルムの肩に直撃すると同時に、彼の服が弾け飛ぶ。氷剣を手にもつアッシュが、ダルムの肩に刃を突き立てていた。

 だが、その刃がダルムの腕を切り落とすことはない。服の裂けたかれの腕は、鋼のそれであった。

「お前がこの国を出ていくときに喰らった手が、二度も通じると思うかぁ!」

 生身のダルムの腕がアッシュの首へと伸びる。彼はアッシュの首を締めあげ、その細い体を宙へと浮かせてみせた。ダルムの指がアッシュの首に食い込む。めりっと嫌な音がして、アッシュの首から鮮血が流れ落ちた。

「はっ! 化物になっても、血は赤いってかっ!」

 ぐるりと瞳を動かしてアッシュは嘲笑するダルムを見つめる。なんの感情も読み取れないその眼をかつての友人に向けたまま、アッシュは手に持つ氷刀をダルムに向けて放っていた。

 ダルムはアッシュを放り後方へと退く。すかさずグラインがそんな彼に駆け寄り、歪曲した短剣の刃を振るってみせる。ダルムは鋼の腕でその刃を受けてみせた。グラインの短剣はすんだ音をたてて砕ける。驚愕するグラインに得意げな眼差しを送りながら、ダルムは鋼の腕を振るってみせた。

 グラインの体が宙を舞う。アッシュがそんなグラインを素早く受けとめ、片手を前に突き出した。アッシュの掌に魔法陣が描かれ、それは火球となってダルムに襲いかかる。ダルムは鋼の腕を振るい、その火球を消し飛ばしてみせた。

「化物だわ……」

「化物はどっちだか……。死んでも祝詞なしで奇跡起こしやがって……」

 グラインの呟きをダルムは鼻で笑う。

「まぁ、アンの奴は二人とも連れてこいって言ったけど、生きて連れてこいとは言ってないからな……。民を殺された恨みもあるし、やっぱ死んでくれっ!」

 肩に担いていた槌でダルムは凍った湖面を打った。澄んだ金属音が周囲に響き渡り、ダルムを中心に湖面を覆う氷に罅が入っていく。

「Awake, Awake. príomh uisce《目覚めよ、目覚めよ。水の主》」

 低い声で祝詞が唱えられる。罅の入った氷上が盛り上がり、それは空高く競り上がって蒼いきらめきを放つ。歪な形をしたそれから余分な欠片が砕け落ちると、氷の塊は勇壮な一頭の翼竜となってそこに鎮座していた。

 咢を開き翼竜は咆哮をあげる。ちらつく雪は咆哮に震え、その軌道をかき乱される。

「竜とか、いらなくない……?」

 殺すなら、普通に持っている槌で自分たちを襲った方が早いんじゃないだろうか。そんなことを疑問に思いながらも、グラインは短剣を構えてみせた。

 ダルムは昔からこういう派手で無駄に骨を折ることが好きな人だった気がする。そんな彼の剽軽な一面をアッシュはとても気に入っていたようだった。

 そんな親友の腕をアッシュは奪った。娘である自分を守るために。

「今度は、私がお父さんを守るから……」

 後方にいるアッシュをグラインは振り返る。そっと彼の手を握ると、色のない眼を大きく見開きアッシュはグラインを見つめた。彼の眼に微笑が浮かぶ。グラインも彼に微笑み返し、前方の竜へと顔を向けた。

 立ち塞がるダルムは氷像の竜を背に泰然と笑ってみせる。

「アッシュっ!」

 グラインが叫ぶ。瞬間、グラインの足元に氷の結晶を想わせる光が煌めいた。光は駆けるグラインの脚を包み込む。

 氷上の上をアッシュとグラインは滑るように駆けていく。祝詞を唱えるグラインに竜の尻尾が襲いかかる。その尾を跳び越え、グラインは祝詞を唱え続ける。

 アッシュの火球が竜の尾に着弾する。竜の尾は弾け飛ぶも崩れた尾は瞬く間に再生していく。

「Kaere, Kaere, við upprunalega fugla Tree《還れ、還れ、世界樹のもとへ》」

 グラインの祝詞がやむ。竜の居座る氷上に巨大な魔法陣が浮かび、轟音と共に氷上で爆発が起こる。竜は翼を翻して、その爆発から逃れた。

 凍える氷の息が竜の咢から放たれる。アッシュがグラインの前方へと躍り出て、掌を竜に向かって翳す。氷の壁がアッシュの前に立ちはだかり、氷の息からグラインを守った。

 その壁が吹き飛ばされる。驚きに眼を見開くグラインの前に回転しながら槌を振るう巨漢の男が現れる。男の体躯から槌の攻撃が繰り出されるたび、アッシュは魔法陣の障壁を築き、それを防いだ。ダルムは低く屈み、アッシュめがけて疾駆する。

「Ég blað, blað, Tsukisasare《刃よ、刃、突き刺され》」

 グラインがすかさず祝詞を唱える。氷の刃がグラインの周囲に顕現し、ダルムめがけて襲いかかる。ダルムはそれを片手で操る槌で弾き返し、もう片方の手にアッシュを抱く。

「お父さんっ!」

 グラインがダルムに駆け寄る。だが、その行く手は突如現れた氷の壁に阻まれた。透明に輝く壁の向こうで、アッシュがこちらにむけて掌を翳している。

 氷の壁をアッシュが作り、グラインの行く手を阻んだのだ。

「どうして……」

 唖然とするグラインの眼前でアッシュを抱えたダルムは翼竜へと飛び乗る。翼竜は咆哮を上げ、氷の翼をはためかせた。

はっとグラインは気がついて、氷の壁を横切り翼竜へと走っていく。だが、翼竜はすでに空高く飛び上がり、深い雲の隙間から見える蒼空へと吸い込まれていくところだった。

「どうして、お父さん……」

 アッシュが自分を裏切った。その事実が呑み込めず、グラインは翼竜の去っていった空を見あげることしかできない。



 



 

 

  

  

 



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