氷の上で

 湖を覆っていた氷が捲りあがり、翠色の光を放つ氷塊となって雪の地平に点在している。そんな湖の上を歩く、青年と小さな少女がいた。

 緑の髪を肩で切りそろえた少女は、白い息を吐きながら青年の前方を走り回る。自身の周囲を舞う雪花を輝く鳶色の眼で捉えながら、彼女はくるくると体を回してみせた。

「グライン。あんまりはしゃぎ過ぎちゃだめだよ」

 そんなグラインを青年であるアッシュは諫める。回りながらグラインは彼に悪戯っぽい笑みを送り、小さく祝詞を唱え始めた。

 回るグラインの周囲に光り輝く魔法陣が現れ、彼女の動きに合わせて音をたてて弾ける。弾けた魔法陣は光の粒となって宙を舞い、氷の湖に散らばっていった。 

 アッシュの教えた演舞のための祝詞だ。月に何度かおこなわれる世界樹を祀る催事で、グラインは舞を奉納する巫女として選ばれた。

 それはグラインが、吟遊詩人たるアッシュの後継者として認められたことを意味していた。

 アッシュの治める硝子細工をグラインは遠い将来受け継ぐこととなる。そしてそれは、グラインがアッシュと同じ戦場に立つことすら意味していた。

「ねぇお父さん……。どこか痛いの?」

 娘の言葉にアッシュは我に返る。グラインは手を後ろ手に組んで、大きな眼でアッシュを見つめていた。不思議そうに眼をしばたたく我が子にアッシュは微笑んでみせる。

「ううん、グラインはアンさまの前で上手く踊れるか不安でね」

「じゃあ、お父さんが教えてっ!」

 弾んだ声をあげ、グラインはアッシュへと駆け寄ってくる。アッシュの両手を握りしめ、グラインはアッシュの体を引っ張ってみせた。

「お父さん! お父さん!」

「分かったよ、グラインっ」

 声を弾ませアッシュはグラインを担ぎ上げていた。彼女を横抱きにして駆けるアッシュは祝詞を唱える。

 アッシュの足元に氷の結晶を想わせる光が広がる。まるで橇のようにアッシュは氷上を滑り、何度もターンしてみせた。

「ちょ、お父さんっ!」

 腕の中のグラインはまん丸に眼を見開いてアッシュに叫ぶ。アッシュはそんな娘の姿に笑い声をあげていた。そっと彼女を氷上に降ろし、アッシュは再び祝詞を唱える。

 グラインの足元にも氷の結晶を想わせる光が広がった。驚いて足元を見つめるグラインの両手を引き、アッシュは体を回してみせる。

「うわぁああ!!」

「ほらグライン。ダンスは、ダンスはどうしたの?」 

「お父さんのいじわるっ!」

「ほらっ!」

 氷上を滑りながら、青年と少女の親子はダンスを踊る。花雪がそんな二人の周囲で舞いあがり、陽光に照らされ虹色の輝きを放つ。

 青年と少女の笑い声は静かな雪の中に木霊して、いつまでも周囲に響き渡っていた。




 吹雪が空を灰色に染めていた。

 湖の上に蒼い光を放つ氷塊が散乱している。

 その氷塊の一つに穴が穿たれていた。その穴の中で黒い外套を纏ったグラインは蹲っている。蹲ったグラインを冷たいアッシュの腕が優しく包み込んでいた。

 氷塊の中は複雑な断面に様々な蒼や翠の色を放っている。その光彩は蹲るアッシュとグラインを優しく包み込み、二人を深い緑色に照らしていた。

 突然の吹雪に遭い、グラインは氷上に浮かぶ氷塊の中を溶かして、即席の避難場所としたのだ。そもそも、一年中雪に閉ざされた外の世界を外套一枚で出歩く方がどうかしている。

 グライン自身も常世の国には輸送機に乗ってやってきたし、たいていの人々は硝子細工からでることなく生涯を過ごすものだ。

 外の世界を徘徊できるのは、世界樹の恩恵を受けた吟遊詩人たちぐらいなものだろう。そんな外の世界を側にいる義父はよく見せてくれた。

「また、ここに来るなんて思わなかったな……」

 冬の時代が始まってからずっと凍りついたままの湖で踊ったのは、どのくらい昔の話だろうか。アッシュが自分の手を取って、彼と氷上を統べるように踊ったのは。それは、この地で過ごしたグラインの最後の楽しい一時だったのかもしれない。

 そのあと、彼は――

「あぅ……」

 アッシュが鳴く。グラインは顔をあげて、雪で固めた穴を見つめた。雪の隙間からかすかに光が覗いている。

「アッシュ……」

 グラインは小さくアッシュに声をかけていた。アッシュは無言で穴へと近づき、穴をふさぐ雪をどかしていく。弱々しい太陽の光が氷塊の中を照らして、深緑の光が明るい翠色へと変化していく。

 アッシュが穴から出ていく。彼はグラインにそっと手を差し伸べてみせた。グラインはその手を掴み、穴の外へと出る。

 灰色の空は弱々しいながらも陽の光を纏い、空を覆う雲は薄く白い輪郭を浮かびあがらせている。儚い粉雪が辺りにちらついているが、移動するのに困るものではない。

「行きましょう。アッシュ」

 冷たい彼の手を握り返し、グラインはアッシュに話しかける。瞬間、彼の眼が不満そうに歪んだ気がした。そんな彼をみて、グラインは大きく眼を見開く。

「もしかして、名前で呼ばれて不満?」

 死んだとはいえ廃人形には人の魂が宿っている。彼らは生前の記憶を微かだがその身に有し、時に感情を露にすることもあるのだ。

「だって、私はもうこんなに大きいのよ。義父さんと変わらないぐらい。そんな人、義父さんだなんて呼べないわ」

 グラインの言葉に、アッシュは思いっきり渋面をつくってみせる。困り果ててグラインは彼の手を引いていた。

「呼び方なんてどうでもいいじゃない。こうやってまた会えたんだから……」

 歩き出すグラインの歩調に合わせ、アッシュも後をついてくる。だが、彼は不満そうに顔を逸らしたままだ。自分を娘だと思う父の強い愛情にグラインは驚き、同時に呆れてもいた。

 こんな大きく成長した自分を、アッシュはまだ子ども扱いしたいのだから。そして同時に、何とも言えない寂しさをグラインは胸の内に感じていた。

 彼を父と呼びたくない理由が、この湖にはあるから。

「踊ろう! アッシュ!!」

 アッシュの手をとり、グラインは微笑む。ううっと唸る彼の手を握ったまま、グラインは祝詞を唱えていた。

「『Rith reáchtáil. Gale.《走る。走る。疾風》」

 グラインとアッシュの足元が光り輝き、二人はその光の軌道に乗りながら氷上の上で踊る。手を放してお互いに氷上を駆け、光の軌道を描きながらまた手を繋ぐ。

 まるで、アッシュが生きていたころに戻ったようだとグラインは思った。アッシュが嫌がる自分の手を引いて、この湖の上を一緒に滑って、そんな父の嬉しそうな顔を見て、グラインは言いようのないときめきを覚えた。

 轟音が空に鳴り響く。グラインは立ちどまり、上空を仰いだ。

 複雑な歯車を回しながら、根の国の輸送機がグラインの上空を過ぎ去っていく。グラインは鳶色の眼を大きく見開いて、薄い唇を開けていた。

『Ljós, ljós. Það að hér.《光よ光り、ここにあれ》』

 グラインの唇から光り輝く蝶が吐き出される。それは小さな古代文字を纏いながら、何匹も何匹もグラインの唇から生まれては、輸送機目指して空へと舞いあがる。

 輸送機を螺旋状に光る蝶たちが取り囲むと、はるか前方へと進んでいたそれは進路を変え、こちらへと戻ってきた。

「よかった。気がついてくれた……」

 ほうっと安堵の息を吐いて、グラインはアッシュの手を握りしめる。だが、隣にいる彼は険しい表情を浮かべていた。

「アッシュ?」

 グラインが口を開くと同時に爆音が辺りに響き渡る。上空で燻る炎の残滓を認め、グラインは大きく眼を見開いていた。

 竜を象った炎が螺旋状に輸送機に巻きつき、咆哮をあげている。否、咆哮を想わせる爆音を繰り返しながら、輸送機は炎に呑まれこちらへと落ちてくるではないか。

『Rith reáchtáil. Gale.《走る。走る。疾風》』

 アッシュの口から祝詞が発せられる。彼の足元に氷を想わせる光が広がる。アッシュア素早くグラインを横抱きにして、滑るように氷上を駆けだした。

 グラインが後方へと振り向くと、さきほどまで自分たちがいた場所に輸送機が叩きつけられるところだった。重厚な鉄の塊は厚い湖の氷を割り、その身を水の中へと沈めていく。その衝撃で、グラインたちの足元の氷にも罅が入った。

「アッシュっ!」

 氷の罅が大きくなるのをみてとり、グラインは叫ぶ。アッシュが祝詞を唱えようと唇を開きかけた瞬間、足元の氷は割れ二人は湖の中へと落ちていった。






 


 


 

 


 


 

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