根の国の姫

 グラインは空を見上げながら氷上の上を歩く。歩けど歩けどアッシュの連れ去られた空に近づくことはなく、途方にくれて、歩みを止めた。

 彼が去っていった青い空も、灰色の雲に覆われ見えなくなってしまった。

「どうして……」

 口を開いても答えてくれる人はいない。連れ去られるアッシュの無感動な眼が脳裏をよぎって、グラインはうつむいていた。

 やっと取り戻したと思ったぬくもりが、また失われてしまった。その事実がどうしようもなくグラインの心にのしかかってくる。

「おお、あれがグラインの彼氏か!」

「はぁ!?」

 底抜けに明るい声がして、グラインは思わず後方へと振り向いていた。

 よじれた黒い三つ編みをサイドで束ねた少女が、興味深げに空を仰いでいる。顔を覆う彼女の眼鏡の奥には、夜色に輝く眼が瞬いていた。

「でもさ、彼氏お空の向こうでしょ? 歩いても、追いつけないよ……?」

「エリジン?」

「よ、お久しぶり!」

 グラインに呼ばれ、エリジンは元気よく手を挙げてみせる。

「なんで、王女であるあなたがここにいるの!?」

「パパに言われて、常世の国の長さんと話し合いにきたんだけど、あの筋肉おじさんに輸送船ごと落とされた」

 簡潔な彼女の言葉に、グラインはなにも言えない。彼女は自分を助けようとして、ダルムに攻撃を受けたのだ。

「その、ごめんなさい……」

 気まずくなって、グラインはエリジンから顔を逸らす。

「いゃあ、私の不注意が招いた事故だから気にしないで。それより、その輸送船から脱出できたのはいいんだけど、その辺を警備してた吟遊詩人さんたちに見つかって、灰人形ちゃんたちがね……」

 エリジンが申し訳なさそうに視線を逸らしてくる。グラインは嫌な予感がして彼女の後方へと視線をやる。彼女の後方には樹氷に覆われた森が広がっている。

 その森の中から蠢く人影がこちらへと向かってきていた。犬歯を剥き出しにした廃人形たちが緩慢な動きでもって、こちらへと向かってくる。彼らは焦点の合っていない眼をグラインたちに向け、高い咆哮をあげた。

「とりあえず、殺していい?」

 醒めた眼をエリジンに向けグラインは尋ねる。

「いやっ! 私は殺さないで!」

「分かってるわよ!!」

 グラインの言葉を合図に、二人は樹氷に覆われた森へと駆けていく。

「Hashire, Hashire. Gale《走れ、走れ。疾風》」

 グラインは祝詞を唱える。駆ける二人の足元に氷の結晶を想わせる光が生じる。瞬間、滑るように2人は森の中を駆け、襲いかかる廃人形たちを跳び越えていた。

「どこかに廃人形を操ってる奴がいるはずよ」

「了解! 狩りは得意なんだ!!」

 宙を舞うエリジンはグラインに弾んだ声をかける。彼女は両手を広げ、祝詞を唱えだした。

「Sem svar, svar, notkun elds《応え、応え、炎の使い》」

 エリジンが祝詞を唱えおえると同時に、後方の湖から巨大な轟音が響き渡る。グラインが後方へと顔を向けると、巨大な竜の首が氷をぶち破ってこちらを見つめていた。

 歯車と、拉げた鉄骨で構成されたその竜の頭は巨大な咆哮をあげる。

「だから、竜とか要らなくない……」

「いいじゃん、カッコいいじゃん!!」

 呆れたグラインの言葉に、エリジンは抗言を送る。ため息をついたグラインが祝詞を唱えると、二人の背中に鳥の羽を模した光が現れ、突風が周囲に吹き荒れる。

 突風に乗って森の上空へと飛んだグラインたちの眼下で、竜は大きな咢を開き、蒼い炎を吐き出した。

 高音の火は瞬く間に氷に覆われた木々を呑みこみ、廃人形たちを焼きつくしていく。赤く変色した炎の中で、廃人形たちの影は踊るようにゆらめいてみせる。

 竜が咆哮をあげる。湖の氷を突き破り、鋼の竜は灰色の空へと鉛色の翼を大きく広げてみせた。

 突風に乗り、グラインとエリジンはその竜の背へと降りたつ。

「吟遊詩人は?」

「いや、焼け死んだでしょ。生きてるとしてもトンずらしっちゃった方が早い」

「追ってきたたらどうするの?」

「大丈夫! 焼き尽くすから」

 これは駄目だとグラインはエリジンとの会話をやめる。そっと竜の背に座り込むと、ほんのりと竜の鱗が熱を帯びていることに気がついた。

「あったかい……」

「だって、グラインびしょ濡れだよ。元気なさそうだったし」

 顔をあげたグラインに前方にたつエリジンは微笑んでみせる。ふっと心に灯がついたような気がして、グラインは微笑んでいた。

「あなたのそういうところ、好きよ」

 ぎゅっと両膝を抱きながら、グラインはエリジンに微笑みを返す。エリジンはほんのりと頬を赤らめ、グラインから視線を逸らした。

「私だって、グラインのこと好きだもん」

 ぷぅっと頬を膨らませて、彼女は不満げに言葉を返してみせる。その様子がなんともおかしくて、グラインは笑い声をあげていた。

 

 

 

 雪花を纏って灰の王は踊る。

 そう、誰か言い出したのだろうか。

 アッシュの舞は一際美しく、見るものを魅了するという。いつも穏やかな笑みを浮かべる父がなぜそんな風に言われているのか、グラインには分からなかった。

 ただ、着飾った自分の前で共に踊る父を見て、グラインはその理由を知る。

 美しかった。

 灰の髪を背に流し、扇を持って舞う父はさながら雪の中を飛ぶ蝶を想わせる。絶滅し、絵本でしか見たことのないその美しい虫のごとく、アッシュは翻る髪を銀灰色に輝かせ、婀娜とした笑みを蒼い眼に浮かべる。

 彼が纏うは、雪の白を模した法衣。その法衣を捌いて、アッシュは着飾ったグラインの前に跪く。グラインは空の蒼を想わせる衣装を纏い、緑の髪をトネリコの簪で飾っている。

 そっとグラインの手を取り、彼はその手の甲に唇を落としてみせた。顔をあげた刹那、アッシュの薄く開いた眼がグラインを捉える。優しく笑みを湛えたその眼を見て、グラインは言いようのない胸の高鳴りを覚えていた。


 鋼の竜が夜の空をいく。晴れ渡った空は紺青に染まり、月が竜の鋼の体を蒼く光らせていた。そんな竜の背に乗る2人の少女たちは、背中合わせになり毛布にくるまっている。

「それでグラインは、お父さんに恋をしたんだ」

 少女の一人であるエリジンが口を開く。アッシュとの思い出を彼女に聞かせていたグラインは思わぬ言葉に眼を見開いていた。

「私が、お父さんに恋っ?」

 驚き声をあげるグラインの顔をエリジンが覗き込んでくる。彼女は夜色の眼に得意げな笑みを浮かべ、グラインに応えてみせた。

「うん、こっそり二人とおっさんの戦う様子を見てたけど、なんかいちゃついて頭来ちゃったよ。グラインの側にいたのは私なのにさ」

 グラインの正面に立つ彼女は、しゃがみ込みグラインの両手を握りしめてみせた。

「無事でよかった。あなたが戦場に行ったってパパから聴いた瞬間、私パパを殴り飛ばしてたよ。避けられたけど」

「それで、ここに来たの?」

「表向きは根の国の使者だけどね。でも、グラインが行方不明になったって聞いて、ずっと探してた。ずっと……」

 グラインの手を放し、エリジンはグラインの体を抱きしめてくる。かすかな嗚咽が耳朶に轟いて、グラインは俯いた彼女を見つめていた。

「よかった……。無事でよかった……」

「エリジン……」

 グラインは涙を流す彼女の背に腕を回す。エリジンを抱き寄せると、あたたかな彼女の体温が自分の体を包み込んでくれた。アッシュと違い血の通った彼女からは心臓の音がする。

「あなたはちゃんと生きて、ここにいるのね……」

 冷たいアッシュの感触を思い出す。光を宿さない眼は彼が死んでいることを何よりも物語っていた。

 それでも、アッシュには感情があった。他の廃人形と違い、彼は血を分けた主である自分の命令を無視して、自らの意思でダルムもとに赴いたのだ。

「グラインのお父さんには私も驚いた。人形遣いの命令を無視して、自分の意思で動く廃人形なんて見てことない。最強の吟遊詩人って呼ばれてたのも、納得できるよ」

「灰の王……」

 ぽつりとグラインはアッシュの異名を唱えていた。

 吟遊詩人の中でもっとも強いとされる彼は、敵国である根の国の侵略から幾たびも祖国である常世を守ってきた。もし彼がいたら、今回の根の国の進攻もここまで上手くいっていたのか疑問に思う。

「きっとあの人は、グラインのために戦ってたんだね。だからグラインを仲のよかった旧友と戦わせたくなかったんだと思う」

「エリジン……」

 そっと彼女は顔をあげ、グラインの言葉に微笑みかけてみせる。ぎゅっとエリジンはグラインの頭を抱き寄せて、弾んだ声で言葉を続けた。

「ずるいな、アッシュさんは。パパに叱られて泣いてたグラインを慰めてたのは私なのに。いつも側にいて、あの人よりずっと長い時間を過ごしたはずなのに、グラインはアッシュさんのことばっかり考えてる。焼けちゃうよ……」

「その……お姉ちゃん……」

「あぁ、その呼び方久しぶり。大きくなってからはグラインの方がしっかりものだからいつも頼ってばっかりだったけど、今は……私に頼って……」

 エリジンの温かな心が冷たい体を温めてくれるようだ。アッシュと共に根の国の逃れたグラインは、夜の王の娘であるエリジンと共に育てられた。

 グラインよりいくぶんか年上のエリジンはグラインにとって姉のような人だ。大雑把で頼りないけれど、いつもグラインの側にいてくれる。そんな彼女に、アッシュを喪った寂しさをいつも慰めてもらっていた。

「絶対、グラインの大切な人を助けよう。私のグラインが大切にしてる人だもん。私にとってもアッシュさんは大切な人だよ」

「エリジン……」

 あたたかな言葉に、涙が出そうになる。グラインは潤んだ鳶色の眼に微笑みを浮かべ、力強く頷いていた。

 今はアッシュを取り戻すことだけを考えよう。アッシュもきっと自分と再会することを望んでいるはずだから。

「さて、感傷に浸るのはここまでにして、ちょっとお掃除でもしようか。グライン」

「そうね、姉さん」

 颯爽と二人は立ちあがり、後方へと顔を向ける。自分たちの乗る鋼の竜を追いかけ、こちらに飛んでくる複数の飛行船があった。

「やっぱり、エリジンのいい加減さには呆れる」

「いいじゃないの、ストレスもたまってることだし、ここいらでいっちょダンスでも踊らない?」

 得意げな笑みを浮かべ、二人の少女は竜の背を蹴る。

「Yobe, Yobe, vindur.《呼べ、呼べ。風》」

 グラインの祝詞が夜の空に響き渡る。突風は二人の少女を伴って、竜を追う飛行船へと向かっていった。

 

 


 

 

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