欲しいのは悪夢

 法正は心中で舌打ちをした。そんな事を言ってどうする、と。だが憲英は心優しき女性。貂蝉のように裏表がある訳ではない。呂布の悲しみに寄り添ったのだろう。呂布は一度目を閉じて再びゆっくりとその眼で世界を見た。

「劉備か」

 憲英は何も言わなかった。それが肯定だと呂布に思い知らせる。

「……劉備は母を救いたいのだったな。そのために盗みをさせられている。いや……今は村か。村人を義父上の魔の手から守るために、貴様らは義父上の失脚を望んだか」

「――わたくしは董卓が正しいとは思いません。ですが彼もまた悪だと思っておりません。彼も彼なりの理由があると存じていますわ。ですが、それを知らないわたくし達からしたら村を脅かす存在。……下々に上の人間の考えなどわかりません。だからわたくし達は董卓の失脚を望むのです」

 呂布は「そうか」と一言漏らし窓の外を眺める。何かを考えているようだった。

「奉先様、あなたが貂蝉様の事を思うのであれば――」

「貂蝉を連れて逃げろ、か? 愚問だな。私は義父上の腹心。義父上から離れる事は出来ん。たとえ、愛する女を守るためでもな」

「奉先様……」

 だが報告はしない。私も義父上に思うところがあるからな。見逃してやるから、これ以上悲しみたくないのなら上手くやる事だ。呂布はそう声色に言葉を乗せた。

「……貂蝉様のためですね。董卓に味方するのは。義理立てしたいなんて思うあなたではないですもの。それくらいはわかりますわ」

 貂蝉の傍に居たいから、守りたいから貂蝉を愛する董卓の傍に居る。そうすれば貂蝉を守れると思っているから。なるほど、呂布という人物は意外と清廉潔白――とは思わない。彼の性格を知っているからだ。

「そう思うのなら私を誘うのは辞めろ。私は貴様らに協力する事はない。たとえ協力しても裏切る。私は貂蝉さえ無事でいればそれでいい」

「ええ、わかりましたわ。奉先様の寛大なお心に感謝致します」

 全ては貂蝉のため。呂布はそれだけのために動いている。つまり、貂蝉がもし、敵側に寝返る事があれば――呂布もまた裏切るという事である。

 となれば一石投じていた方がいいかもしれない。

 董卓だけにバレるのは避けたい。呂布が董卓へ伝えないという事は、あまり考えられないからだ。やはり、董卓と呂布の連携を絶つのが一番か。劉備が戻るまでに何とかしておきたいものだが――。

「ではわたくしはこれで失礼致しますわ。董卓に呼ばれていますので」

 憲英はそう告げて呂布に背を向ける。彼女は一度法正に目配せして笑みを漂わせ、すぐに部屋を出て行った。彼女の視線には「呂布に気をつけて」という感情が隠されていた。法正は腕を組み呂布をじっと見据える。この部屋には彼一人――だ。彼が法正に気付く事はない。何故なら彼は法正を認識出来ないからである。

 呂布の籠絡は現時点で不可。何かきっかけが必要だ。貂蝉の願いでもきっと不可だろう。きっかけを作る事は簡単だが、あくまで自然な形がいい。呂布が董卓に恨みを抱くような何かが。

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