「――貴様か、劉備か。貂蝉を誑かしたのは」

 振り返った呂布はじっと法正を見据えていた。己の後ろは壁だ。となると――彼が見据えているのは法正しかない。なるほど、これは希有なる存在だ。流石、呂奉先。伊達ではない。

「俺が見えているなんて、獣の癖に随分と殊勝な事で」

「見えてはいない。お前の姿形もわからない。だが――お前の存在はわかる。もう一度問う。貂蝉を誑かしたのは、貴様か劉備かどっちだ」

「冗談。誑かされたのはこっちだ」

 呂布は訝しげに表情を曇らせる。眉間に皺を刻み、鋭い瞳を更に鋭く研ぎ澄ませた。抜き身の刃の如く冷たい瞳は法正を射抜く。

「憲英殿から聞いたのならわかっているだろう。貂蝉殿は王允殿と董卓殺害を企てていた。それを劉備殿が防いだ。劉備殿に感謝して欲しいくらいだがな、俺は」

「……劉備が、だと?」

 貂蝉殿は最初董卓を殺そうと劉備殿に話を持ちかけた。だが劉備殿はそれを断り、董卓を殺さず村を守る方法を選んだ。それは誰も悲しまない最善の方法だ。ああ、董卓は今までの制裁だと思って受け入れるべきだと思ったから、董卓に救いはないが。法正は目を伏せ、呂布の不満げな表情を瞳に宿した。呂布はどうにも納得がいかない顔だ。

「呂奉先、お前には義も忠誠も何もない。そこにあるのはただ貂蝉という女と、自分の思いだけだ。自分がしたいからそう動く。憲英殿はお前を信じたが、俺は信じない。お前はいずれ敵となるのが目に見えているからな」

 そう、下邳での時も、劉備を陥れた時も、いつだってこの男は敵だった。だからこそ悲劇的な末路を辿った。かといって法正は今からこの男をどうこう出来る訳ではない。法正に出来る事は、劉備の障害となる事を取り除く事くらいだ。

法正は全てを識り、全てを理解し、全てを視たが、何も出来ないのである。

「私はただ目の前の事をするだけだ。この乱れた世の中、いずれ乱世となる。そのためにな」

「臆病なお前がか。裏切って裏切るのが当たり前となるだろうな」

 これ以上の論争は無意味だ。法正は背を向け、歩き出す――瞬間、己の頬の横を槍が目にも留まらぬ速さで通り抜け、壁に突き刺さった。右頬からは血が滴り、血液は法正の衣服を汚す。法正は口角を上げて悪党のように人相の悪い表情をした。

「この獣風情が。俺に喧嘩を売るとはいい度胸だ」

 いつか報復してやる。恐ろしい報いを。

 法正はそんな言葉を吐き捨て、今度こそ呂布の前から姿を消した。呂布が己を睨み付けていた事に気付かないはずもなく、彼からの挑戦状を受け取り、法正は口元を釣り上げる。未来への報復を楽しみに。


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