甘言

 一人で抱えるには重すぎる。誰かに相談する事も出来ない。村を救うには今貯めている金に少し足して董卓へ献上するのがいいだろう。だがそんな事をすれば母親を医者に診せられなくなる。母親の病とていつ進行するかわからないのに、これ以上遅らせる訳にはいかない。いっそ、何処かの金持ちの家に盗みに入るか。今までは山賊やらの悪党、汚職に手を染めている奴らばかりを狙ってきた。港での盗みも、黒い噂がある者くらいからしか盗んでいない。善人から盗むのは気が引けるからだ。

 ――いや、今はそんな事言っていられない。村から少し離れた場所の土豪なら問題ないはずだ。劉備の悪名も村から離れれば届かないのだから。

「玄徳様」

 ふと呼び止められる。冷涼で、透き通るような甘美で艶やかな声。その声は数多の人を溶かすだろう。そんな声の持ち主――貂蝉は劉備の後ろから追ってきた。彼女は息を乱さず劉備の前に立つ。

「貂蝉、何か用か」

「……少々お時間を頂いてもよろしいですか?」

 先ほどの今だ。劉備は彼女を見上げ、その瞳をじっと覗き込んだ。人を見る目だけはある。その人物が嘘を吐いているのかなどはわからないが、どんな人物くらいは判別する事が出来ていた。劉備は頷けばすぐに彼女へと着いていく。そして貂蝉は東へ進み森の中へと入っていく。進みすぎると森の中には狼が出る危険な森だ。しかしこの村の人間は子供でも狼を一人で狩れるので問題は無い。

「玄徳様、盗んだ金ですが董卓へ渡してはなりません」

 どういう事だ。劉備は目の前の貂蝉を疑問の籠もった瞳で見上げる。貂蝉は劉備の肩に手を置いて話し出す。そもそも先ほどと言っている事が違う。ここまで追い込んだのは紛れもなく貂蝉が提案した策だ。

「その金を渡す事であなたは逃げられなくなるからです。また次の問題が現れて、母君を救えなくなります。ですから、お渡しするのはおやめくださいませ」

 貂蝉は両手を劉備の肩から離し、右手を垂らしている左腕に添える。

「わたしは元々山賊に買われていた奴隷でした。しかし養父・王允(おういん)に救われ此処にいます。義父にわたしは恩を返したいのです。ですから董卓の愛妾にもなり、董卓と身体を重ね、娼婦のような事でもします。――全ては董卓を殺すために」

「待て、貂蝉! 董卓を殺すって……!」

「玄徳様は朝廷の内情をご存じでしょうか?」

 詳しくはないが知らない訳ではない。現在、漢王室は宦官の専横により荒れ果て、天下は黄巾党によって乱が勃発、朝廷では暗殺やらが続く日々。宦官が力を持ち、皇帝は幼く、その周囲が政治を動かしている。民は貧困に喘ぎ、苦しむばかりだ。誰もが漢王室の打倒を願うのは仕方がないとも言える。貂蝉の言葉に劉備は少しだけならと返した。

「董卓は黄巾党に破れ朝廷へ戻って来た時、宦官が一掃されようとしている事を知りました。そしてその混乱に乗じて宦官の一人は皇帝とその弟を連れ去り、董卓がこれを取り返したのです」

「黄巾の乱での償い、そして董卓の天下が始まった訳か」

「はい。誰もが董卓に逆らえません。董卓がこんな辺鄙な田舎にいる意味はただ一つ。自分が狙われると知っているのです。董卓とて馬鹿ではありません。董卓の側近には彼の寵臣で養子の豪傑・呂布がおりまする。彼に朝廷での事を報告させ、自分は辺鄙な田舎で女達と友に遊ぶ――今が好機だと我が養父は言います」

 董卓は女が大好きだ。男で女が嫌いな人間はいない。劉備とて女への興味は人並みにある。その女達と共に遊ぶ屋敷をこの村に作ろうとしている。自分に、部下に、奉仕させるために。そんな事になったらここは娼館の村になるだろう。貂蝉は劉備の両手を握り、劉備の目線に合わせて顔を近づける。

「玄徳様! わたしに力をお貸しくださいませ! 董卓を討ちたいのです。さすれば、董卓の力を失った甘家はこの地への支配もなくなり、甘家はただ没落し落ちぶれるでしょう。そうなればこの村の人々が苦しむ必要はございません!」

「だが、そんな事になったら俺の母上は……」

「ご安心くださいませ! 我が父・王允は司徒の地位を持つ官吏。董卓を討った暁には――いえ、覚悟なされた暁には洛陽への手配、医者の紹介、母君を安全な場所へ保護させていただきます」

 もちろん、お金も何も要りません。わたしはただあなたに董卓を討って欲しいだけなのです。今、洛陽でも董卓暗殺の動きが出ておりますが、彼らは自らの保身ばかりで中々動きませんと貂蝉は憂慮した顔で嘆く。

「董卓は洛陽の富豪から金品強奪、村祭りに参加していた農民虐殺――などその他を挙げればきりがないほど悪逆の限りを尽くしています。もし、誰も董卓を倒せなければ……」

「――董卓が皇帝になる、だろうな。貂蝉殿」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る