ああ、神よ、お前を殺したい

■■■■


 ――翌日、劉備は不安に狩られるがまま甘家の屋敷にいた。呼び出されたからである。村の北にある巨大な屋敷、それが甘家の家だった。荘厳な建物、衛兵が二人置かれており、敷地内にも武装した兵士達が警備に勤しんでいる。劉備は短髪の奴隷に案内され一室へ。中央にある椅子に腰掛けては家主を待つ。奴隷が茶と軽食を出してくれたが、劉備は手をつけようとは思わなかった。彼が奴隷だからではない、口につける気がしないのだ。

 部屋には数人の奴隷が控えている。彼らの姿はみすぼらしい姿。丈の短い上衣と下衣を纏い、長かったであろう髪は首筋あたりまでしかない。絢爛豪華な部屋と彼らは非常にちぐはぐとしていた。それから数分経った頃、一人の恰幅のよい男が二人の女性を伴って現れた。

「待たせたな、劉備よ」

「今来たところだ。別に待ってない」

 恰幅のよい身体に綺麗な衣服。官吏の服を着用しており、脂ぎった顔に顎の周りには汚らしい髭が生えている。男は椅子にどっかりと座り、二人の女性はその後ろに控える。右に控えるのは男の愛妾・貂蝉(ちょうせん)。桃色の漢服を纏う、若々しい少女だ。左には黒い髪を一つに纏め紺の深衣を着用している女性だ。甘家のご息女・甘梅(かんめい)。二人は男のお気に入りだった。そして男の名は悪名高い官吏、董卓。先日黄巾党に負けた男である。そんな男、董卓は甘家と密接している。

「そうか。ならよい。劉備よ、金は集まりそうなのか? わしはお前の母親が気がかりじゃ。早く助けてやりたいものだが、わしらはこの荒れた国を正さねばならん」

「もうすぐ集まる。あと、数回盗みを繰り返せば洛陽にも行ける。医者の方は俺の知り合いが見つけてくれる」

「ほう、もうすぐとな」

 董卓は貂蝉の腰を掴み己へ引き寄せ彼女を己の膝へ乗せると乱暴に頬を掴み、脂がこってりと乗った汚らしい口で彼女に口づけた。貂蝉は抵抗もせず、ただ董卓の口付けを受けている。不愉快なのは言うまでもなかった。

「ならば、終わればどうするつもりなのじゃ、劉備」

「終わったら……俺は盗みからは手を引く。母上を悲しませたくないからな。ちゃんと勉強して、自首するつもりだ。母上が治ったら俺は罪を精算しなくちゃならないからな」

 罪をそのままにするつもりはない。いつか何処かで返ってくる。だから、劉備はその罪を何処かで支払わなければならない。

「劉備よ、わしの部下になる気はないか? 母親の治癒が終わったら、わしの側近として取り立ててやろう。わしの養子になるのも――」

「悪いが断る。俺は官吏になるつもりもないし、この村から離れるつもりもない。それに、お前みたいな豚の護衛なんてまっぴらご免だね。俺は綺麗なものが好きだ。お前のような豚、誰が守りたいと思うかよ」

「貴様――ッ!」

「戦に弱いお前の下についても負けるだけだ。部下になるなら、荊州で黄巾党相手に優勢を勝ち取っているとかいうあの曹孟徳の方がマシだね」

 董卓は貂蝉を乱暴に突き飛ばし、彼女は甘梅に受け止められる。劉備は董卓によって胸倉を掴まれ汚らしい豚の顔を近づけられた。

「このわしを愚弄するか、農民風情が! 貴様を売って奴隷に落としてもいいのだぞ! 幸い、顔は悪くない。その女顔ならすぐに売れる」

「は、やってみろよ。出来るものならな!」

 劉備は董卓を蹴り飛ばし、その手を離させた。甘梅は床に転んだ董卓に寄り添う。

「だがお前は喧嘩しに俺を呼んだ訳じゃない。別の目的があるだろう。何なのだ、さっさと言え」

 董卓は劉備を睨み上げながら唇を噛み締める。だが目的のために屈辱を飲み込んだのだろう。彼は甘梅に支えられながら立ち上がり、彼女を己の胸へ引き寄せた。

「劉備、わしは甘梅の夫となる」

「は?」

 それが何なのだ。いきなりの結婚報告に劉備は意味がわからなかった。結婚くらいどうぞ、勝手にしてくれである。

「甘梅と婚姻し、この甘家の当主となる。今の当主では到底甘家を操る事など出来ぬからな。そしてこの村にわしの屋敷を建てる。女はわしの妾、男は兵士とする。老人、病人は使えぬから斬首じゃ」

「っ――おいッ! お前!」

 わかった、そうか、董卓は最初からこのつもりだったのだ。甘家へ取り入った意味も、黄巾党に負けた意味も劉備はすぐに理解した。この土地を自らのものとするために、彼は甘家の娘・甘梅と婚約するつもりだ。甘家にとって断る理由はない。董卓という官吏の庇護に入れば甘い蜜が吸えるのだから。

「何、貴様の母親だけは見逃してやる。だが他は見逃さぬ。労働力にならない老人など生きている価値もない。劉備よ、わしはこれでも優しいつもりだ。貴様のような子供を信じて、使ってやっているのだからな」

 甘家の主は董卓ではない。だが婚姻すれば董卓が主となる。母を守れる保証はない。劉備は先ほどと違い焦燥感に狩られた。こういう時はどうするべきか。母だけではない、村人も、村も人質に取られている状況。これは、男の言っていた事、関羽が言った事、少し当たっているのかもしれない。

「む……村人に、手を出すのは止めろ。母上にもだ」

「ほう、ならばどうする?」

「俺が働く、今まで以上に。盗みも今まで以上にしてみせる。だから――」

「わしが求めているのはそんなものではない。なあ、貂蝉よ」

 答えを求められた貂蝉は髪を揺らしながら目を伏せ「はい、仲穎(ちゅうえい)様」と澄ました顔で返し、ですが――と言葉を発した。

「仲穎様、この村で惨殺をすれば朝廷が黙ってはいないでしょう。わたしから提案がありますわ、仲穎様」

 村人に金を稼がせるのです。殺すより収入を得た方が得となるでしょう。ですが、命じただけでは誰も動かない。ですから、劉玄徳様を人質に取ったと村人に触れ回る。さすれば皆従うはずです。従わなければ若い者を一人見せしめとして殺すといいでしょう――と貂蝉は淡々と策を董卓へ伝える。

「玄徳様は仲穎様の恐ろしさを既に知っている。逆らうような真似は、しません」

「なるほど。流石貂蝉じゃ。……甘梅、早速兵を動かすのじゃ。よいな」

 甘梅は頷き、部屋を出ようとするが劉備は瞬時に甘梅の腕を掴んで止める。

「そんな事させるか! 俺が、俺が全てやるから、何でもするから、村には手を出すな!」

 董卓は汚らしい顔を歪め、口角を上げると貂蝉を見つめる。彼女は口元を手で覆い、そうですねと言葉を漏らした。

「玄徳様が仲穎様にもたらした利益は大きい。それを反故にすれば天は許さないでしょう。ですから期間を設けてみてはいかがでしょうか?」

 董卓は少々不服そうな顔をするが貂蝉の言葉はもっともだったため、それを受け入れる。彼とて朝廷を敵に回す事はよしとしない。そんな事をすれば出世どころではないからだ。貂蝉の提案は、劉備にとっても救いであった。

「――玄徳様、あなたに村を売りましょう。あなたは仲穎様に大金を持ってきてください。そうすれば村は助かり、誰も死にません。期間は一ヶ月。金額は五億。あなたの力があればすぐに購入出来るでしょう」

 五億。劉備はふざけるなと吐き捨てた。五億とは劉備が母親を治すために目標としている金だ。今溜まっている金額は四億八千万。五億はすぐに揃えられる。だが、そんな事をすれば母親は――、いや、村が優先だ。劉備は俯き、拳を握り締める。断る事も出来ず、かといって母親を諦める事も出来ない。

「……わかった。一ヶ月だな、それまでに集めてやる。だが約束は必ず守れ」

「もちろんじゃ」

 董卓は汚らしい肥えた顔を歪め、嗤う。劉備はそんな彼の顔を瞳に刻みつけながら屋敷を後にした。ああ、腹立たしくて仕方がない。

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