それでも、私は

 後ろから響いた重低音の声。聞き慣れた声だ。振り返ればすぐ真後ろに男が立っていた。劉備が先日庭で会った男である。貂蝉はいきなり現れた男に驚き、警戒し、懐から匕首(短刀)を取り出した。相変わらず、神出鬼没な男である。

「安心しろ、俺は劉玄徳殿の味方だ。劉備殿がお前に味方するというのなら俺も知恵を貸そう。普段ならこんな年代から劉備殿以外には合わないが……お前はどうやら劉備殿を危険な目に遭わせようとしているようだからな」

 男は劉備の前へ出ればじっと貂蝉を見据える。まるで睨み付けるように。

「劉備殿、ダメですよ。あの女は劉備殿を董卓に狙わせ退っ引きならない状況を作り出そうとしています」

「あなたは誰ですか……ッ!」

「俺か? 俺は、法正(ほうせい)。字は孝直(こうちょく)。劉備殿を守る男だ」

 男・法正は眉間に皺を刻みつけたまま口角を少しだけ釣り上げ人相の悪い顔を浮かべる。普通にしていれば端正な顔なのに、ここまで変われるものなのかと劉備は感心した。

「俺は劉備殿が選択する事なら文句は言わない。危険な事じゃなければな。……だが、貂蝉殿、劉備殿を危険な目に遭わせたら俺はお前を殺す。死を持って報復してやる。お前が女だとか、司徒の養女だとか関係ない。俺にとって劉備殿は死なせる訳にはいかないお方だ」

「もちろん、わたしも玄徳様を死なせるつもりはありません」

 わたしはお悩みである玄徳様に提案しただけです。わたしも玄徳様も董卓が居なくなれば安心出来る。わたしは父・王允への恩返しに、玄徳様は母君と村を救える。利害は一致しています、後は玄徳様次第です――と貂蝉は告げた。だが劉備はすぐに首を縦に振れなかった。確かに董卓を殺せば村も母も救われるだろう。貂蝉も嘘を言っているとは思えない。

 しかし、人を殺す事は行った事がない。携えている父の形見である双剣は、敵と戦うだけのもの。殺すためのものではないのだ。それに――理由はそれだけではない。

「貂蝉、俺もその作戦には賛同する。だが俺は董卓を殺せない。……俺は人を殺した事がないというのも理由だが、董卓には……少しばかりの恩がある」

 数年前、劉備が十歳になった頃の話だ。盗みを犯し、相手に捕まった事があった。そんな時にただの官吏だった董卓が助けに来てくれたのだ。別に董卓は劉備を助けようと思った訳ではない、たまたまそこに居て、たまたま劉備と敵の争いが視界に入って、たまたま義心が沸いた。それだけの話だろう。だが劉備は受けた恩を仇で返す事は出来ない。

「ですが玄徳様、あなたは先ほど董卓によって嵌められました。全てはあなたを縛り付けておくために。恩も何も関係ありません! 此処で留まり、考えていれば、大切なものを失います。……この荒れた時代、決断力が勝負をつけるのです」

 気がつかないうちに何かを失っている。そういう時代なのは劉備が一番知っている。父が死んだ時も己は何も出来なかった。母が病となった時もそうだ。

「――貂蝉殿、あなた達は董卓を失脚させたいんだろ。董卓が朝廷から居なくなり、力も兵力も失い、ただ民草と同じようになればいい……そうすれば董卓は皇帝に対しても何も出来ない。つまり、死していると同じだ」

「何が、言いたいのですか」

 貂蝉は美しい顔に少しの不愉快感を匂わせる。法正の言葉の意味がわからないようだった。それは劉備も同じだ。そんな彼女の心すら読んでいるように法正は己の胸に手を添え、恨みを孕んだような声色に言葉を乗せた。

「この法孝直が、殺さずにして董卓を失脚させてやるよ。こう見えて俺は策を考えるのは得意だ。だから貂蝉殿、あなたは甘家の方の監視を頼みたい」

「……董卓を失脚させても彼は周りから処刑されます。誰もが彼に恨みを持っています」

「ああ。だから、別に劉備殿が殺さなくても勝手に殺される。俺はその手伝いをするだけだ。俺が報復するような人間じゃない」

 それなら貂蝉達が董卓を討ちたい願いも、劉備が董卓を討ちたくないという願いも達成される。法正はたった少しの会話で二つの願いを叶える策を提示してしまった。この男は――意外と凄い人物なのかもしれない。

「だが、俺の策だって完璧じゃない。劉備殿に危険が及んだその時は、俺は劉備殿を連れて手を引く。劉備殿を死なせる訳にはいかないからな」

 どうしてそこまでして守ろうとしてくれるのか劉備にはわからなかった。そこまでして守る命でもないのに。だが、法正の言葉は少し嬉しい。

「貂蝉、この男の言う通り殺しはしない。それ以外なら手伝うぜ。俺は、ただ村と母上を救いたいだけだ」

 それで十分だと貂蝉は首を縦に振って頷く。法正も納得したようだった。法正が一瞬振り返り恐ろしい顔で村の方を睨み付けていた。その意味を劉備はわからなかったが、彼はすぐに表情を戻し僅かに微笑みを漂わせる。

「――では、劉備殿を悲しませる董卓に報復を始めましょう」

 画して劉備達の董卓暗殺作戦が立ち上がった。


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