第22話

やまなみ賞へ向けての調教が始まった。

それまで曳き運動だけだったゴーヘーは走りたくて仕方がないらしく、アンチャンが必死になだめてハッキングしようとしてるのに、口を割って抵抗してる。

それでも最後にはアンチャンの言うことを聞いてるんだから、いくらか大人になったんだろうなあと思う。

前だったら尻っぱねしたりラチに吹っ飛んでったりで大暴れしてただろうから。


「ずいぶんと力つけて帰って来ましたよー。手綱引っ張ってるだけでもう手がしびれちゃって」

ゴーヘーから降りて来るなり、アンチャンは苦笑いしながらこう言った。

お前、アンチャンの言うことも聞かなかったのかい?

俺はそう言いながらゴーヘーを洗い場へ引っ張っていく。

ゴーヘーはまだ走り足りないと言わんばかりに首を上下に振る。

「そのうち思いっきり走らせるから、今日は我慢だぞー」

アンチャンがなだめにかかる。

それで納得したのか、ゴーヘーはおとなしく俺に曳かれて洗い場へ歩く。

もっとも、まだ寒い今の時期に洗ってもいられない。

顔や目の周りを濡れタオルで拭いて、後はブラシをかけるだけ。

せめて屋内にシャワーでもあればなあとは思うが、そんなカネが組合にあろうはずもないことはみんな知ってる。

なにせ、厩舎だって建て替えを惜しんで補修しながら使ってる現状だ。

仕方がない。出来ることをするだけだ。

ブラシを持つ手に力を込める。


ブラッシングと手入れが終わればゴーヘーを馬房に戻して馬着を着せる。

あまり嫌がらずに着てくれるのは助かる。

チーコは最初の頃ずいぶんと馬着を嫌がって着てくれなかった。

なだめすかしてなんとか着せても、すぐに歯で破ろうとしたものだ。

その時の苦労を思えば、すんなり着てくれるだけでもありがたい。

……っと、そんなこと言ってる暇はないな。

飼葉をつけて、脚元のチェックをしなくちゃだ。


仕事を一通り終えて大仲に戻ると、先生と番頭が作戦会議中。

お疲れ様ですと声をかけると、先生がすまなそうな顔をこっちに向ける。

「おお、キミに謝らなきゃならんことが出来た」

胸がドキリと鳴る。まさか……。

「キミの担当もう少し増やそうかって話をしてたんだが、ゴーヘーで大変だろうからもうしばらく2頭持ちのままだ。すまんなぁ」

ああ、そういうことか。

大丈夫ですよ。3頭持ちでゴーヘーに手が回らなくなるよりはいいです。

そう返事をしながらソファーに座る。

実際、手の遅いことは自覚してる。

同僚がテキパキやれることもなかなか思うように出来てない。

それを思えば、3頭持たされたらたぶん手が回らなくなるだろう。

稼ぎは悪いが致し方ない。もっと頑張らなきゃ。


「その代わりと言っちゃなんだが、雑用的なことはみんなキミにお願いすることになりそうだ。そんな役回りだがやってもらえるかな?」

もちろんです。やらせていただけますか。

「それを聞いて安心したよ。それでゴーヘーのことなんだが」

ホッとしたところにまだなにかあるんだろうか。

一瞬身構える。

まさかやまなみ賞回避……?


「そろそろきちんと競馬を教えなきゃいかん時期だ。なので調教にはアンチャンだけでなく番頭にも乗ってもらうことにした。当然ゴーヘーはいい顔しないだろうが」

ああ、そういうことか。

「体は育成場できっちり乗ってもらったから問題ないが、競馬行っていつまでも若いとこ見せてるわけにもいかんしな。それでキミにはその後のケアを頼みたいんだ」

気に入らなければゴーヘーは暴れる。馬房に戻ってもしばらくは怒ったまま。

なだめ役は必要だよな。

もちろん、それが出来るのは俺とアンチャンぐらいだろう。


承知しました。なんとか競馬覚えてくれるといいんですがね。

そう答えると、番頭が妙に神妙な顔つきでこんなことを言い出した。

「どんな競馬したいかはゴーヘーと相談して決めるが、何かあったら後の事は頼んだぞ。確実に俺落とされるからな」

その顔がおかしくて、俺と先生は揃って噴き出してしまう。

「先生、そこは笑うとこじゃないでしょ!」

顔を真赤にして先生に詰め寄る番頭の格好ががおかしくて、俺も先生も笑いが止まらない。

笑い声を聞いてやってきた同僚たちは「まーた番頭さんの後は頼んだが出たのかぁ」と笑ってる。

番頭が大事な調教に乗るってときはいつもこうだ。

だからうちの厩舎は笑いが絶えない、賑やかなとこだってよく言われてる。

成績と関係ないとこで笑いが絶えないんだから、あまり褒められた話ではないんだけど。


次の日から、早速番頭がゴーヘーに乗ることになった。

案の定、ゴーヘーは尻っぱねをして嫌がる。

番頭が乗るのは納得してないようだ。

アンチャンは別な馬に跨ってゴーヘーの横につく。

併せ馬の状態で折り合いをつける稽古だ。

だからペースは早くない。

俺は馬場の入り口近くで見守ることにした。

幸いチーコの調教は終わった後だし、今は雑用もない。


馬を外側に置いたゴーヘーは前に出ようとするが、番頭がぐっと手綱を抑える。

当然のようにゴーヘーは抵抗するけど、番頭は容赦なく手綱を絞る。

まだ前に出るのは早いって教えてる。

2歳のときなら能力の違いでどうにでもなるところだけど、これからはそうは行かない。

テンの速さで敵わないのが出てくるかもしれないし、競りかけて潰しに来るのもいるだろう。

それに負けないよう、我慢することも覚えてもらわなくちゃいけない。

わかっちゃいるんだけどね。


でも、ゴーヘーはずっと耳を絞りっぱなし。

しばらくその状態で走ってたが、3コーナーの入り口で番頭が手綱を緩めたのだろう。

ゴーヘーは体全体を沈ませて、ぐんと前に出る。

そのまま、アンチャンの馬を置いてきぼりにして吹っ飛んでった。

ゴーヘー、相当怒ってんなぁ……。


調教を終えたゴーヘーが帰ってきた。

アンチャンの乗ってた馬は同僚が引き取って一足先に洗い場に向かってる。

問題はゴーヘーだ。

早速降りてきたばかりの番頭に噛みつこうとしてる。

両方のハミ環にかけた引き綱を開くように引いて、ダメだと叱る。

わざと怒った顔をして。

こっちにも向かってくるようなら、後ろにいる同僚がロングステッキを使ってくれるだろう。

こんなときは甘い顔をしちゃいけない。


俺の顔を見たゴーヘーはとりあえずおとなしくなった。

それを見た番頭が声をかけてくる。

「さすが、お前の言うことは聞くんだなあ。俺の言うことはさっぱりなのにな」

そんなことないですが、落とされなくて良かったですよと返すと、番頭は心底ホッとした表情を見せた。

「ずっと怒りっぱなしだったが、ギリギリのとこで踏みとどまってくれたよ。まあ、ちょっとは成長してるみたいだ」

番手で競馬出来るくらいにはなりたいですよね。

「だなあ。たぶんやまなみ賞にはそれなりのメンツが揃うし、楽な競馬にはならんだろう。それなりに備えておきたいもんな」

番頭はそう言うと、俺の耳元に顔を寄せる。

「だが、あれだけの馬力だからな。ここらの男馬じゃ相手にならん。安心しな」

俺にしか聞こえないくらいの小声でそう言うと、番頭は引き上げて行った。


午前の調教が全部済んで外へ一息つこうと出たところで、アンチャンが誰かと話をしてるのを見かける。

遠目でよくわからないが、あの背格好なら騎手だろう。

大方どこか飯でも行く話だろうと思って見ていると、話の終わったアンチャンがこっちに歩いてくる。

「あ、見てたんですかー。ご飯なら付き合いますよー」

ああ、てか、いま話してたのって……?

「あー、ボクの兄弟子なんですよー」

アンチャンはそう言うと、遠くを見た。

「ボクが前の先生のとこで辛くされてたときに、あの人だけは味方だったんです。他の先生から頼まれた馬もいくらか回してもらいましたし、こっちに移るって言ったらずいぶんと励ましてもらいました」

それじゃあどっかで恩返ししなくちゃだよな。

「はいー。……でも、やまなみ賞に兄弟子も乗るって聞いて……」

そっかぁ。

俺もそれだけ言って黙ってしまう。

騎手じゃないからいいアドバイスなんて出来るはずもない。

だが……。


「ゴーヘーで勝って、ちゃんと頑張ってますよって見せるのも恩返しなんだぜ。頑張ってるとこ見せようや」

いつの間にか後ろにいた先生がこう言ってくれた。

「そうですよね。頑張りますー」

アンチャン、そう言って笑顔になった。

「番頭から稽古の出来は聞いてるが、ゴーヘーはどうだい?」

あ、はい。馬房戻して飼葉つけたら落ち着きました。今のとこ問題なさそうです。

「それなら大丈夫だな。この調子で作っていくぜ」

承知です。きっちり勝ちに行きましょうね。

「おうよ。もとより負けるつもりなんかハナからないがな」

先生はそう言って笑った。

俺もアンチャンもつられて笑った。


馬房に引き返してゴーヘーの様子を見る。

飼葉を完食して満腹らしい。うとうとと船を漕いでいる。

俺が来たのにも気づかないようだ。

なあゴーヘー、ここからが大事なんだぞ。

次のレースで勝たなきゃ、胸張ってここで一番なんて言えやしない。

きっちり勝って、お前が一番だって見せてやんなきゃだ。

そう言ってみたが、ゴーヘーは寝たまんま。

怒りすぎて疲れたかな。

そのまま起こさずに厩舎から出る。


まだ風は冷たいが、やまなみ賞の頃にはもう暖かくなってる。

それまでにゴーヘーがどれだけ競馬を覚えてくれるか。

いや、それまで何事もなく過ごせるか。

手が遅いとかうまくいかないとか言ってられんな。

そんなことを思いながら、昼飯を買いに出ることにした。

やまなみ賞まであと1ヶ月半。

何事もなく過ごせるよう、出来ることをするだけだ。

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