第23話
やまなみ賞まで一週間を切った。
ゴーヘーの調教は順調に進んでる。
もっとも、番頭が落とされそうになったりするのはいつものことになったし、気に入らない事がだいぶ増えたような気がする。
つまり、暴れて肝を冷やす同僚が増えるってこと。
俺はそういうものだってわかってるし、同僚にもそうやって伝えてはいるんだけど。
でも、担当してみなきゃわからんからなぁ……。
今日も、俺がチーコの脚元をチェックしている間に同僚が気を利かせてゴーヘーの飼桶を片付けに行ったら、思い切り暴れられたとボヤいてる。
「ゴーヘーは相変わらずっすねぇ。いきなり耳絞ってガーッて来ましたからねぇ」
俺よりは年下だがキャリアはうんとある同僚が、こんなこと言いながらやってきた。
平静を装ってはいるが、顔には恐怖の色が浮かんでる。
「食い終わって寝てるからと思ったんすけど、まだ置いておいた方が良かったんすか?」
いや、片付けてもいいんだよ。タイミングが悪かっただけさ。
「そこら辺は俺らじゃわからんですもんねぇ。俺も修行が足りんなぁ」
同僚はそう言いながら、空の飼桶を3つ4つ抱えて出て行った。
……だいぶストレス溜まってんだろうなあ。
休む前まではアンチャンが稽古もレースも全部乗ってくれてたから、そこまでじゃなかったけどさ。
今は番頭が競馬を教えながらだから、どうしたってストレスは溜まるだろう。
番頭が曳いてるときはそんなに暴れることもないんだけどね。不思議なもんだ。
とはいえ、このままじゃ良くないことは誰が見たって明らかだ。
調教の終わった空き時間に、俺はゴーヘーの馬房へ向かった。
俺が近づくだいぶ前から足音を聞きつけたと見えて、ゴーヘーは馬房から顔を出した。
そして遊んでくれとばかりに前がきをする。
……やっぱりなぁ。
馬房に近づくと鼻先をぐっと俺に押し付けて来る。
その鼻先を手でなでて遊ばせる。
噛まれたらその時はその時だ。今はゴーヘーをリラックスさせるのが大事。
そう思って立ってるが、噛み付いては来ない。
なあゴーヘー、しんどいよな。
だが、今頑張ればもっと強くなれるんだぞ。
頑張ってオーナーさんに恩返しせんといかんからな。
そう言うと、ゴーヘーはうんうんと頷く。
ホントにわかってんのかぁ?
そう言うと、またうんうんと頷く。
わかってんなら番頭落とそうとすんなよな。
お前に勉強教えてんだからさあ。
すると少し耳を絞りにかかる。
よっぽど番頭に乗られるのが嫌と見える。
安心しな。競馬じゃ番頭乗るわけじゃないんだからさ。
競馬はアンチャンが乗ってくれるんだから大丈夫だって。
そう言うと、ゴーヘーは安心したような顔をした。
「お、やっぱここにいたか。仕事熱心な厩務員さんはやることが違うねぇ」
声がしたんで振り向くと、入り口には馴染みの記者が立ってる。
そんなんじゃねぇよ。まあコメント取りに来たんだろ?
「ん~……。ゴーヘーの稽古にずっと番頭さん乗ってるから、どうしたのかなってな」
ああ、そりゃ気になるか。
「大方覚えさせることがあるんだろうけど、番頭さんも熱心だよなあ」
ん?そうかい?
「あの人が調教乗るのって、新馬かここ一番って時だけじゃん。ゴーヘーにとっちゃ次は通過点だろうし、こんなに力入れてるとはなあってな」
通過点ったって、勝てるかどうかはわからんもん。
それに、覚えてもらわなきゃならんこともいっぱいあるよ。
まだまだ子供だもん。
「そっかぁ……。じゃあコメントは追い切りの後にもらいに来るわ」
なんだい、コメント取りに来たんじゃないのかよ。
「この後後輩が寄るって言ってたから先に様子見に来たんだわ。後でよこすから頼むわ」
そういう事か。了解。
「もっとも、俺もゴーヘーが好きなんだよ。頑張ってほしいし、ここらじゃ負けてほしくないからなぁ」
うん。負けんようにやるよ。ありがとな。
そう言うと、記者は「ありがとうございましたー」と新人みたいな挨拶をして出て行った。
午後の作業が終わった頃に、今度は女性記者がやって来た。
「こんにちはー。ゴーヘーくんに会いに来ましたー」
そう言うと、彼女はまっすぐ俺の方に向かってくる。
「今日はブログの取材なんです。ゴーヘーくんの復帰戦ですし、記事にしなきゃって」
そう言う彼女の手にはカメラが握られている。
写真も撮って行くの?
「はい、ゴーヘーくんのオフショットが見たいって読者さんからいくつもリクエスト頂いてまして……よろしいですか?」
ああ、暴れてなきゃいいよ。
そう返事をして、彼女をゴーヘーの馬房に連れて行く。
満腹でうたた寝をしてたゴーヘーが、俺の足音で目を覚ます。
そして、馬房から顔を突き出してきた。
「この前と違って、今日は顔を出してくれるんですね」
ああ。最近稽古でだいぶやっつけられてるからさ。俺の顔見るとこうなんだよ。
そう言うと、彼女はびっくりしたような顔をする。
「やっつけられてるんですか?」
競馬を覚えてもらってる最中だからね。納得行かなくても言われたとおりに走ってもらえるように、勉強してるんだよ。
でもこの性格だから、だいぶ番頭がやっつけてるみたいだ。
「そうなんですねぇ。でも、ゴーヘーくんはへこたれないんですよね?」
そうだね。馬房戻ってからコンチクショーって暴れてるけどさ。
そう言うと、彼女は「まるで子供みたいですねぇ」と笑う。
そうだなあ。まだ子供みたいなもんさ。
人の好き嫌いは激しいし、自己中心的なとこもあるし。
今の稽古が大事なことなんだってわかってくれてたらいいんだけどね。
「きっとゴーヘーくんもわかってると思いますよ。前とだいぶ顔つき変わりましたもの」
彼女はそんなことを言いながら、カメラのシャッターを切る。
「なんかこう……、大人になったなあって気がするんですよ」
そうかい?そんな急に大人になるわけないよ。
もしそう見えるんなら、馬かぶってるだけ。こいつはそういうこともするからね。
「えー、それは意外です。でも読者さんには内緒にしておきますね」
彼女はそう言って笑った。そしてこんなことを言う。
「ゴーヘーくんのファンって結構多いんです。中央に走りに行ってから、ゴーヘーくんの記事はよく読まれてるみたいで」
そっかぁ。中央に殴り込みするのも、ここらじゃまずいないもんねぇ。
「はい。だから読者さんの中でもゴーヘーくんがどんな馬なのか知りたいって声も結構来てるんですよ」
でも、馬かぶるのは内緒だと。
「あまり悪い事は書けませんからねぇ」
彼女はゴーヘーの顔を見ながらこう言った。
ゴーヘーはと言えば、そう言われた途端にこっちに尻を向けてしまう。
どうやら、ゴーヘーも言われた意味がわかったらしい。
俺たちはそんなゴーヘーを見ながら大笑いした。
次の日はゴーヘーの追い切り。
アンチャンが跨っての併せ馬。
馬場に出る前に先生がやってきて、「直線だけ気合つけて。そこまではナリでいいから」と指示が飛ぶ。
アンチャンははーいと返事をする。俺はゴーヘーに「追い切りだぜ。気合入れてけよ」と言いながら馬場まで連れて行く。
ゴーヘーもウォームアップでだいぶ気合が入ったのか、ずいぶんと鼻息が荒い。
アンチャンに「見ての通り。ビシッとやっちゃっていいからね」と言って引き綱を離す。
アンチャンは「了解ですー」と返し、ダクを踏みながらゴーヘーと馬場の奥へ向かって行った。
チーコの調教も終わったのをいいことに、俺は馬場の入り口近くに残った。
首に引き綱を引っ掛け、外ラチのさらに外側に陣取る。
もしゴーヘーに何かあってもすぐに駆けつけられるようにしよう。
そう思ったから。
「……まあ、先生が追い切りぐらいゴーヘーの気が済むようにしたいってさ」
いつの間にか横にいた番頭がこう言う。
「俺が乗って追い切ってもたぶんまともな時計にならんだろうし、一発ビシッと追うにはアンチャンの方がいいしな」
そう言いながら、番頭はスマホのヘッドセットを耳につける。
「時計出たら先生が教えてくれるってさ。たぶん51秒は切って来るだろうな」
番頭はこっちを見ずにそう言った。視線の先ではゴーヘーが気持ちよさそうにハッキングしてる。
先行する馬を見ながら、ゴーヘーは半マイルの標識からスピードを上げていく。
併せ馬の相手もスピードを上げるが、その差は見る間に詰まって行く。
4コーナーでぐんと身体を沈ませると、直線の入り口で相手に並びかけ、そのままの勢いで抜き去って行った。
すぐに番頭のスマホからブルっと振動音が聞こえてきて、何やら小声でやりとりしてる。
そして、番頭はやっと俺の顔を見てこう言った。
「半マイル50.5。十分だ」
十分どころじゃない。破格の時計だ。
「たぶんアンチャンだから相当気分良く走ったんだろうさ。じゃなきゃこんな時計にならん」
番頭はそう言いながら嬉しそうだ。
もちろん俺も嬉しいが、不安な気持ちもどこかにある。
頑張っちゃったからなあ……。
ゴーヘーを馬房に戻して飼い葉をつける。
がっついて飼い葉を頬張るゴーヘーを見ながら、俺は不安な気持ちの元を考えていた。
あれだけの時計を出したからには、確実にマークされる。
出てくるメンツは中央下がりや他からの転厩組が中心。
テンに速いのも2頭くらいいたはず。
ここまで番手で競馬出来るよう稽古はしたが、果たしてうまく行くかどうか。
狙い通りに馬体は出来たけど、ゴーヘーがどれだけ道中我慢出来るかはわからない。
思うようにならないのが競馬だが、出来るだけこっちの思うように運べるようにしたいと思ってやってきた。
そうなるかは、本番にならんとわからない。
気がつけばゴーヘーは飼い葉を完食して、遊んでくれと鼻先を出してきていた。
……考えてもしゃあないか。
そう思って、ゴーヘーをリラックスさせることにした。
今出来ることをやるだけ、だもんな。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます