第20話

ゴーヘーが放牧に出て1ヶ月。

ゴーヘーとチーコしか担当のない俺だったが、おっちゃんの担当だった馬を預かることになった。

ゴーヘーが戻ってくるまでの間ということだが、おっちゃんの馬も9歳。

先生がオーナーにそろそろ引退と言ったとか言わないとか、そんな話も聞いてる。

ゴーヘーが戻ってくるのが先か、それともこの馬の引退が先か。

そんなこともふっと考える。


おっちゃんはこの馬を「ぼっちゃん」と呼んで世話してた。

クレセントソードっていう格好のいい名前があるのに、厩舎じゃみんながぼっちゃんと呼んでる。

5歳でオープンに上がったぼっちゃんは、一時期うちのエースだったこともある。

今では年齢的なものもあってオープンじゃ厳しいんだが、使うとなれば仕上げねばなるまい。

幸いにして足元は丈夫だし、変なクセはないんだけど……。


馬場でよその3歳が騒いでる横で、一緒になって騒いでる。

気持ちが若いと言えばそうなんだけど、子供っぽいとも言える。

きっとおっちゃんはそういうとこも含めてぼっちゃんと呼んでたのかもしれない。


チーコとぼっちゃんの手入れを終えて大仲に戻ると、机の上には北海道のお菓子。

ああ、先生買ってきたのか。

好きに食えと張り紙がしてあるのもいつものこと。

体重管理がシビアな人は手をつけないが、すでに先客がいたと見えて数個なくなってる。

俺もひとつご相伴に与ろうと手を伸ばしたところで、後ろから声がした。


「お疲れ様でーす。……あれ、担当さんだけですかー」

アンチャンだった。

ゴーヘーが放牧に出てからも、うちの厩舎の稽古に付き合ってくれている。

今日もぼっちゃんの稽古に乗ってくれて、そのまま午後の仕事まで手伝ってた。

俺だけらしいわ。先生からのお土産、食う?

「いただきますー。好きに食えってのが先生らしいですねー」

だよなぁ。何も買って来ないわけじゃないし、食わん連中に押し付けるでもなしだ。

そうして、ふたりでソファーに座ってお菓子をつまむ。

それにしても、ゴーヘーだけかと思ってたのにな。俺たちは助かるけどさ。

「少しでも助けが出来てるなら良かったですよー。正直、ここに来られないかと思いましたからー」

アンチャンはそう言ってホッとしたような顔をする。

ゴーヘーのジュニアカップでしくじったと思ってたんだろう。無理もない。

でも、あれは故障だしな。アンチャンのせいじゃない。

だから、先生も他の馬を手伝ってくれって頼んだんだ。


「僕のせいだって言ってもらった方が気が楽だったかもしれないですー。もっと早くに気づけてたかもしれなかったんですからー」

いやぁ、毎日見てる俺らでも気づかないんだもん。仕方ないさ。

そういや、自分とこの厩舎には乗らんの?稽古ぐらいは乗れるだろうに。

「いやー、厩舎の馬はみんな兄弟子に取られてしまって、稽古でも乗る馬いないんですよー……」

アンチャンはそう言うと、寂しそうに笑った。

アンチャンも苦労してんだな……。


「お、アンチャンも来てたのか、なら丁度いいや」

そう言いながら大仲に先生が入ってきた。

「入厩予定の2歳見るついでに、ゴーヘーに会ってきたよ」

先生はそう言いながら自分でコーヒーを淹れ、ソファに腰を下ろす。

「管骨の炎症は大したことなくて、もう乗り込み始めてるって。でかい坂路にも入ってるそうだ」

先生はいかにも嬉しそうだと言わんばかりの表情だ。

「それにしても、すごい育成場だったぞ。でかい坂路にトレッドミル。獣医さんも2人いて万全の態勢だ。あんなとこで育てられたら中央でも交流重賞でも勝てるよなぁ……」

そんなすごいとこによく入れられましたね。何かコネでもあったんですか?

「オーナーが馬主仲間から評判を聞いてたらしくて、そこに放牧出来ないかって聞いてきたんだわ。俺も初めてだったけど、問い合わせしたらちょうど馬房が空いたからどうぞってさ」

ツイてましたね。それでゴーヘーは向こうで暴れたりとかしてませんでしたでしょうか。

つい聞いてしまう。

「全然。大人しくて拍子抜けしたって場長さんも言ってたわ。若くて情熱的な場長さんでなあ。とっても熱く話をしてくれたよ。あの眩しさがうらやましいぐらいだ」

先生はそう言って少しだけ遠い目をした。


「ゴーヘーは元気そうでしたか。いつ頃戻せそうですかね?」

番頭も奥から顔を出してきた。休んでた同僚の代わりに寝藁を上げてたらしく、顔に藁の切れ端が飛んでる。

「そうだなぁ……。何もなければ来月あたりになるかな。そこまでには馬房も空くだろうしさ」

3月に戻るとすればそこから仕上げて4月には出走出来るかな。ふっと考える。

いや、まだ俺の担当になると決まってない。考えるのはまだ早い。

「はは、大丈夫。ゴーヘーはまたキミに頼むからさ。他にやりたい馬がいれば別だけども」

こっちの様子を見透かしたように先生は笑いながら言う。無論異存はない。

「来月だとそこから作って……。やまなみ賞狙いですか」

番頭がコーヒーをすすりながら言う。まだ顔に藁の切れ端がついたまま。教えていいものか悩む。

まるで気にしてない様子なのには感心するけども。

「間に合えば、な。やっぱ3歳の男馬ならここは狙わんといかんもんなぁ。よほどのことがない限りは出さんといかんだろ」

先生もコーヒーを片手にそう言う。ということは、戻ってきたらわりと強めの稽古になるかな……。

「それにしても先生聞きましたよ。すごい育成場だそうですねぇ。うちも2歳までそこで預かってもらえたらさぞすごい成績に……」

番頭が何かを想像してるような顔で話す。

「中央や南関東ならともかく、こんな田舎の競馬に使うんじゃコストが割に合わんだろう。オーナーさん方もそこはシビアだからさ」

先生は顔色一つ変えずにこう言った。だが、「とはいえ、ゴーヘーが頑張ればここのオーナーさん方も入れようかって考えるかもしれんよな。付き合いもあるから難しいとこだけども」とも言う。

育成場さんにとっても手がけた馬が走ってくれたらいい宣伝になるんだろうけど、ここじゃ宣伝にもならんかなぁ……。


その後は入厩予定の2歳馬の話やら先生の土産話を聞いて解散。

チーコやぼっちゃんの様子を見に行く。

チーコは相変わらずグイッポに余念がない。あんまりやるとまた腹が痛くなるんだぞと言いながら目につくところにジョリーボールをぶら下げる。

ほら、これでも噛んで遊んでな。

そう言うと、チーコは早速ジョリーボールをくわえにかかる。

それを見届けてから、ぼっちゃんの馬房へ。


ぼっちゃんは常に誰か来ないかと馬房から顔を出している。

誰かが近づけば遊んでくれと言わんばかりに前がきをする。

厩舎に来てからずっとこんな感じ。最初はまだ若かったからこんなもんだろうと思ってたし、いつか大人になるんだろうと思ってはいたんだけどね。

いっこうに大人にならんのが不思議なくらい。

そんなぼっちゃんを、おっちゃんはとても可愛がってた。

「ぼっちゃんが寂しがったらいかんからさ」と、たいがいの作業はみんなぼっちゃんの見てる前でやってた。

俺もそうした方がいいのかなぁ。

同僚たちは心得たもので、ぼっちゃんの馬房の前を通るときは遊んでやったりもしてくれるのだけど。

俺の担当だもの。俺もそうした方がいいよな。

そう思いながら外に出る。


雨上がりの鉛色の空。

土を固めただけの道には水たまりがいっぱい。

やけに水気を含んだ2月の風は冷たく肌を刺す。

早く春にならんかなとも思うが、もっと寒いところでゴーヘーも頑張ってるんだ。

俺も頑張らないと。

少しだけ、気合を入れ直した。


開催が始まった。

騎手連中も寒い寒いと言いながら顔に防寒のクリームを塗りたくってる。

もちろん俺たちにそんなものはなし。

初日のメインのパドックに、俺はぼっちゃんを曳いて出る。

格下との混走だが、オープンなのにぼっちゃんは笑ってしまうぐらい人気がない。

ここんとこずっと着外続きだもんなぁ。今回もそんなに状態上向いてないし、仕方ないか。

オッズ板を横目で見ながらそんなことを考える。

メインともなると、人気馬や人気の騎手には声援がかかる。


不意に「ぼっちゃーん、がんばれよぉ~」と声が聞こえた。

おっちゃん、来てるのか。

姿は見えないがパドックに来てるらしい。定年になったら開催のたんびに遊びに来るぞって話してたもんな。

ぼっちゃんも耳をくるくると動かしてる。

おっちゃん見に来てくれたぞ。いいとこ見せてやろうぜ。

ぼっちゃんに小さく声をかけた。

ぼっちゃんも気合が入ったようだ。少し目の色が変わってきた。

これなら勝ち負けはともかく、無様なレースにはならないだろう。

少しだけ期待を胸に、ぼっちゃんを本馬場に送り出した。


ぼっちゃんは今まで見たことのない大まくりを決めて4着に飛び込んできた。

戻ってきた騎手が「おっちゃんの前で恥ずかしいレースせんで良かったっすよ」と言ってたから、きっと騎手も心中期するところがあったんだろう。

先生もニコニコしながら「これで現役続行決定だな」と言ってる。

「ぼっちゃんは明日放牧に出す。開催終わったらゴーヘー戻すからな。準備よろしく願います」

胸が高鳴るのが自分でもわかった。

ゴーヘーが帰ってくる。

そう思うだけで、寒さも気にならない。

「おいおい、張り切るのはいいがまだ開催あるからな」と、横で番頭が声をかけてくる。

きっと、誰が見てもわかるくらいに喜んでたに違いない。

そう思って苦笑いしてると、先生は「育成場からは坂路に入れたおかげでだいぶ力つけたって報告受けてる。持ってかれんように気をつけるんだぞ」と言ってくれた。

承知です。負けないようにシメてかかります。

そう返事はしたものの、嬉しさは隠せない。

まだ開催は始まったばかりだが、こんなに開催終わりが待ち遠しいことはない。

早いとこ終わってくれんかなぁ……。

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