第16話

若鯱賞当日。

メインレースの出走なので、集合時間も午後の作業が終わる頃。

大仲の神棚に一礼をしてから準備開始。

「さあ、そろそろ重賞に行こうや」

先生が明るく声を掛ける。それを合図に俺はゴーヘーの元へ。


オーナーが用意してくれた空色のバンテージ。

今回は頭絡や手綱も同じ空色で揃えてもらった。

重賞だからとオーナーさんが特に用意してくれた馬具。ありがたく使わせていただく。

いつものようにバンテージを巻き、頭絡をかける。


こうしていつもと同じようにすることはいつも徹底してる。

ただ、いつもと違うのは俺がワイシャツにネクタイ姿だってこと。

さすがに重賞に普段着じゃ格好つかないからね。


馬装をつけ終わって、曳き運動で身体をほぐす。

ゴーヘー、いよいよ重賞だなあ。

今までより距離伸びるけど大丈夫だよな。

相手はお前よりキャリアあるけど心配ないからさ。

一番強いんだから、アンチャンとふたりでぶっちぎってこいよ。

そんなことを言いながら曳いて歩く。

ゴーヘーもうんうんと頷きながら歩く。

そうこうしてるうちに集合時間だ。

番頭も合流して、ふたりでゴーヘーを連れて行く。


パドックに出てみるとびっくりするほどのお客さんの数。

「さすがに重賞だなあ。人出がすげえや」

番頭が感心したような声を出す。

普段のガランとしたパドックとはうって変わって、今日はたくさんの人だかり。

「他からの転厩馬やらキャリア豊富なのを差し置いて一番人気だぜ。プレッシャーだなあ」

そんなことを言いながら、俺にもオッズ板を見ろと促す。

チラッと見たら単勝1倍台。途端に心臓がドキリとする。

大丈夫ですよ。ゴーヘーならやってくれますって。

わざと笑って返す。実際中間の稽古は十分に出来たし、馬体重も418キロと想定どおりで出せた。

少なくとも準備は万全に出来たはず。

「だよな。こんな大舞台に一番人気で出せるんだ。意気に感じなきゃだよな」

そうですよ。やれるだけのことはやってきたんですから。


周回の内側で曳いていると、ゴーヘーが外を向く瞬間に気づく。

オッズ板の前あたりで外を見てるようだ。番頭に確認してもらう。

「あれ、子供見てるみたいだな」と番頭が教えてくれる。

子供?珍しいですね。

「母親みたいな人と手つないでる子供がいるんだわ。ゴーヘーそっち見てたよ」

1周回って来る間に見てみたら、オッズ板の下に女性と手をつないでる子供がいる。

5歳くらいかな。お母さんが馬好きなのかな。

そんなことを思いながら周回を続けていると、その子から「ゴーヘーがんばれー」と声が飛んできた。

途端に緊張が走る。あまり大きな声ではなかったとはいえ、馬が驚いたら大変だ。

だけど、ゴーヘーは驚いた様子もなく、子供に向かってうんうんと頷いただけ。

「驚いたなあ。でもあんなちっちゃなファンがついてるんじゃ負けられんな」

番頭が苦笑いしながらこっちに話しかける。

ですね。あの子のためにも頑張ってもらわんとですねぇ。

俺もホッとしながら返した。

と同時に、ゴーヘーのテンションが少し上ったのを引き綱から感じる。

ゴーヘー、ゲートが開いたら本気出そうな。

それまでは抑えとくんだぞ。


「とまーれー」の合図でその場に留まり、アンチャンが来るのを待つ。

アンチャンがニコニコしながら驅けて来る。

メットの上にかぶせたゴーグルは、ゴーヘーの馬具とおそろいの空色のフレーム。

「ダート板買いに行ったらこの色があったんで、お揃いにしようかと思いましてー」

昨日アンチャンが調教に来たときに、そんなことを言ってた。

馬具を一揃いもらったと話をしていたから、自分も合わせようと思ってくれたのかな。

ありがたいよね。

そのアンチャンをゴーヘーに乗せてると、先生もやってきた。

「重賞だからって気負うこたぁねぇやな。いつも通り、任せたぜ」

先生はそう言ってニヤッと笑う。

番頭も「このメンツなら頭ふたつぐらい抜けてんだから気楽にな」と笑顔だ。

そうして、俺と番頭でゴーへーを本馬場へ連れて行く。


本馬場入場のBGMに乗って馬場に入る。

引き綱を離す直前になって、いつものようにアンチャンに声を掛ける。

いつも通りでいいからね。頼みましたよ!

アンチャン、にっこり笑って返し馬に入ってった。

それを見届けて、俺と番頭は待機所へ。


待機所のモニターの前は人でいっぱい。

さすがにフルゲートともなると厩務員の数も多い。

一応人数分以上の椅子はあるんだが、座って見ようなんて人はまずいない。

もちろん、俺たちも少しでもモニターに近いところに身体を押し込む。

ゴーへーは落ち着いてゲートに誘導されてったが、他の馬が嫌がってるようだ。

ゲートで待たされるなあ。しゃあない。

それでもなんとか全馬収まった。


ガシャン。

ゲートが開いて、ゴーへーはふわっとしたスタートからそのまま馬群の後方へ。

やべぇ、出遅れたか?

心臓が痛い。隣にいる番頭の顔も青くなってる。

おいおい、これ届くのかよ。

もう不安しかない。

アンチャンは手綱をしごいているが、どうやらゴーヘー自身に前に行く気がないようだ。

アンチャンと喧嘩すんなよ。言うこと聞いてくれよ。

そんな気持ちでモニターを見つめるしかない。


600の標識を通過するあたりで、ようやくゴーヘーが前に行きだした。

外に持ち出して追撃体制。

「よーしまくれぇ!ゴーヘー行けるぞ!」

番頭が声を上げる。それに合わせるかのように、ゴーヘーの身体がぐんと沈み込んだ。

4コーナーで馬群を一気に交わして逃げ込みを図る先頭に迫る。

さあ行けゴーヘー!

俺も声が出る。

短い直線で捕まえられるか。

ゴーヘーなら出来るはずだ。


そんな俺の思いに応えるかのように、ゴーヘーは直線の半ばで先頭を捉えると、そのままの勢いで先頭に立った。

そして2馬身ほど突き抜けたところでゴール。

ああ、重賞勝っちゃったよ……。

呆然としてると、番頭に「さあ馬取りに行くぞ」と肩を叩かれる。

番頭の顔を見ると「こんな事もあろうかと、追い切りでしまいまでびっしり追わせたんだ」と言う。

だけど、心底ホッとしたような表情だ。よほど心配したのだろう。

俺も心配で口の中がカラカラだ。

それでも引き綱を首にかけて、ゴーヘーたちを迎えに行く。


ゴーヘーに引き綱をかけると、アンチャンは開口一番「すみませんでしたー」と謝った。

「ゲート出てもふわふわしてて追っつけたんですが全然動いてくれなくて。残り600で火がついたみたいに行ってくれましたけど、正直届くかどうかは自信なかったですよー」

まあ、勝ったからいいよなと制し、ゴーヘーを褒めてやる。

検量所に着いてもアンチャンは先生に謝ってた。

「ゴーヘーがここから行けばいいからって言ってたみたいな競馬だったなあ。ともあれ顔洗っておいで。表彰式が待ってるぜ」

先生はアンチャンにそう促した。

オーナーさんは「あなたでしたからゴーヘーも安心して走れたんでしょう、もっと自信持っていいんですよ」とアンチャンに声を掛ける。

そして俺の方を向いて、こう言い出した。

「あなたのおかげで初めて重賞を勝つことが出来ました。ありがとうございます」

そう言うと、深々と頭を下げる。

いえいえ、特別なことはしてませんが……。

「いいえ、あなたでしたからゴーヘーもここまでの馬になれたのでしょう。あのやんちゃ坊主を重賞勝ち馬にしていただいたのですから」

こう言って、ニッコリと笑う。

大したこと、してないんだけどな。


初めて経験する表彰式は緊張そのもの。

アンチャンも初めての重賞勝ちで、インタビューでは声が裏返ってた。

先生や番頭は手慣れたもんだろうが、俺は右手と右足が一緒に出ないようにするだけで精一杯。

写真撮影まで終わったらだいぶ疲れた気がした。


厩舎への帰り道。

「ゲート出て正直今日はダメかと覚悟したが、よく伸びてくれたよなぁ。ゴーヘーに足向けて寝られんわ」と先生が言う。

まさかのまくり差しでしたもんねぇ。あんな力があるなんて思いませんでした。

「担当さんでもそうだろう?俺だってあんな差し脚あるなんて思ってなかったもんな」

そう言って小さく笑う。

「馬房帰ったらまたチェック頼むな。ともかくこれで暮れの川崎行きの切符は掴んだんだから」

はい。そこは念入りにやっときます。

こう言って、俺はゴーへーを洗い場につなぐ。


砂だらけのゴーヘーは早く洗ってくれと言わんばかりに前掻きをする。

シャワーをかけながら馬体をチェックすると、どうやら大丈夫そうだ。

歩様も問題なかったし、これなら少し休んだらまた使えるだろう。

そう思ってゴーヘーを馬房に戻し、飼い葉をつける。

飼い桶をセットすると、早速鼻先を突っ込んでがっついてる。

ハラハラしたけど、これでお前も重賞ウィナーだなぁ。

次は遠征になるだろうけど、頑張ろうな。

こう声を掛けて、馬房を後にした。


この後何が起きるかなんて、知るはずもなかった。

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