第15話

若鯱賞まであと1週間。

ここの競馬場で最強の2歳を決めるレース。

うちの厩舎じゃこれまでまったく縁がないレースだったと、休憩時間の大仲で先生は苦笑いしながら言う。

「だってさぁ、2歳でいいのなんてまず入って来ないし、来てもこの時期までに1つ勝てれば御の字だったからなあ。まさかここ使えるなんて思ってなかったよ」

番頭は「先生、早熟の馬は入れたがりませんしね」と笑顔で言う。

「そりゃそうよ。早熟で3歳までに売り切れるようなのはオーナーさんも長く楽しめないからな。やっぱ長く楽しんでもらえないとやり甲斐ないもんなぁ」

先生もそう言って笑う。

だからこれまで若鯱賞には出せる馬がいなかったと。


だが、今年は違う。

満を持してゴーヘーが若鯱賞に挑戦する。

古馬も含めて重賞に出るってことがあまりないので、先生も厩舎スタッフもみんな気合が入ってる。

もちろん俺も。

ところが、当のゴーヘーは相変わらず。

マイペースで気に入らないことがあると暴れる。

もっとも、ゴーヘーは次が重賞なんてこと知らないもんな。


次は距離が今より1ハロン伸びる。

だから、それに見合ったスタミナをつけさせる。

そのための稽古だから、今までよりも少し強度が上がってる。

……はずなんだけど。


飼葉をつければいつも完食。

強めの稽古でバテるなんてこともなく、ひたすら黙々と食べている。

食べるだけ食べたらいびきを掻いて寝るし……。

まったく、なんて仔なんだろうか。

これなら重賞だってなんとかなるかもしれない。

たとえ相手が強くても、ゴーヘーならやってくれる。

そんな気持ちになってしまうのも、この食べっぷりのせいかもしれない。


「こんにちはー。ゴーヘーくんに会いに来ましたー」

記者の後輩さんがやって来た。どうやらブログの取材らしい。

ちょうど午後の作業も終わって、こっちも手が空いてる。

おそらくは先輩にこの時間にしろって言われたんだろう。


「先生からは強めの稽古でやってるって聞いてきたんですが、ゴーヘーくんの調子はどうですか?」

オーバーワークにはならないようにしてるけど……まあ見て行きなよ。

それだけ言って、馬房の前へ案内する。

こちらが前触れなしに何かをしない限りは暴れたりしない。

それだけはわかってる。


「あー、ぐっすりですねぇ。だいぶお疲れですか?」

記者さんが馬房の前にいるというのに、ゴーヘーはいびきを掻いて寝てる。


最近はいつもこうなんだよ。食ったら寝るって感じでね。

「それだけリラックス出来てるんですねぇ。何か気をつけてることってありますか?」

気をつけてることかぁ……。

そうだねぇ。機嫌を損ねることはしないってことぐらいかな。

「機嫌を損ねるとどうなっちゃうんです?」

記者さんは興味津々という顔だ。


うん、暴れるよ、こいつ。

例えば、今大した用もないのに起こしたら間違いなく大暴れするね。この間も同僚がそれで噛まれそうになってたからさ。

「まだ2歳なのに、自分をしっかり持ってるんですねぇ。将来はゴーヘーくんにどうなってほしいですか?」

将来なあ……。


少し考えてしまう。

先生や番頭はすごく期待してるはず。大きなところに手が届いてほしいと思ってるだろう。

だが、俺はどうなんだろう。

期待してないとは言わないが、そういうのではないんだよな。

なんて言うか……。


そうだねぇ。ずっと元気で走ってもらえたらいいかな。

考えた末にこう答えた。

「おいおい、未来の年度代表馬を扱う厩務員がそんな無欲でどうするのよ」

先輩の競馬記者もやって来て茶化す。

「どうせなら来年のジャパンダートダービーを獲るぐらい言ってもいいのになあ」

そこまでの馬になれるかはわからんもん。

ただ……。

「ただ?」


たとえバリバリのオープン馬でもC3で頭打ちになっても、俺らのやることはそう変わらんからねえ。

引退の日まで元気に走れるようにすることしかないんだもんさ。

成績はあんま気にしても仕方ないしさぁ。

「でも、勝てば進上金来るじゃんね。次も勝ったらそれでパーッと……」

行かねぇよとツッコミを入れる。

「なあんだ、久しぶりにあんたのおごりで飲めるかと思ったのに」

それはそのうちな。もっとも、ゴーヘーがいるうちは難しいかもな。

「だろうなぁ。まあ、飲み会は期待せんで待ってるよ」

記者たちはそう言うと帰っていった。

果たして、あれで取材になったんだろうかとは思ったが。


競走馬が現役でいられる時期ってのはそんなに長くはない。

10歳過ぎても元気で走ってるのもいないわけではないが、レアケース。

大抵は入厩して4年もすればみんな引退してしまう。

「だから、それまでの間は何事もなく過ごさせたいよな。次につなげるためにもさ」

先生にそう言われたことがある。

ただ、どうやってもアクシデントはあるし、悲しい思いをしたこともある。

ゴーヘーやチーコにはそんな思いをさせたくないし、俺もしたくない。

そう思って、毎日仕事してるんだけどね。


追い切り当日。

アンチャンはゴーヘーに跨ると、「先生から一杯で追ってきてって言われたんですが、大丈夫ですかねー」と不安そうな顔をしている。

あれ、今まで一杯で追ったことなかったっけ?

わざとすっとぼけて聞いてみる。

「前走も本気じゃなかったですからねー。本気出したらどれだけ走るかわかんないですよー」

それを知るためにも一杯で行かんとね。頼みましたよ。

そう言ってゴーヘーたちを送り出す。


今回の追い切りも稽古駆けするのを相手に併せ馬。

俺はチーコの世話で見られなかったけど、またすごい時計を出したらしい。

「51秒切ったぞおい!」って先生がびっくりしてたぐらいだもの。

戻ってきたゴーヘーを受け取ってアンチャンに聞いてみた。

今日はこいつ本気出した?

「たぶん本気になったとは思うんですがー。まだ何か隠してそうな気がするんですよねー」

アンチャンはそう言って少し考えているようだ。

「もしかしたら、全部出せたらとんでもないことになりそうな気がするんですよー」

そう言って、アンチャンはそれが楽しみで仕方ないというような顔になった。


馬房にゴーヘーを戻してチェックする。

さして疲れた様子も見せずに飼葉をペロリと平らげるあたり、今回も本気は出していなかったのかもしれない。

次は重賞だし相手は前以上に強くなる。そこで本気を出せるかどうか。

いや、それ以前に万全の状態で重賞に出せるかどうか。

その先もあると思えば、お釣りなしで出すわけにもいかないしなぁ……。


俺の不安をよそに、当のゴーヘーは遊んでくれと矢の催促だ。

前掻きしたり首を振ったりと忙しい。よほど遊びたいらしい。

ここんとこ遊んでなかったもんなあ。

……夕飼いまでだぞ?

そんなことを言いながら、ゴーヘーの気の済むまで遊びに付き合うことにした。

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