第10話

大仲に賑やかな声が響く。

どうやら朝の調教が終わったらしい。

ハッとして跳ね起きる。

道具の片付けぐらいは手伝うはずだったのに、すっかり寝てしまったらしい。

なんたる不覚。

「あんまり良く寝てたもんだから起こさないようにしてたのになあ」と、同僚が笑いながらコーヒーをくれる。

うまい。眠気覚ましにちょうどいい。

「そうそう、チーコのことでな。起きたら寄越してくれって先生が言ってたわ」と同僚に言われて、先生の元へ向かう。

この時間なら、先生は馬房で馬の顔見てるはずだ。


チーコの馬房の前に先生はいた。

チーコはと見れば、かわいそうに口かごをつけられてる。

「思ったより軽くて済んだわ。絶食は今日だけで明日から軽く運動してもいいそうだ。放牧に出すのも考えたんだが、このくらいなら置いといてもいいってさ」

先生はチーコの顔を見ながら話し出す。

「放牧に出したら馬房空くからなあ。今戻せるのもいないしさ。まあ出したところで短期なら置いといた方がこっちも様子がわかっていいってもんだ」

先生はそう言って笑う。

そういや先生、いつも調教終わると馬房ですよね。たまにゆっくりしても……。

こう言うと、先生は答える。

「まあ、馬が好きなんだよな。仕事とかじゃなくてさ。だからこうしてると、一番リラックス出来るんだわ」

そうなんですか。でもわかる気がします。

そう答えると、先生は照れくさそうに笑う。


「馬乗りやって何度も怪我したし、もう乗りたくないなって思ったことも何度かあったし、調教師やらんで他の仕事するチャンスもあったんだが、それでも馬から離れられんかったわ。今じゃ馬だけでなくキミたちも預かってるから余計にな」

まさか、あのアンチャンまで預かろうなんて思ってないでしょうね?

半分冗談で聞くと、「向こうの先生からも好きにこき使ってやれって言われてるし、アンチャンがうちに来たいって言えば預かるかもな。でもうちに来たって勝ち星増えんがな」

苦笑いしながら先生は言った。


「そろそろゴーヘーに馬装つけてアップしとこうや。集合時間まではあっという間だぜ」

先生に言われてゴーヘーの馬房へ。横の用具入れから馬装一式を引っ張り出す。

……っとその前に。

オーナーさんからいただいた空色のバンテージ。

まずはこれから着けような。


バンテージを巻いたら頭絡をつけてハミを噛ませる。

ゼッケンと鞍は装鞍所でつけるからこの状態で出来上がり。

ゴーヘーは馬装をつける時は大人しい。

中には暴れるやつもいるんだけど、ゴーヘーは自分がやることをわかってるのかもしれない。

あっという間に馬装をつけ終わって、ウォーミングアップに出る。


アップ中はよくゴーヘーに話しかける。今日もそう。

ゴーヘーだからってわけじゃなく、俺のクセみたいなもの。

最初は何かしゃべった方がいいって言われて始めたけど、今じゃ話しかけてないとこっちが落ち着かない。

いよいよ今日が本番だなあ。天気良くて良かったなぁ。

アンチャンとふたりでぶっちぎって来るんだぞ。俺待ってるからな。

こんなことを言いながら。

ゴーヘーはうんうんと頷いてる。

そして自分からグイグイと俺を曳くように歩く。

そうしてるうちに集合時間が近づいてきた。

ゴーへーを装鞍所へ連れて行く。途中で番頭が追いかけてきた。

「やっぱ2人曳きだな。何が起きてもいいようにはしたいよな」

番頭はそんなことを言いながら引き綱をつける。

そうして2人でゴーヘーと歩く。

「間違いなく人気サイドだ。胸張って行くしかないよな」

番頭がポツンとつぶやく。番頭、少し緊張してるな。

声が震えてた。


装鞍所に着いて馬体重の測定。

……412キロ。

「楽させてないよな?」と番頭。俺も楽はしてなかったはずですがと答える。

ふたりとも笑顔で。

みっちり調教して体重が増えてたんだ。そりゃあ笑顔にもなる。

それからゴーヘーを待機馬房に入れて検査を受ける。


検査は馬体や蹄鉄も調べるので、係員がゴーヘーに触れることもある。

いきなり暴れられて競走除外なんてことになったらまずい。

なので、検査の最中は俺と番頭がずっと張り付きでゴーヘーの相手をすることに。

水も飼葉もやれない待機馬房だが、ゴーヘーは落ち着いているように見える。

係員が来たときは俺や番頭が声がけをしながらで、どうにかクリア出来た。

そうしてるうちに指示が来てアンチャンが鞍とゼッケンを持ってくる。

先生もやって来て装鞍開始。


渡されたゼッケンは3番。

今日の新馬戦は8頭立てなんで、3枠ということになる。

普段なら緊張するところなんだが、今日は不思議と落ち着いてやれてる。

たぶんチーコのことでバタバタしてて、緊張する暇もなかったからかもしれない。

腹帯を締め上げて準備完了。

さあ、行こうか。

ゴーヘーに一声かけて、パドックへと向かう。


能力試験と違って、今日はパドックにもお客さんがいる。

外側を歩いてる番頭は「いつも通りの人出だなあ」なんて言ってる。

つまり、そんなに多くはないってこと。内側を歩いてる俺にはゴーヘーの顔しか見えてない。

ゴーヘーはというとお客さんがいるのに少しびっくりしたようだが、すぐに落ち着いた。

「本番のパドックでこの落ち着きっぷりだよ。さすがにウチで一番の暴れん坊は違うねぇ」

番頭が冗談を言う。

そりゃあウチで一番の大物ですからと冗談で返すと、「そうなってもらわんとな。まずは今日だ」と番頭は言う。

やれることは全部やって来ましたもんね。今日はやれますよ。

俺も期待を込めて言った。


騎乗命令がかかって、俺たちはその場に止まる。

そこにアンチャンが駆け寄ってきた。俺と番頭でゴーヘーの背中に乗せる。

先生もやって来た。ここで指示が出るはずだ。

戦法は逃げか先行か。どっちでもゴーヘーならやれそうだと思ってたら……。


「ゴーヘーと話し合いして好きに乗ってきていいや。今日は任せた」

先生、ニコニコしながらこう言ったもんだから、俺も番頭もずっこけそうになった。

番頭も「先生それでいいんですか?」と聞き返したぐらい。

「いいんだ。ゴーヘーのことは良くわかってるはずだからさ。それにどうせ一番人気だからみんなせっついて潰しに来るぜ。そこをどうするかは任せるよ」

そういう意味で任せたってことか。先生、アンチャンにも賭けたんだなあ。

そんなことを思いながら歩く。

というか、一番人気だったのか。途端に緊張してきた。


本馬場に出て引き綱を離す。

離し際、アンチャンに向かって声をかける。

ふたりで話し合っていいレースにしてきてよ。お願いします。

アンチャンはニコニコしながら頷いて、返し馬へ向かって行った。


俺と番頭は待機所に向かう。

距離は1200メートル。ゲートの様子はやはりよく見えないので、みんなモニターに集中する。

ゴーヘーは落ち着いてるように見えるが、両隣の馬が騒いでる。

釣られなきゃいいがと思ってると、ゲートが開いた。


ガシャン。

ゴーヘーは隣の馬に釣られて少し出遅れたが、馬なりのままハナに立つ。そこに他の馬が2頭絡んでくる。

アンチャンは無理に引き離そうとしていない。ハナ行きたいならお先にどうぞの構えだ。それでも他の馬たちはジリジリと引き離されてる。

4コーナーに差し掛かってもアンチャンの手は動いてない。他の馬たちは激しく追われてる。

こりゃあもしかして……。

俺はアンチャンのやろうとしてることがわかった気がした。

持ったままで逃げ切ろうっての?


直線に入っても後続との差は広がるばかり。

最後はバテたみたいな脚色になったけど、先頭切ってゴールしてきた。

2着には5馬身の差をつけて。

嘘だろおい……。


半ば感心し、半ば呆れながら出迎えに行くと、アンチャンは満面の笑み。

「ゴーヘーが全部自分でレース組み立てちゃいました。最後は少し気合つけましたけど、すごいことやってのけちゃいましたよー」

うまいこと話し合いついたんだな。おめでとう。

こう言うと、アンチャンはかぶりを振ってこんなことを言う。

「いえいえ、ゲートが良くなかったんで番手でもいいぐらいの気持ちでいたのに、ゴーヘーが自分から行っちゃったんです。こんなに闘争心あるとは思ってなかったですよー」

そりゃあ、ウチで一番の暴れん坊だもんさ。そこらの馬には負けたくなかったんだろう。

な、ゴーヘー。

引き綱をつけながらよくやったと褒めてやる。

そして検量所へと連れて行く。

ゴーヘーだけが砂をかぶってない、きれいなままの顔。

ゴーヘーもどうだいと言わんばかりに胸を張ってる。


検量所に着くと、先生とオーナーさんが待ち構えてた。

そして俺の顔を見るなり「おめでとう」と先生が言う。

「キミの初勝利だろ?もっと胸張って。今日の主役なんだからさ」

あ!

ゴーヘーのことばかりで、自分の担当馬での初勝利だってことはすっかり頭から消えてた。

先生に言われて思い出したぐらい。

オーナーさんも「あなたの初勝利に少しでも力になれたみたいで嬉しいですね」とニコニコしてる。

「これからもウチのゴーヘーをよろしくお願いします」と頭を下げられ、逆にこっちが恐縮する始末。

そうだ。これで一度も勝ったことない厩務員じゃなくなったんだな。


口取りの写真を撮って厩舎に戻る帰り道。

「今日はうまいこと行ったなあ」と先生が嬉しそうに言う。

「下手に指示出すとその通りに乗ろうとしてしくじることが多いんだ。だから好きに乗ってこいって言ったんだが、こうもうまく行くとはね」

ゴーヘーの力が抜けてたってことですかねと聞くと、先生は「それもあるけどな。アンチャンだからゴーヘーもあんなにのびのび走れてたんだろうさ」と答える。

「帰ったらいつものように状態確認頼むなぁ。次の日になってどっか腫れてたとかじゃシャレにならん」

はい。そこはしっかりやっときます。


馬房にゴーヘーを戻して飼葉をつける。

早速飼い桶に鼻先を突っ込んでがっついてる。

食べてる間に脚元のチェック。変に熱を持ってるとこはなし。

先生に報告すると、「夜飼いは番頭がやるって言ってたから今日はもう上がっていいよ」と言われる。

「初勝利のお祝いでもして来たらいいさ」

こう言って先生は笑った。

そうさせていただきますと言いながら、まっすぐ帰ることにする。

どこかで騒ぐのも悪くはないが、ひとりで今日のことをじっくりと噛み締めたかった。

もっとも、帰ったらすぐに寝てしまうんだろうけども、ね。

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