第9話

新馬戦が明日に迫ってきた。

調教はあまりやりすぎてもいけないので、ここ何日かは軽めで済ませてる。

ゴーヘーは今日も軽くキャンターをやって引き揚げてきた。

息づかいは問題ない。馬房に戻して脚元を確かめる。

こっちも問題ない。これならやれる。

ようやくホッとした。


午後の作業の合間に、ゴーヘーのオーナーさんがやって来た。

「いよいよ明日ですね。本当は当日だけにしようと思ったんですが、待ちきれなくて」と、オーナーさんは言う。

早速ゴーヘーの馬房の前に案内する。

ゴーヘーは俺の顔を見るなり馬房から顔を出してきた。


「先生から来た当初はだいぶ暴れたと聞きましたが、最近はいかがですか?」

オーナーさんは不安そうな顔で聞く。

俺はゴーヘーを遊ばせながら答える。

生産牧場さんからのアドバイスもあって、最近はだいぶ大人しいですよ。

でも、納得してないことには暴れますね。

「これからも手を焼かせてしまうかと思いますが、よろしくお願いします」

オーナーさん、深々と俺に頭を下げる。これには恐縮してしまう。


「……最初は先生に強く勧められて買いましたけど、育成場やこちらの先生から便りをもらううちにだんだんかわいく思えて来ましてね。出来の悪い子ほど……というものでしょうかね」

オーナーさんは小さく笑う。

明日勝って孝行息子になりますよ。きっと。

こう言ったら、オーナーさんは「そうなれるよう、明日はおめかしして来なくちゃいけませんね」と笑った。

「そうそう、これをお渡ししなくてはいけませんでした」と言いながら、オーナーさんは俺に紙包を手渡した。

開けてみると、中には空色のバンテージが4本。

「うちの近くの神社で願掛けをしていただいたんです。無事に走れるようにって」

ありがとうございます。明日はこれをつけさせていただきます。

今度は俺が深々と頭を下げる。


オーナーさんが帰った後、ゴーヘーに話しかける。

お前、いいオーナーさんに買われたなあ。あんないいオーナーさん、なかなかいないんだぞ。

ゴーヘーはうんうんと頷いてる。

お前、わかってて返事してんの?

半分冗談でこう聞くとまたうんうんと頷く。

ゴーヘーはだいぶリラックスしてるようだ。


夜飼いでもゴーヘーはいつものように飼葉を完食。

まだ明日が本番だってわかってないのかもしれない。

それはそれで、明日装鞍所連れて行けばわかることだし。

こっちが緊張することもなさそうだ。


ゴーヘー、明日が本番のレースだぞ。

俺がここまで出来ることは全部やった。今度はお前がアンチャンと頑張る番だぜ。

他の馬なんかみんなぶっちぎって来いよ。

ゴーヘーはまたうんうんと頷いてる。


もう一頭の担当馬のチーコはグイッポして遊んでる。

一応やりそうなところには薬を塗ったりして対策してきたが、薬のないところを探し出してはグイッポしてる。

最後には半ばヤケになってそこらじゅうに薬を塗りたくったが、今度は飼い桶でグイッポしだす始末。

こうなるともう手の施しようがない。

チーコも4日後には出走なんで、調整に神経使ってるんだけどもね。

遊んでるぐらいなら余裕あるのかな。さすがベテランになると違うんだねぇ。

そんなことを思いながら原付で帰る。

うちの厩舎じゃ新馬戦に担当馬が出る厩務員は、朝の作業が免除になる。

他の厩務員が手分けしてやってくれるんだけど、これは「担当馬の晴れの舞台に疲れた顔して出るもんじゃない」という先生の持論があってのこと。

前に聞いたことがある。

「新馬戦は一生に一度しか出られない晴れの舞台なんだ。そこに朝の作業でヘトヘトになった顔して出たら馬に申し訳ないじゃないか」

先生はこう言ってた。だから朝はじっくり休んで、一番いい顔してパドックで馬曳いてくれって。

今回は俺がそれに当たったから、朝はゆっくり休んで、稽古の終わる頃合いに出て来て手伝いでもしようかと思ってた。

ところが……。


「大変だ。チーコの様子がおかしい。疝痛っぽいんで来てもらえんか」

同僚の電話で起こされた。時計を見たら1時過ぎ。

先生と獣医にも連絡してと告げて、大急ぎで厩舎に向かう。

いくらこっちが神経を使って調整してても、こういうことはたまにある。

しかし、よりによって今日かよ……。


厩舎に着いてチーコを見れば、激しくバタバタと前掻きをしている。

表情も険しい。こりゃ疝痛確定だ。それもちょっときつめの。

先生も獣医もまだ来ていない。が、どうにかしないと。

疝痛には運動が一番と古い厩務員に教わったことがあったのを思い出した。

ロンギかけてくる。先生来たら教えてくれよ。

側にいた同僚にこう伝えるのと同時に用具置き場からロングステッキを持ってくる。

チーコに頭絡をかけて馬房から引き出す。足取りはかなりおぼつかない。

角馬場に連れてきてロンギをかける。


引き綱を持ったままチーコの尻をロングステッキで叩く。

チーコはやっと走ってる感じ。ステッキで叩くのをやめたらすぐに止まってしまう。

それだと効果がないのでずっと叩くことになる。

こんな状態のチーコを走らせなきゃならん申し訳なさと、ゴーヘーの晴れの舞台の当日にケチつくのが悔しいのとで、なんだか泣けてきた。

ちくしょう。どうしてこうもうまくいかないんだよ……。


「獣医さん来たよ。先生もあと5分ぐらいだって」

同僚の声が耳に入って、ステッキを振るうのを止める。チーコもすぐに止まった。

獣医さんはチーコを診察すると、注射を打ってくれた。

「今日で良かったんじゃない?出馬表出た後なら出走取り消しだもんな」

獣医さんはこう言ってくれる。たぶんなぐさめてくれてるんだろう。

先生もやって来た。状況を報告すると「オーナーには俺から言っておくわ。チーコは次の開催に回ってもらおうや」と言う。

つまり、次のレースは回避ってこと。

「疝痛が治ってすぐだと回復しきれてないこともあるし、薬が抜けきってなきゃ使えないしな。何よりチーコに無理させたくないだろ?」

ですよね。次の開催には間に合わせます。すみませんでした……。

こう言いながらまた泣けてきた。俺の対策が不十分だったんだと思ったから。

「チーコのグイッポ対策は俺も考えてみるよ。それよりもゴーヘーはどうだ?」

先生が聞いてきてハッとなった。ここまでゴーヘーを見ていない。

まったく、俺って奴は……。

ゴーヘーの様子を見に走り出しながら、自分自身が情けなく思う。

どっかで同僚にゴーヘーの様子聞いておくんだった。


……ゴーヘーは俺の顔を見るなり前掻きして飯の催促。

いつも通り過ぎて拍子抜けした。

先生、ゴーヘーはいつも通りです。今日は思う存分やれますよ。

こう報告すると、先生は笑いだした。

「思う存分か、そりゃいいや。思う存分ぶっちぎってもらおうか」

そして、俺に向かって表情を改めた。

「それより、キミは大丈夫?ゴーヘーの晴れの舞台なのにこんなバタバタになって……」

全然問題ないっす。むしろゴーヘーが暴れてやしないかって心配してたくらいですよ。

わざと作り笑顔でこんなことを言ってみる。実際調教の準備で忙しかったわけじゃないし、こんなことでへこたれるほどヤワには出来てないつもり。

「それでも、大仲で少し休んできな。集合時間までまだまだあるからさ」

先生はそう言って、俺を大仲の方に押し出す。

わかりました。少し休憩してきます。

こう言って、俺は先生に甘えることにした。

一眠りだけさせてもらって、後片付けから参加しよう。

そう思って、俺は大仲の机に突っ伏した。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る