第17話 閑との別れ
この男は捕らわれの身になっても、悠然たる態度を崩さなかった。
どうやら殺されることはなさそうだ、そう手応えを感じていたからだ。源氏の有力者である
せいぜい遠国に流される程度で済むであろう、時忠はそう考えていた。
だが、それをもっと確実なものにしたい。
時忠は、九郎義経に目をつけた。
九郎という源氏の御曹司は、鎌倉軍の中での評判が実に悪い。
戦術は武士の常道から大きく外れ、しかも独断専行。大将でありながら自ら功を争い、御家人を
間違っても、このような男を通じて命乞いなどすべきではないだろう。
それよりも、鎌倉武士の憎悪をこの九郎に向けさせるのだ。その結果、相対的に自分に対する追及は弱まるであろう。
あわよくば源氏どもの同士討ちが見られるかもしれない。
そこまで考えて時忠は、ふっと笑った。
「わしは後世に悪名を残すか。まあそれも良かろう、まずは生き延びることだ」
☆
捕らえられた平家の有力者たちの身辺警護の責任者は九郎だった。自然、時忠との交渉も九郎が行う。
ある日、時忠は九郎に切り出した。
「わが娘を
歴戦の強者である九郎どのを、わが娘はいたく気に入りましてな。などと九郎の手を取らんばかりに身体を寄せた。
「わしも、もうすぐ斬られる身。娘のことだけが心配なのです」
涙まで見せて、九郎をかき口説く。
(平泉の秀衡どののようだな……)
九郎は懐かしい思いにかられた。あの人もよく、こうやって自分の両手を取り、語りかけてくれたものだ。
「娘を守って頂けるのであれば、その
頭を下げる時忠に、つい九郎は頷いてしまった。
だが、時忠に娘などいない。時忠はある高貴な女性の顔を思い浮かべていた。
「なに、平家一門の命を救うためと云えば、あのお方も嫌とは言うまいよ」
時忠は立ち上がった。……もちろん、言わせるものか、と。
女院と、彼女に仕える女官たちを警護しているのは閑だった。
その日は女官長に執拗に引き留められ、女院の所に向かったのは夜半過ぎになった。その途上にある部屋から聞こえるすすり泣きの声に、閑は首筋の毛が逆立った。
部屋の中では、女がうつ伏せて声を圧し殺し泣いている。
乱れた衣から男女の事が行われたのは明らかだった。
そして、脱いだ服を抱え、半裸のまま部屋を逃げ出そうとしている男。
「九郎、貴様っ!」
閑は激怒した。
「この方が誰か、判っているのか」
ぽかん、と口を開けたままの九郎。
「誰かって、……だれだよ」
時忠どのの娘ではないのか、九郎は力なく呟く。
そうか、閑はしばらく息を整える時間が必要だった。
「この方は、女院、建礼門院様だ!」
☆
その噂は、鎌倉軍の中にあっという間に拡がった。女官たちも時忠の意を受けているのだ。いかに閑が口止めしようと、何の効果もなかった。
女院に対しては、そこまでして生きたいのか、という者もあったが、概ね同情する声が多かった。だが九郎へは容赦ない罵倒が投げつけられた。
人の心を知らぬ犬畜生。あるいは、武士の風上にも置けぬ源氏の恥、と。
「だまされたのだ、わしは」
九郎は叫ぶように言った。
しかし、閑も弁慶も黙ったままだった。とくに閑は、九郎の方を見ようともしない。
やがて閑が口を開いた。
「お前と同じ空気を吸いたくはない。……死ね」
さもなくば私がこの手で。ゆらり、と立ち上がるのを弁慶が必死で宥める。
☆
九郎は、平家の警護を解任された。
失意の九郎に与えられたのは、ある男を鎌倉まで護送することだった。
その男は
「では、よろしく頼むぞよ」
宗盛は屈託のない明るい声で言った。
この男が生き残っているのには、特に深い理由はない。
壇ノ浦での平家滅亡の際も、周りの者が次々に入水するのに驚き、ただ船縁で立ち
当然、溺れるはずもなく、船と船の間を意味もなく泳いでいる所を捕まったのだ。
「誰じゃ、後ろから押した奴は。あとで処罰してやらねば」
源氏の船に引き上げられた宗盛は、くしゃみをした後、呟いた。
どうやら、先の事を全く考えられない
早朝、鎌倉へ向かって発つ九郎の一行を、閑と弁慶は見送った。
彼女が手を振ることはなく、九郎も一度として振り返らなかった。
ただ、濃い朝霧にその姿が見えなくなるまで、閑はその場に立ち尽くしていた。
なぜか、これが九郎との永遠の別れになるような気がした。
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