第16話 平家滅亡の刻

 ゆるやかに潮が流れ始めた。

 知盛は、頬に風を感じ、それに気付いた。間もなく夜が明ける。


 それまで穏やかだった瀬戸の海流は、ここに来て急にその速度を増していた。

 まるで、平家と源氏の戦いを促すように。

 水平線が茜色に色付いてきた。


 時は、至った。


「進めえっ!」

 知盛は、手にした扇を振り下ろした。

 その声に合わせ平家の軍船は一斉に、あざやかな紅の旗を高々と掲げた。

 

 潮流に乗った平家の艦隊は、源氏の水軍を圧倒した。


「一隻たりとも残すな。源氏の者どもをすべて海に沈めるのだ」

 知盛は声を嗄らし叫び続けた。

 手応えはあった。

 源氏の水軍も、個々の操船能力では互角かもしれない。しかし、艦隊決戦ではまだまだ平家に及びもつかないのが明らかだった。

 

 知盛は傍らの老人に目をやった。

 長らく、平家の水軍で水夫をとりまとめている男だった。年齢を感じさせない大声で、他の船に指示を出している。

 その男は知盛の視線に気付き、皺だらけの顔で笑った。


「ここが平家水軍の腕の見せ所だ。存分に働けよ」

 知盛の声にその老人は、おう、と答える。

「感謝しますぞ、知盛さま。このような舞台を与えていただいて……」

 男の声が、急に途絶えた。そのまま仰向けに倒れる。

 喉元に、深々と矢が刺さっていた。


「な、何っ」

 知盛は目を疑った。

 この男だけではない。他の船でも、次々に水夫が源氏方の矢に倒れていた。

「まさか水夫を狙っているのか」

 

 この当時、いや、これは現代でも絶対に厳守すべき戦争の鉄則がある。

 それは、戦闘員以外を殺害してはならないという事だ。


 ☆


「何をしている、あれは武士ではないぞ!」

 しずかは、弓を構える伊勢義盛に食って掛かっていた。

「仕方ないですよ。大将の命令ですから」

 義盛は無表情のまま言った。


 また、もう一本矢をつがえ、放つ。

 はあー、とため息をつく。

「でも全然、あたりやしない……。へっ、でも今日ばかりは、おれが弓の名人じゃなくて本当に良かった、と思いますぜ」

 

 これは九郎が事前の軍議で提唱したことだった。

 勝利至上主義とも言える九郎からすれば当然の発想である。むしろ合理的とすら言えた。だが、これはこの当時の武士の常識からすれば『悪』でしかなかった。

 ざわめく軍議の座で、意外な事に梶原景時だけは無言だった。この男は何の表情も浮かべることなく、ただ沈黙を守っていた。


(武士の風上にも置けぬ、というのはこの男の事だろう)

 心の内で、景時は思った。心底、軽蔑に値すると。

 だが、勝つためならその策に便乗させてもらうとしよう。

(汚名は、貴様一人が被るがいい)

 景時は笑いをかみ殺していたのだ。


 ☆

 

 海流が平家側から源氏に向かっていたのは午前中までだった。

 知盛が懸念した通り、太陽が冲天を過ぎるとともに、潮の流れは逆転した。

 水夫を失いながらも自然の潮流によって源氏を圧倒していた平家軍は、ついに逆境に立たされることになった。


「我が事、終わるか」

 知盛は力なく船縁を叩いた。


「何をしょぼくれている、知盛どの」

 船を寄せたのは教経だった。

 能登守教経、平家最強の武将と言っていい。

「おれが義経を討ち取ればいい事だろう。見ろ、あいつは御座船におびき寄せられているではないか。これからあの男の首を獲ってくるから、そこで待っているがいい」

 そう言うと教経は船を進めて行った。


 教経は手にした強弓に矢をつがえた。

 縄梯子を掛け御座船に昇ろうとしていた小柄な男を目がけ、放つ。

 しかし、その矢は前を横切った他の船の武者二人を串刺しにしただけで、九郎には届かなかった。敵味方入り交じり、密集し過ぎていた。

 教経の船は押し流されるように、九郎から遠ざかっていった。


「離せ閑、あれは能登守だ。わしは継信の仇を討たねばならん!」

 凄まじい矢音に気付いた九郎は梯子から飛び降り、教経の船を追わせようとする。その九郎を閑は必死で止めた。

「馬鹿を言え、敵う訳がないだろう」

 閑は叫んだ。


「悔しいのは分かる。でも、身の程を知れ、九郎!」

 たとえ閑でさえ、指一本触れることは出来そうにない。それだけ、あの男の武勇は懸絶していた。自ら死を望んでいるかのような戦いぶりだと、閑は思った。

 もはやあれは、人ではない。


「この船は違うぞ、囮だ!」

 九郎たちの後ろで、御座船に昇った武士たちの喚く声が聞こえていた。


 ☆


 時とともに、平家の劣勢は明らかとなった。無人の船と、平家の旗だけが海面を漂っている。赤い色は、平氏の流した血のようにも見えた。

 見ると、教経が源氏の兵に囲まれながらも、手当たり次第斬りまくっている。

 こんな状況にも関わらず、知盛は笑みを浮かべた。

「それでこそ教経どのだ。だが、それぐらいにするが良かろうぞ!」


 彼も知盛に気付いた。血まみれの顔を向ける。

「ああ。もはや人殺しにも飽きた。そろそろ菊王丸のところへ行くとしようか」

 笑顔で叫ぶように言うと、教経は自ら首をはね、海へ沈んだ。


 知盛の心残りはただ一つ。妹の徳子の事だ。

 建礼門院 徳子。安徳帝の生母でありながら、早くに先帝である夫を亡くし、いまこの境遇に至っている。彼女も、もう既に入水した頃だろう。

 できるならもっと違う道を歩ませてやりたかった。

 悔やんでも詮無き事とは知りつつ、知盛は心の中で詫びた。


 ああ、と知盛は天を仰いだ。

「人としてやるべき事はやり尽くした。天が平家を滅ぼそうとしているのなら……」

 それに従おう。


 知盛は目を閉じた。

 大きな水音と共に、悲運の名将は海に消えた。


 ☆


 建礼門院 徳子は救出された。

 閑は、高貴な装いの若い女が入水するのに気付き、すぐに後を追って飛び込んだのだ。その女性は、しっかりと衣を掴んだ閑ともども船に引き上げられた。

 気を失っていたが、命に別状は無さそうだった。


「おい、閑。この方は、何か手に持っておられなかったか」

 ずぶ濡れの閑は九郎を見上げた。

「ああ。何か箱のような物を持っていたな」

 そ、それは。それはどうしたのだ。九郎の顔色が変わっている。

 閑は呆れたように言った。


「そんな物、捨てさせたに決まっているだろう。海に沈むための重石なのだから」

 閑は横たわる徳子の顔を心配げにのぞき込んだ。


 ああ三種の神器が……、九郎はへなへな、と座り込んだ。

 


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