第14話 濱戦(はまいくさ)

 能登守のとのかみ  教経のりつねは平清盛の甥にあたる。


 貴族化が進んだ平家の中にあって、突然変異的に出現した猛獣のような男として平家物語には描かれている。

 だが、実際の彼は体格こそ他を圧倒するものの、やはりその内には貴族的なものを秘めていたのも事実だった。


「なんだ、騒がしい。静かにしろと伝えてくれ」

 教経は小声で、周りのものに言った。

 彼の前には一人の少年が横たわっていた。肩に巻いた布に血が滲んでいる。一ノ谷の合戦で負傷したのだ。

「菊王丸よ、大丈夫か」

 弱々しい笑みを浮かべるこの少年を、教経は弟のように可愛がっていた。彼は少年が瀕死の重傷を負ってこの船に運び込まれて以来、ずっとこのように傍で世話をしている。だが少年は、もう言葉を発することも出来ないほど衰弱していた。


「屋島に係留した船が、動いています」

 郎党の一人が戻って来て報告した。

「後方に火の手が上がっています。おそらくは源氏軍かと」

 ふん、教経は嗤った。

「見え透いた虚仮威こけおどしだ。慌てず、迎え撃てばいい」

 それが、と、その郎党は言い淀んだ。

「宗盛さまは、陛下を連れて海上へ逃れられたようです。護衛の武者も全て御所を捨て、船に乗ったものと思われ……」


 あの馬鹿がっ。教経は口の中で従兄弟を罵った。



「いやぁ、驚いたぞ」

 教経の前で平家の総帥、宗盛はへらへらと笑っていた。いや、元からこんな顔なのではあるが、分かっていても腹立たしい。

 彼は天皇と宗盛が乗る御座船へ呼びつけられたのだった。

「まさか後ろから来るとはな。だが、ここまで来れば大丈夫だ」


「敵の九郎義経という男は奇襲を得意としていると、あれ程申しましたのに」

 仕方ないとは思いながら、教経は言わずにおれなかった。

 もう一つ。知盛がいてくれれば、こんな失態は起こさなかっただろう。だがその彼は船団を率い、源氏の範頼軍にとどめを刺すため下関に向かっていた。


 いずれにしても、もはや愚痴でしかなかったが。


 すぐに敵の兵力は百人程しかいないことが分かった。

「十分の一ほどの兵に怯え、戦いもせず逃げ去ったのか……」

 教経は虚無感にとらわれた。


「教経どの、源氏どもに一矢報いてやってくれぬか」

 宗盛はまったく重みを感じさせない声で言った。

 それになんの意味がある、教経は殺意すら覚えた。だがすぐに思い直す。


「分かりました。義経を討ち取ってご覧にいれましょう」

 教経は立ち上がった。その顔には、何の表情も浮かんでいなかった。


 ☆


 失意の中にあったといえば、この男も同じだった。

「ああ、わしはもうダメだ。……鎌倉どのに合わせる顔が無い」


 三種の神器を取り返すことに失敗し、平家の主力を手の届かない海上へ逃してしまったのだ。結果的に、頼朝の命令を何ひとつ果たせていなかった。

 うずくまり、砂浜にうじうじと何か指で書いている九郎を、周りの弁慶たちが慰めていた。

「あ、あの。閑さま。閑さまからも慰めてあげていただけませんか」

 すがるような眼で、弁慶が彼女を見た。


 閑は、ふんと鼻を鳴らす。

「策士、策におぼれる。その典型でしょ。馬鹿じゃないの」

 ばっさり、斬り捨てられた。

 うわーん。九郎の泣き声が、砂浜にむなしく響いた。


「船が来ます!」

 佐藤継信が声をあげた。

「あ、あれは。能登守?!」

 言い終わる間もなく、彼の身体を矢が貫いた。恐ろしいまでの剛弓だった。鎧などものともせず、ほとんど背中まで突き抜けていた。


「退けっ!」

 裏山へ急げ。九郎は声を張り上げた。継信は弟の忠信と弁慶が両側から抱えるようにして走った。

 九郎を狙い、唸りをあげて飛来する教経の矢を、閑が太刀で叩き落とした。


「痛ーっ…」

 閑は太刀を取り落とし、呻いた。

「大丈夫か、閑!」

 九郎が声をかける。閑は両手を振って答える。

「手が痺れただけ。平気」


「九郎の殿っ!」

 山の上から声がした。伊勢義盛だった。

「味方を連れて来ましたぜ」

 腕は立たないが、口が達者なこの男には周辺豪族の調略を任せていたのだ。見たところ、数百人ほどの兵を引き連れている。

「でかした、義盛」

 これで似顔絵の件は帳消しにしてやる。


 時を同じくして、梶原景時が招いた伊予水軍もその姿を現した。

 平家の軍船では、引き鉦が慌ただしく鳴っていた。

「くそっ、あと一歩だったのに」

 教経は吐き捨てると小舟に飛び乗った。

 

 ☆


 教経が軍船に戻った時、菊応丸は誰に看取られる事も無く、すでに事切れていた。


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