第13話 海上要塞の陥落

 降り出した雨は、一層その激しさを増していった。

 雨とともに風が強い。そして、それは明らかな北東の風だった。


野分のわきではないかな」

 佐藤 継信つぐのぶが空を見上げた。

「まさか、このような季節に……」

 弟の忠信ただのぶも首をかしげた。


 野分、つまり台風である。当然、その発生は夏から秋に多い。それがこんな春先に起こるとは非常に珍しく、考えにくいことだ。

 おそらく急速に発達した低気圧、いわゆる爆弾低気圧だったのだろう。

 だが何であれ、これは九郎に吹いた神風だった。


「行くぞ、我に続け!」

 九郎は港へ駆けた。彼らがいるのは現在の大阪湾付近である。ここから北東の風に乗れば屋島は目前と思われた。

 だが、それは思わぬ所から制止をかけられた。


「無茶でございます。こんな嵐の中へ船を出す事は出来ませぬ」

 水夫たちが怖じ気づき、船に乗ろうとしなかったのだ。

 九郎が如何に脅し、また、報償をもって誘っても無駄だった。

 当然だ。死ぬのが分かっていて出航する者はいないだろう。


 しずかが九郎の前に進み出た。

 彼女の顔を見た水夫たちは明らかに動揺した。

「私からも頼む。どうか船を出してくれ」

 深々と頭を下げた。


「ひ、姫さま。そのような事をなされては…、お顔を、お上げください」

 船頭の長が慌てて声を掛けた。

「そうか」

 閑は顔をあげた。後白河法皇を締め上げた時の笑顔で。

「心配するな。私がいる限り船は沈まぬ。、そう言っただろう」

 へへーっ、と船頭以下ひれ伏した。


 口が開きっぱなしの九郎の前を、閑は悠々と船に乗り込んだ。

 彼女らの間で何があったか、それは誰も知らない。

 だが、とにかく九郎たちは港を出る事ができたのだった。


 ☆


 凄まじいまでの追い風の中、船は進んでいく。

 雨は塊となって叩きつけてくる。

 もう乗員の誰も、この船がどこに進んでいるかさえ分からなくなっていた。

 人や馬の悲鳴だけが風の唸りの中に続いていた。


「浸水しているっ! 水を掻き出せ、早く!」

「痛いっ、雨が痛い。目が開かない!」


 喧噪のなか、九郎は閑を背中から抱きかかえるように帆柱にしがみついていた。

「手を離すな、閑」

「……!」

 さすがの閑も声を出せず、何度も頷いた。

 

 嵐の夜があけた。

 海は波一つなく静まりかえっていた。

 ゆらゆらと漂う船の行く先には、なだらかな丘陵を持った海岸が見えていた。

「あれは、四国なのか……」

 ずぶ濡れで、青白い顔の九郎が呟いた。


「もう、大丈夫だ。手を離せ」

 同じようにひどい姿になった閑が、わずかに身じろぎした。

「あ、ああ」

 呻くように九郎が答えた。だが、帆柱を掴んだ指が固まってしまっている。閑はその冷えきった手に触れ、そっと撫でる。

「ありがとう、九郎」


 そこで、閑は気付いた。一気に真っ赤になる。多くの視線が二人に集中していた。

「おい、弁慶、継信、忠信。見てないで、早くこの馬鹿を引き離せ」

 物陰からニヤニヤしながら様子を伺っていた彼らに閑は怒鳴った。

 

 ☆


 どうやら、九郎たちが上陸したのは現在で言う徳島県あたりらしい。

 閑が宣言した通り一隻も失われることなく浜に流れ着いていた。馬を降ろし、馬具を装着していると丘陵の上で叫び声がした。

 ひとりの男が浜を見下ろして立ちすくんでいる。


「そいつを捕らえろ」

 九郎は叫んだ。平家方に知られては全てが終わる。

 だが、人も馬も船酔いで足元が覚束ない。しかも砂浜だ。進もうにも進めない。それを見た男は慌てて背を向けた。


 ぶん! と音をたて、それは飛んでいき、逃げる男の後頭部を直撃した。

 高く跳ね返り、男の足元に落ちたのは人の脚ほどの太い流木だった。

 男は、そのままばったりと倒れた。


 九郎たちは、恐る恐る振り返った。

 閑が手についた砂を、ぱんぱんと払っていた。

「ほら、早く捕まえに行きなさい」


 男は、この辺りを領地とする近藤 親家ちかいえだと名乗った。

 嵐のあとの海岸を見回りに来ていたのだ。

「わたしは以前より、源氏方へ心を寄せる者でして……」

 気弱そうに言う男だった。


「平家が来れば、平家の忠実な家来になるのでしょうな」

 弁慶が苦笑まじりに言った。

「ははぁ、それがわたし共、小豪族の生きる途でございますれば」

 男は悪びれる事も無く頷いた。


「信用して良いのか、こんな…」

 言いかけた九郎は、閑の裏拳を浴びてのけぞった。

「先の一ノ谷合戦を見れば、源氏方の優勢は自明のこと。そうでしょう、近藤どの。協力していただけますよね」

 は、はいっ。男はすぐに忠誠を誓った。


 ☆


 平家が行在所あんざいしょ(仮の御所)を置く屋島は、文字通りの島である。だが現在の地図を見る限り半島のようにしか見えない。

 川と呼ぶ方がふさわしいような、せまい海峡によって隔てられているだけなのだ。

 実際、干潮時には馬でも容易に渡れるという。


「決行はあす未明とする」

 九郎は皆の前で宣言した。その数は百人ほどしかいない。

 屋島の平家軍は各地へ船団を派遣して源氏に備えていた。だがそれにしてもまだ千人は残っているらしい。とても正面から当たれる相手ではない。

 手段は、奇襲攻撃しか残されていないのは確かだった。


 九郎は兵を分け、屋島を臨む山に潜ませる。

 合図とともに各地で一斉に火をかかげ、大軍が襲来したと思わせるのが目的だ。

「残る我らは行在所へ突入し、三種の神器を奪う!」

 おう、と兵らは声をあげた。


 だが、奇襲は失敗だったと言っていい。


 わずか百名で10倍以上の敵を蹴散らしたのだ。その点では上手くいった。いや、上手くいきすぎた。

 怖れおののいた平家の総帥 宗盛むねもりは、戦いもせず海上へ逃げた。もちろん幼帝と三種の神器を持ってだ。九郎すら想像していなかった程の逃げ足の早さだった。

 九郎は頼朝から与えられた、三種の神器奪取という命令を果たす事ができなかったばかりか、再び平家の主力を海上へ逃してしまった。


 無人の御所に立ち、九郎は歯がみした。


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