第12話 屋島作戦、発動

 夜明け近い薄明のなか、波の寄せる音だけが聞こえていた。

 その規則的な音の中に、いつからか木材の軋む音が混じりはじめた事に気付いたのは、輸送部隊を警護する源氏方の兵士だった。

 みぎわまで歩み寄り、暗い海へ目をこらす。


 突如、島かげからそれは姿を現した。

「あ、ああ……」

 男は、声を震わせた。

 男が見たものは、明々と篝火をたき、平家の旗をなびかせた巨大な軍船だった。

 周りを無数の小舟が取り囲み、海岸へと押し寄せてくる。


 先頭の船の舳先には雄大な体躯の男が立っていた。その表情は覗えない。だが、彼の名を知らない源氏の兵はもはや居ないだろう。

 鎌倉軍から悪鬼のように怖れられる、その男。


「奴だ、能登守のとのかみが来た!」

 男は砂に足をとられながら、野営地へ走った。


 能登守教経のとのかみのりつねは船上で右手を上げた。

 彼が命じるのはただひとつ。

 殺戮だ。


 水平線が青みを帯び始めた頃。駆けつけた源氏の軍団は、またしても海岸沿いに累々と転がる屍体を見る事になった。護衛の兵力を増やせば増やすほど、犠牲もまた比例して増えて行くのだ。

 補給線が全く機能しなくなった鎌倉軍は、下関に辿り着く前に崩壊の危機に瀕していた。


 すべては平知盛たいらのとももりの策略通りに進んでいくように思えた。


 ☆


「結局、わしが出なくてはならないようだなぁ!」

 あははは、と九郎は笑っている。


 さっきまで頼朝よりともの前で感激して泣いていたくせに。

 しずかは苦笑した。

 まあ、こっちの方がいいけれど。

 部屋に籠もって、めそめそしている九郎など見たくも無い。


 頼朝が九郎に命じたのは二つだ。

 範頼のりより軍の救援と、平家が持つ天皇家の象徴である三種の神器を奪還することだった。

 この頃になってようやく、それが讃岐の屋島にあると分かった。

 安徳帝と平家の総帥 宗盛むねもりも一緒だという。


 九郎の標的は決まった。屋島を直撃する。


 ただし、船がない。

 川船程度なら集まるだろう。だが、それで瀬戸内海を渡るなど不可能だ。なにより主戦力である馬を乗せられない。


「いっそ、泳ぐか。馬と一緒に」

 九郎はそう言った瞬間、閑に殴り倒されていた。


「じ、冗談に決まっているだろう。洒落の分からん奴だな」

 鼻に丸めた布きれを突っ込みながら、九郎は口を尖らせた。

「ふざけてると、次は鼻血じゃすまないからね」

 殺意に満ちた目で、閑はにらんだ。


「うむ。ひらめいたぞ」

 九郎は手を打った。

「船なら有るではないか」

 はあ? 周囲のものはみな首をかしげた。


「瀬戸内の水軍には及ぶまいが、この際だ。誰ぞ熊野水軍に知り合いはおらぬか」   

 九郎は座を見渡し言った。


 ☆


「だから、わたしの魅力で船を貸して貰えることになったの!」

 遠い親戚があるという弁慶の伝手つてで、一緒に熊野へ向かったのは閑だった。九郎の心配をよそに、意気揚々と船団を引き連れて戻って来た。

 ただ彼女に同行した弁慶の他、やって来た熊野水軍の水夫かこたちが、妙に怯えている様子なのが気になったが。

 いったい何をやった、閑。しかしそれ以上訊けない九郎だった。

 ……とにかく、最低限の水軍は確保した。


 頼朝の命令で九郎に合流したのは、梶原景時だった。

 よりによって、と弁慶は思わざるを得ない。これは明らかに九郎の行動を掣肘するための人事ではないだろうか。

 鎌倉の頼朝に対し、弁慶はふと不安を覚えた。


 到着早々、景時は九郎にかみついた。

「この程度の数で船戦ふないくさなど出来るものか」

 今、自分が工作を行っている伊予水軍が到着するのを待て、と強硬に主張する。これには自分の功績を大きくしたい思惑があるのは勿論だが、そうせざるを得ない理由もあった。

 熊野水軍とは紀州を拠点とした集団である。瀬戸内の地理に詳しいとは言えない。ましてやその複雑な潮の流れについて知るはずがないのだ。数多くの島が点在する瀬戸内の沿岸で闘う場合不利であることは言を待たない。


 更に、景時は船に逆櫓さかろを取り付けようと提案したとされる。これは船の前後にを取り付け、方向転換などの機動性を増すものである。いわば、戦車の左右の履帯キャタピラを逆に回し、小回り性を高めるのと同じ発想と言える。

 ただし、漕ぎ手が倍の人数必要になる点、そして戦場での必要性を考えると疑問が無いでもない。物語としては面白いのだが。


「では、わしと共に来たいものは来るがいい」

 九郎は再び宣言した。


 だが今度は、手を挙げるものはいなかった。


 ☆


「なんだよ腰抜けども。えらそうに、何が板東武者だ」

 また九郎は部屋に閉じ籠もっている。

「仕方ないでしょ。誰がどう考えても無理なんだから」

 閑は部屋の前であきれていた。


「うるさい。真正面から行くとは言っておらん」

 それにしても、屋島周辺は平家の船で固く守られている。すぐに発見されるだろう。どんな方法があるというのだ。

「うるさい。いま、その方法を考えているところではないか」

「おい。本当に戸を蹴破るぞ」


 その時、強い風が屋敷内を吹き抜けた。

 ふと、空を見ると黒い雲が広がり始めていた。

「嵐が来そうだよ、九郎」

 閑は、ぽつんと言った。


 ばん! と、戸が開いた。目を見開いた九郎がそこに立っている。

「閑、風はどっちに吹いた!」

「はあ?」

 さっきの風だ。九郎は畳みかける。

「え、どうだろう。南か、西へじゃない? あっちが東のはずだから」


 駆け寄った九郎は閑の両手を執った。

「今宵、わしと共に来い。閑!」

「え、ええっ?」

 話が全く見えない。

 ただ、これが結婚の申し込みでない事だけは、閑にも分かった。


「向かうぞ、屋島へ」

 やはり九郎はそう言った。




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