第31話

 一度、福岡さんから電話がかかってきた。嬉々とした声で、

「まだベッドからも起きられないのによ、長崎のやつ右手と左手で字を書く練習をするんだぜ。指が動いてよかったなんて言いながらさ」

 うれしさがしっかりと伝わってきた。

「長崎さんも、よくよくバカですね。今やパソコンの時代なんですよ。指一本あれば書けるし、何なら瞬きの仕方だけでも書くことは可能です」

「いや、あいつも俺もレトロだからよ。そういうハイテクはわかんねぇよ」

「ハイテクももう死語じゃないですか。そんな言葉が飛び出すところを取ってみても、確かに、市内電車並みのレトロさですね」

「なんだと。もうこの国から、市内電車は消えたのか」

「どんどん少なくなってますが、まだ生き延びてますね」

「なら、大丈夫じゃねぇか。俺も長崎も、よ。まだまだイケる」

「ええ。まだまだイケますね。ただし、今後はこの国の市内電車の動向をウォッチしておいてください」

「瞳孔を予知するって、どうやんだ」

「あなたの言葉が正確な漢字になって浮かぶ私を怨みます」

「バカ言うなよ。和瀬君は充分若いじゃないか」

「それこそバカ言うな、ですね。年齢制限を設けている新人賞には、もう最初から投稿すらできません」

「そりゃ残念だな。せっかく指一本で小説が書けるのによ」


 事務局から最終選考結果が出たとの報が入った。河西さんと示し合わせて、事務局である松田さん宅を訪れた。

 松田さんから連絡が回っていたらしく、三輪先生も同席していた。

「出版作は小倉さんの作品と決まりました」

 松田さんはうやうやしい態度で発表した。

 私と河西さんも居住まいを正し、それを受けた。

「これが正式な通知書です。小倉さんへは、おふたりからお渡しいただきたいと思っておるのですが、いかがでしょうか」

「わかりました。間違いなくお届けします」

 私は通知書を両手で受け取った。

「受賞と決まった連絡だけは電話で行っておきます。それとは別に、選考を行ったすべての同人の作品に、作家先生からの選評ももらっております。こちらは郵送としますか」

「それは私がお預かりしますわ。提出いただいた原稿をお返しするのにあわせ、お届けいたします」

 河西さんが、それぞれ封筒に入った書面を受け取った。

「授賞式のようなものを行うことも検討したのですが、それは作品が本になってから実施することに落ち着きました」


 いろいろな経緯があっての結果報告であったので、小倉さんへの通知書は私だけが届けに行くこととなった。河西さんが気をつかってくれた恰好であった。そんな河西さんからは「がんばってください」と言葉をかけられていた。何をがんばるというのか。

 どういう思いがあってか、電話で小倉さんにアポイントを申し込むと、市内にある大きな公園の日本庭園で会いたいとの返事があった。


 約束の土曜日の午後。日本庭園の入り口で落ち合うと、ふたり並んで遊歩道を歩いた。

「正式に、出版作は小倉さんの作品に決まりました。おめでとうございます」

 私は通知書を差し出した。悩んだあげく、やはりフォーマルな服装がよかろうと、スーツを着てきていた。

「そうか。まぁ、当然だな。私以外にそれに見合う書き手もいないだろう。君も、私を選んだ、などと手柄のように思わないように」

 言葉とは裏腹に、小倉さんは両手で恭しく通知書を受け取ると、しばらく書面に視線落としたままでいた。その間も足は止めない。危険ではないかと思ったけれど、小倉さんは慣れ親しんだ場所であるのか、自然に足を運んでいく。小倉さんも私に似たような思いがあってのことからか、スーツを着込んでいた。

「書いている原稿に行き詰ったり、あるいは逆に原稿が完成したりすると、この日本庭園に来る。今回は、山瀬のこと、原稿が消えたこと、まぁ色々な事件もあったことだしね。きょうは少し君と話がしたいと思った。それでここにした。かまわないかな」

「ええ。ありがたいお話しです」

 小倉さんはちらりと私の顔に視線を走らせてから、ふたたび前を向いた。

 よく手入れされた庭園の樹木がはっとするほどの新緑に輝き、園内をゆっくりと渡っていく風に揺れている。遊歩道に沿って小さな川がしつらえてあり、澄んだ水がかなりの速さで流れていた。

「君はなぜ小説を書くのかね?」

「なぜなのでしょうか。はっきりした答えはわかりません。けれどもその作業を行っている時が、一番自分らしくて幸せなものだからではないでしょうか。私の小説を読んだ読者から『救われました。ありがとう』というコメントを過去にもらった経験があって、それも大きなモチベーションになっています」

「なるほど。確かにそれは励みになるね」

「ええ。すごくうれしかったですね。だから世界にたった一人かもしれないけれど、私の小説を待っている人がきっといる、そう思って書いています」

「そう思えるならば強いな」

「ええ。小説が書けるだけで幸せです」

「そうか、書けるだけで幸せか」

 小倉さんに視線を向けた。小倉さんがゆっくりと立ち止った。それから、私の顔をみつめ、おおきくうなずいてみせた。私もそれに同じ動作で応えた。

「小倉さんはどうなのですか?」

 私の言葉を聞くと、小倉さんはにやりとした笑みを浮かべ、答えは返さずに、ふたたび歩き始めた。私もそれに従った。

「これを機に同人誌に戻ってくるのかね」

 声のトーンが変わっていた。普段の小倉さんの声であった。つい今しがたまで感じていた、親近感を込めた雰囲気は消えていた。たぶん訊きたかったことは、もう訊けたということなのだろう。

「戻りません。先のことはわかりませんが。それに私は退会ではなく、休会扱いにしていただいているようですので、組織上はまだ会員のようです」

「そうか。まぁ、君のようなものが戻ってくると迷惑でもあるし、その事務局のえこひいきにクレームでもつけておくか」

 空を見上げた、晴れ渡った空にやわらかな薄い雲が流れている。

「これからどうするね。やはり、書くのかね」

 小倉さんが言った。心に染みてくる口調であった。

「はい。もっともっと書きたいものが出てきました。いや、違いますね。もっともっと伝えたいことがあることに気づきました。だから、もう書き始めています」

 私は丁寧に答えた。

「そうか。私もだよ」

 小倉さんは力強い声で応じた。

「ひとつ訊いてもいいですか」

「何だね」

「どうして私のことを鈴木と呼ばれるのですか」

 小倉さんは私に視線を向け、首を傾げてみせてから、

「どうして、って、君は鈴木じゃないか。それとも、そう呼ばれるのが嫌なのか」

「いえ。そうではありません。いや、ちょっと嫌だった時期もありました」

「変な男だな。そんなことに何か意味でもあるのか」

「ええ、とっても大切な意味があったように思っていました。けれども、もうまったく気にならなくなりました」

「本当に変な男だな。君、一度医者に脳味噌を診てもらったほうがよくはないかね」

 もうそんな物言いも、親しみの言葉のように聞こえた。

 空を見上げる。流れていた雲は風に運ばれたものか掻き消えていた。

 そこには青い空だけがある。


※もうずいぶん前のことだけど、私の放送に、親友に充てた手紙を送ってくれたリスナーの方から、再び手紙が届きました。みんな、覚えているかな? 今度の手紙も、前のものに勝るとも劣らない長文なんだけど、読んじゃうね。みんなも一緒に聞いてくれ。※


『春樹。ありがとう。

 かすみの前に、抱えきれないほどのカスミソウの中に深紅の薔薇が一輪だけ入った花束が置かれているのを見て、おまえがきてくれたんだと、すぐにわかりました。

 あのとき、この放送に手紙を送って、それをDJの福岡先生にせっかく読んでももらったのに、おまえからは連絡がなかったから、俺はすっかりしょげていました。手紙のことは、忘れようとずっと努力していました。

 そんな風に気落ちして過ごしていたある日、かすみが俺にわがままを言ってきました。

 ずっと一緒にいて、と。いつもいるじゃないかと言うと、朝も昼も夜も、いつも一緒にいて、と再びいいました。昼は仕事があると言い返すと、ときどきは仕事をさぼって、私に会いにきて、と。

 すげぇ、わがままなんだけど、俺はすごくうれしかった。かすみが俺を必要としてくれている。それだけでしあわせでした。

 しょげている俺を見て、かすみが元気付けようとしてくれてるのかな、って思いました。

 それからは、温泉旅行に行こうだの、ディズニーランドでキャンプしようなど、もうとにかくはちゃめちゃで。 でも、そんなかすみのわがままが、俺はやっぱりうれしくて、全部叶えてやりました。

 もっとも、お医者さんや遊園地の施設管理者さんなんかに、いっぱい叱られることにはなったけどね。

 次は、うさぎが欲しいだの、猫だの、手当たり次第に言ってる? なんて思うほどでしたが、やっぱり全部叶えてやって、そいつらみんな家族にしました。

 そいつらに囲まれて、そいつらに自分の指齧らせて、喜んでいるかすみを見て、俺はとっても幸せだったんだけど、ふと、そう本当に突然、神の啓示ってこんなことを言うのかな、かすみ、小説書いてない、って気づきました。

 そうだったんだよ。わがまま言い出してからは、かすみは一度も小説を書いていませんでした。書きたいとも、書きたいそぶりも見せなかった。

 でもね、正直、小説の話がまったく出ないのは、俺にとっては都合がよくて、それで気づかない振りして、ずっとかすみをみつめて笑っていました。

 それにしても春樹。よくあそこにかすみが居るってわかったね。あの場所は本当に数えるほどの人しか知らないのに。

 そこまで思ったとき、また何かが俺の中で光りました。

 春樹だ。

 春樹がかすみに何か言ったんだ。

 だけど、いつ。どこで。

 かすみの最後の言葉が、俺は忘れられません。

「私の全作品の中で、あなたが一番の傑作だったわ」

 そしてあの海の見える丘の上にかすみを埋葬しました。小説を書いているかすみの像とともに。


 ありがとう。春樹。


 いつもおまえに助けられてきた、おまえの小説の真っ先の読者、真冶より』


                                  了

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コンセントにも都合というものがある 銭屋龍一 @zeniyaryuichi

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