第30話

 河西さんと落ち合って、小倉さんの原稿を渡すと自宅に帰り、一度書き上げた選考に関するレポートの最終チェックをやり始めた。

 午後十一時過ぎに、作業のおおよそのめどがついた。高ぶっている神経を鎮まらせるためにと、軽い気持ちでネットに繋いだ。お気に入り登録しているブログの更新情報を確認すると、その中のひとつに視線が止まった。嫌な予感がした。

 ブログの題名は『お知らせ』であった。

 桃色ヒトデさんのブログであった。そのブログに久しぶりの更新記事がアップされたのである。しかし、題名が『お知らせ』 もしも桃色ヒトデさんの復帰ならば『ただいま』であろう。十数文字ほど表示されている、記事のプレビューもなにやら嫌な予感をさらに増幅させるものであった。何度か深呼吸をしてから、そのブログを表示させた。


『ネットを通して親しくしていただいていた皆様へ。

 我が妻、桃色ヒトデは、五日前の午前三時四十六分、肝臓がんのため永眠いたしました。最後まで病魔と闘い、復帰を強く目指しておりましたが、終にそれは叶わぬものとなりました。

 生前のご厚情に御礼申し上げますとともに最後のお別れをお知らせいたします。

 妻は、みなさまがいらっしゃったおかげで幸せであったと思います。

 本当にありがとうございました。

 皆様のご健勝及びご健筆を心よりお祈り申し上げます。』


 予感は当った。そのような予感を抱いたことを呪った。私がそんな予感を抱いたばかりに、桃色ヒトデさんが亡くなってしまったかのように感じた。そんなことはけしてありえない。それでも自分を責めた。そうしていることのほうが楽であった。

 ブログのビューアーにメッセージが届いていることを知らせる、メッセージアイコンが点滅していた。クリックしてみると、メッセージは桃色ヒトデさん本人からであった。


『和瀬兄さん、こんばんは。

 それとも、こんにちは、かな。

 和瀬兄さんがこれを読んでいるってことは、ついに私の夢が叶わなかったということですね。残念です。本当に残念です。それでも私は精一杯やりました。自分に嘘をつかず、真っ直ぐ歩いてきました。だから残念だけど、仕方ありません。

 私は、ただ自分に素直に生きたいだけでした。それがなぜこれほどまでに難しいのだろうと何度も思いました。いろんなことが嫌になって、負けそうになるときもありました。そんなとき、和瀬兄さんのブログを読むと、不思議と元気が出てきました。ここにも私がいる。私と同じように一生懸命闘っている人がいる、と。

 本当にありがとうございました。

 ここからは、私のもの書き仲間さんたち全員に贈る、私からの最後の言葉です。

 ちょっと生意気なことも言っちゃうかもだけど、最後まで読んでくれるとうれしいな。

 私の書く小説とは、私の差し出し続ける手でした。いつか誰かに届くかもしれない。いつか誰かがその存在に気づいて、その手を握り返すかもしれない。そんな思いで書き続けてきました。

 言葉にできるのならばどんなものでも乗り越えられます。

 言葉にできるのならば必ず叶えられるんです。

 漫然と生きていたら、どんな素晴らしいことにも気付けません。意識しないで言葉を投げているだけでは駄目なんです。

 心に刺さらないと誰も振り向いてもくれません。

 でも、あなたはそれができる人なんです。

 なぜならあなたは、自分が成さねばならないことを、ちゃんと言葉にできるひとだからです。

 あなたの夢が叶いますように。

 私は、今度は海ではなく、夜空の星になって全力で応援させてもらいます。

 もう勘弁してよ、なんて、なしですよ。

 乗り越えた向こう側の大地で、またお会いしましょう。

 みんなが大好きです。』


 メッセージを読み終えると、私の胸に熱い塊があることに気づいた。ただの悲しみではない。本来私が持っていたものが、その存在を誤魔化さず前面に出てきたように感じた。あしたを待っていては、何もできやしない。できることは、常に、今にしかない。

 私は画面を切り替えると、書きかけの小説を立ち上げ、取り組んだ。乾いた涙の後は、何の雑念も起こらず、たちまちその世界に入り込んでいった。


 もうはっきりしたじゃないか。お前は引き算で小説を書いてきた。お前が小説を書き始めてからこれまで、いったい何人の読者がいた。その人たちを足していけば、今頃ゆうに五百人、いや、数千人は超えていたはずだ。それなのに、その読者と作者の関係を終わらせたのは、何あろう、おまえ自身じゃないか。どうして足し算で小説が書けなかった。どうしてありもしない掛け算を夢見た。いっそのこと割り算でも使えば、いくら鈍感なおまえでも、もう少しは早く気づいたんじゃないのか。正しいことだけが書いてある本ならば、数学の本を読めばいい。それを読み解いて、人生の何かを見つけ出すのは、もちろん特別な才能がいる。そんな才能を持った、彼らや彼女たちに向かって、お前が書けるものは一文字もない。

 もう遅過ぎるとあきらめるのならそれもいいだろう。しかし、今より早い時点は、当然のことながら、お前にはない。おまえが今、己が本物ではないと自覚しているのならば、いつか本物になろうと、これから逃げずに立ち向かえばいい。

 本気の本気でそうしてみれば、おまえが見ている景色が違って見えてくるかもしれない。

 約束はできない。

 でも、その景色を、おまえは見たくはないのか? 


 翌日、候補者のレポートを河西さんと同行で事務局に提出した。

「ご苦労様でした」

 松田さんは提出したレポートを押し頂くように受け取ってから、ねぎらいの言葉をかけてきた。

「作家先生はお時間がいただける方なのでしょうか」

 私は訊いた。

「ええ、このような地方の同人誌活動に理解のあるお方ですので、じっくり取り組んでいただけると思います。しかし、なぜですか」

「せっかくの機会ですので、その先生からそれぞれの候補作に、ほんの少しでもコメントがいただけたら、みなさん励みになるのではないかと思ったものですから」

 私も同人誌に参加していた頃、新聞や雑誌の同人誌評の欄に、自作が取り上げられ寸評が載ると嬉しく思っていたので、それを思い出しての言葉であった。

「なるほど。確かにそうですね。きちんとお願いしてみましょう」松田さんは何度もうなずいてから「おふたりの推薦作は、ともに小倉さんの作品なのですね」

「ええ。私は、突出して、抜きんでているのではないかと思います」

 私が言うと、河西さんが、

「これまでの小倉さんの活動の変遷から見ても、記念すべき作品のように感じました」

「なるほど。私も一度読んでから作家先生の方にお渡しすることといたしましょう」

 最終的な選考結果がいつ頃に出るかを確認してから、松田さん宅を辞去した。


 あれほど頻繁にあった蝕蛾のニュースはまったく流れなくなった。蝕蛾関連のアンテナサイトや裏サイトを確認しようと試みたが、わたしが知っている限りのものはすべて削除されていた。国際サイバー警察が動いたということなのだろうか。あり得ない話しではない。けれども、なぜ、このタイミングなのか。そもそも蝕蛾は、一度でも実際に起こったことがあったのだろうか。

 真亜瑠さんから招待状が届いた。

 真亜瑠さん自身のプロ活動のお祝いの会を、真亜瑠さんが働いているショットバーで催すとあった。わたしは、喜んで出席しますとコメントを入れ、出席の文字に大きく丸をして、返信はがきを投函した。


『小倉真亜瑠 プロ歌手引退記念祝賀会』


 約束の日時にその店に着くと、もっとも目立つ場所に、その横断幕が張られていた。

 プロを辞める。

 ブレイクして有名になった歌手が引退ライブをすることは、さほど意識していなくてもネットニュースとかで伝わってくる。けれどもプロとはいえ、ブレイクを果たせず、ほとんど売れなかった歌手がその引退を祝賀会にするというのは、前者とは違う覚悟がいる。

 引退など、自分だけが思っていればいいことなのに、わざわざそれをみんなに知らせ、そしてまたそのみんなでお祝いをする。いかにも真亜瑠さんらしい心遣いだと思えた。

 プロであることに思いを残さない。自分にも、そしてこれまで触れ合ってくれた人たちにも。そこまでの覚悟はそうそうできるものではない。

 店内には、真亜瑠さんがプロ時代にリリースしたCDが心地よいボリュームで流れている。

「おめでとう、と言うべきなのかな」

 挨拶の順番が回ってきて、目の前に真亜瑠さんが立つとわたしは言った。

「ええ。ありがとうございます。これで鈴木さんの出版記念パーティーでは事務所なんかを通さず私が歌って差し上げられますね」

「私なら、出版は、ないな」

「そうとも限らないかもしれませんよ」

 真亜瑠さんはわたしに、オールドグランダッドの114がなみなみと入ったカットグラスを手渡してきた。

「鈴木さんとの思い出のバーボンだから。もう一回一緒に飲みたくて」

「そうだったね。うん。飲もう」

 真亜瑠さんとわたしは、お互いの右腕と右腕を絡め、折り返して口元に戻ってきたグラスから、そのバーボンを飲んだ。少しくらいの感傷など瞬く間に蒸発させそうな熱が、口の中いっぱいに広がった。

「私には誰にも話せない秘密があるんだ。それを話してしまってもいいかな?」

 命を救ってもらった少年のこと。その見返りとして大いなるものに小説を書くことを差し出したこと。それらを洗いざらいぶちまけたい気分だった。真亜瑠さんならそれを黙って聞いてくれそうな気がした。

「それは私が聞いてもいいお話なのでしょうか?」

「真亜瑠さんに話せないなら、一生秘密として背負っていく話だろうね」

 真亜瑠さんはわたしの心の中を覗き込むかのような真剣なまなざしでわたしを見つめた。やがて、

「お聞きしない方がいいと思います。どのような種類のお話かは分かりませんが、私が聞いてしまうと、それは現実のものとなってしまいます。それはたぶん鈴木さんが望まれているものではない。伝えるとは、それほどの力を持つ行為です。それでもお話になりたいというなら、覚悟を持ってお聞きしますけれど、いかかでしょう?」

 わたしには、その真亜瑠さんの返事だけで充分だった。わたしの秘密は、わたしの中で解決するべきものだ。そしてその答えは、契約を結んだその日にすでにわかっていたことだ。わたしはお礼も込めて笑顔を作り、

「きょうの祝賀会ですべて終わりかい」と訊いた。

「東京で同じ主旨の会が残っています。あちらも強敵ですが、きょう、ここで、みなさんの顔が見られたから、もう大丈夫です。怖いものなしかな」

 そう言ってみせた真亜瑠さんの笑顔は、とろけるほどにやさしくてやわらかいものであった。

 大いなるものよ。わたしの生き様が罪であるのならば、遠慮なくこの命を奪っていくがいい。わたしは今、ここにいる。どこにも逃げやしない。

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