第5夜 西国幻想夜話:皇子と幻影術師

 昔々、西に小さいけれどとても豊かな国がありました。

 様々な異国の旅人がその国を経由して行く、いわば宿場町のような賑わいを見せ、主に貿易で潤っておりました。

 また旅人の出入りが多い国でありましたから国は高く頑丈な城壁に守られ、軍隊も精鋭揃いでした。


 ただこの国の悩みの種は体の弱い皇子でした。

 また皇子が生まれた翌年に王妃を亡くしたこともあって、国王は皇子を部屋に閉じ込めて大切に大切にしておりました。


 城の外から聞こえる賑わいの声、噂に聞くたくさんの不思議な話。

 皇子は幼い頃から城の外を自由に歩き回りたいと願っておりました。

 そんな皇子の為に国王は月に一度、楽団を呼んで城内で宴を開いたり、異国からもたらされる甘い菓子や珍しい品々を与えました。

 しかし、外への興味は募るばかりで皇子専任の衛兵に何度も外へ連れ出して欲しいと懇願するようになりました。

 が、衛兵も国王の命に背くことはできず、せいぜいが城の庭を馬で駆けたるなどして気晴らし程度のことしかできませんでした。


 が、そんなある日。

 様々な偶然が重なって、楽団の中に交じって皇子は城を脱け出すことに成功しました。

 女性の装いに身を包み、薄い絹のベールで顔を隠し、夕暮れの街に溶け込むと、人の多さ、賑やかさ、その活気に心が躍りました。


 初めて間近で見る世界。


 屋台のランタンに灯が灯り始めると幻想的な世界が広がりました。

 そして良い香りが漂い、人の波に押されて広場まで辿り着くと、そこでは双子の幻術師が見世物をしておりました。


 白い衣を纏った青年の手から色とりどりの光る花弁が舞い上がったかと思うと、黒衣を纏った青年の手からは白く美しい鳥や青く美しい蝶が空へと光の粉を纏って羽ばたいていきました。

 群衆からは溜息と歓声が漏れ、拍手が沸きあがります。

 皇子も思わず拍手を送りました。

 が、次の瞬間、目の前に白い虎が現れると悲鳴と共に群衆が身を引きます。

 けれど虎はすぐに水飛沫となって群衆の上に雨のように降り注ぐと、再び歓声と拍手が沸き起こりました。


 白衣の方が紫釉シユ、黒衣の方が仔空シアと言い、静が紫釉ならば仔空は動でした。

 同じ顔でありながら真逆の雰囲気を纏った二人が魅せる幻術の数々に皇子はすっかり魅了されていました。


 その頃、城内では皇子が消えたことで当然大変な騒動となっておりました。

 すぐに皇子専任の衛兵を筆頭に兵が城外へ馬を走らせ、城に来た楽団を初め、街中を駆け回って皇子の行方を追いました。

 しかし女性の衣を纏った上、絹の布で顔を覆った皇子をそう簡単には見つけられませんでした。


 が、最前列で幻術を見ていた皇子にいたずらに仔空がその絹の布を美しい花に変え、花弁を散らしてしまいました。

 運が悪いことにそこに衛兵が通りかかり、とうとう皇子は見つかってしまったのです。


 慌てて逃げ出す皇子。

 よもやそれが皇子だとは思わない幻術師の二人は王の軍とはいえ、か弱い女性を追う兵達から彼女を守ろうと行く手に塀を出現させ、幻術で足止めをしようとしましたが、所詮は幻術。

 皇子を連れ戻すことしか頭にない衛兵にとって、かような欺瞞まやかしは通用せず、簡単に突破されてしまいました。

 が、それでも二人は諦めず、街の隅々まで知り尽くした彼らは先回りして皇子の目前に現れその手を引き、馬では通れぬ細い路地へと誘導しました。

 体の弱い皇子が息を切らし、胸を押さえて立ち止まると、仔空が抱きかかえて走りました。

 迷路のように複雑に入り組んだ場所をスイスイと逃げ、民家の地下にある二人の秘密の隠れ家に皇子を匿いました。

 が、隠れ家に着いた頃には疲れ果てた皇子は眠ってしまっていました。


 ふと目を覚ました皇子は自分のいる場所が自室でないと気づき、その不思議な感覚に喜びを感じました。

 地下に陽の光は入りません。

 皇子はまだ夜だと思っていましたが、すっかり日は昇り、仔空は市場へ食料を求め、紫釉は皇子の眠っていた寝台の傍らで繕いものをしておりました。


「おはようございます」

 紫釉のその言葉に皇子は「『こんばんは』ではないのか?」と眉をひそめた。

「もう夜は明けましたよ?」

 笑う紫釉に皇子は寝台から飛び降りた。

「帰らなくては……」

 さすがに一夜も城を離れれば皆が心配するのは分かっていました。

 それにそんなに長く城を離れるつもりはなかったのです。

 ただひと時、外の世界を楽しみたかっただけだったのです。


「ここから出ればまた追われますよ? 見つからないように家まで送りましょう」

 紫釉が繕いものを止めて立ち上がると、皇子は申し訳ない気持ちで一杯になりました。

 紫釉はか弱い女性がまさか皇子だとは少しも思っていません。

 華奢で美しく整った顔立ち、長く伸びた黒髪。

 どこからどう見ても男性にすら見えませんでした。


 真実を打ち明けるべきか、皇子は迷いました。

 皇子であること、そして女性ですらないことを打ち明けたら紫釉はどう思うでしょう?

 おまけにただ外の世界が見たいという身勝手な理由で城を脱け出し、たくさんの兵が探しに来ていることで民に不安を与えていることも皇子は分かっていました。


「……私が悪いのです。大人しく彼らに従うつもりです」

 皇子がそう言うと紫釉は「一体何をしたのです?」と問いました。

「私は……」

 皇子がそう口を開きかけた時、頭上で大きな物音がし、たくさんの人の足音がしました。


「すまない」

 地下への階段を降りて来たのは謝罪の言葉を口にした仔空と衛兵達でした。

 市場で仔空を捕らえた衛兵に無理矢理この場所へ案内させられたようで、仔空の顔には殴られた痣までありました。

 その姿を見、皇子は酷く心を痛めました。


「悪いのは全て私です。あなたが謝る必要などありません。むしろ私が詫びねばなりません。巻き込んで申し訳ありませんでした」

 皇子はそう言い残して衛兵と共に城へと戻って行きました。


 ただ、幻術師の二人は彼女が彼だったとも皇子だったとも知らぬまま。


 しかし、城に戻った衛兵は王によって牢に入れられ、さらには酷い仕打ちまでされました。

 皇子の傍にいながら皇子を城外へと行かせてしまい、さらには一晩も城の外で過ごさせてしまったからです。

 そのことを知って皇子は自分を責めました。

 自分の軽はずみな行動で大事な衛兵が酷い目に遭わされたのです。

 さらに兵達は一睡もせずに一晩中皇子を探していたこともまた皇子の心を痛めました。


 皇子は衛兵が入れられた牢に赴き、衛兵にひたすら謝りました。

 けれど、衛兵は皇子を責めるどころか自分を責めていました。

「陛下がおっしゃったことは正しい。此度の件は私の不徳の致すところです。皇子は何も悪くありません。私のことで皇子が気に病む必要は全くございません。こんなところにいてはお体に障ります。どうかお部屋にお戻りください」

 優しい言葉に皇子は思わず泣いてしまいました。

 自分の愚かさに後悔が涙となって溢れました。


 それから皇子は窓の外を見ることはなくなり、塞ぎ込むことも増え、やがて食事もままならず、さらに容体は悪化していきました。

 華奢な体は益々貧弱になり、床に就くことも増え、その様子は牢の中の衛兵の耳にも入りました。


 王もまたそんな皇子の様子に頭を悩ませました。

 医者に診せても心の病として成す術がないと言い、このままでは長くはないとまで言われてしまいました。

 皇子の容体が芳しくないとの噂はやがて幻術師の双子の耳にも届くまでとなりました。


「これを返しに行こう」

 と仔空が提案すると思慮深い紫釉は首を横に振りました。

「私達のような者が城に入れると思うか? 門前払いにされるだけだ」

「この機会をみすみす逃すのか? 俺達なら絶対入れる」

「でも一度兵に顔を見られてる。それに私達が会いに行くのは皇子じゃないんだぞ? わざと捕らえられに行くのか?」

「そうだな。そっちの方が確実だ」

 仔空がぽんっと手を打つと紫釉は呆れたように溜息を吐つきました。


 二人は皇子の容体が悪いことを利用して、笛の演奏を届けに行こうと考えたのです。

 紫釉は幻術だけでなく、笛の演奏も得意でした。

 そうして城に入り込み、折りを見てを探しに行こうと考えたのです。

 二人はが城の牢に捕らえられていると思っていたのです。

 街で幻術を披露した時に彼女の顔を覆っていた絹の布はまだ彼らの手の中にありました。

 それを返しに行くという口実を作って、もう一度彼女に会いたいと思っていました。

 皇子が彼らの幻術に魅了されたように彼らもまたの姿に魅了されていたのです。


「深く考えるなよ。俺達には幻術がある。いざとなれば逃げられるさ」

 仔空が紫釉の手を強引に引くと「この前は簡単に捕まったくせに」と紫釉は嫌味を言いながらも渋々頷いて城へと向かいました。


 一方、城では王は苦渋の決断を下したところでした。

 皇子の為に衛兵を牢から解放し、楽団に心安らぐ音楽を奏でさせました。

 衛兵に抱きかかえられて庭を散策もしましたが、すっかり弱ってしまった皇子にはそれを楽しむことすらできませんでした。


 あの双子の幻術師が城を訪れたのはその時でした。


 衛兵から皇子が魅了された幻術師だと聞き、王は訝しみながらも双子を城内へと招き入れました。

 謁見の間で皇子の姿を見た彼らは思わず息を飲みました。

 皇子もまた彼らの姿に一瞬、目を輝かせました。


 しかしそれは皇子の秘密が明かされてしまった瞬間でもありました。


 双子の幻術師はが彼であること、それから皇子であることを知りました。

 それでも彼らは気づかぬフリをし、紫釉の笛の音に合わせて仔空が舞いながら幻術を披露しました。


 美しい鳥、蝶、花……それらが色とりどりに鮮やかに舞う様は、とても幻想的で皇子だけでなく、王の目も楽しませました。


 笛の音がより一層幻想的な雰囲気を演出し、仔空の時に繊細で時に大胆で華麗な舞も人の動きとは思えぬものでした。


 そんな彼らの幻術も終盤に差し掛かった頃、皇子の頭上を白い鳥が舞い、羽を散らして消えたかと思うと次の瞬間、あの時の絹の布がふわりと皇子を包みました。

 皆が皇子に目をやった瞬間、「一夜の夢をご堪能頂き、ありがとうございました」と仔空の声がして再度皆が幻術師に目をやりましたが、そこには白い羽根が一枚と黒い羽根が一枚残されているだけで、二人の姿はどこにもありませんでした。


 不思議なことに皇子がその二枚の羽根を手にすると、金の砂に変わり、皇子の手から零れ落ちて消えてしまいました。

 が、それ以来、病弱だった皇子は元気に回復したどころか、風邪一つ引かぬほど丈夫になりました。

 お蔭で王も皇子を部屋に閉じ込めることをせず、衛兵と共に堂々と街を散策されることも増えました。


 ですが、あの双子の幻術師の姿は街から消えてしまい、皇子は方々を探しましたがついに見つかりませんでした。


 風の噂では幻術の腕を磨く為に異国の地を目指したとか、はたまた異国の商人によってどこぞへ売られてしまったとか、あるいは異国の王宮で幻術を披露しているとか。


 けれど数年後、この地を巡って起こる大きな争いで白い虎を見たとか、光る蝶の大群を見たとかそんな噂が流れたそうです。


 が、それはまた別のお話Asylumとして語るとしましょう。

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