第4夜 雨待つ縁側:作家と夕立

「今日も暑いですねぇ」


 庭先から声を掛けられ、書き物をする手を止め顔を上げる。

 紫の風呂敷包みをひょいと掲げ、笑顔を見せる顔にもうそんな時間かと確かめるように壁掛け時計に目をやった。

 集中するとやかましい蝉の鳴き声すら耳に入らなくなり、自分の世界に没頭してしまう。


季楽庵きらくあんのわらび餅。抹茶味だぞ」

 客人が縁側で風呂敷を解いて見せると、中から竹の葉で編んだ上品な箱が現れ、その蓋を取ると抹茶の粉がびっしりと詰まっていた。

 くしゃみをすれば大変なことになりそうだ。


「夏といえばやっぱりわらび餅だな。お茶を淹れるからまだ食べるなよ?」

 そっと蓋を閉め直し、彼は縁側から上がり込んで台所へ直行した。

 一つくらい、と彼の姿が見えなくなったのを確認して、そっと蓋を開けようと縁側へ四つん這いになって手を伸ばしかけた時。


「空……遠いねぇ」


 小さな女の子の声がして、ビクリと顔を上げる。

 庭の真ん中にいつの間にか着物姿の女の子が空を見上げて立っている。

 日本人形のようで少々怖い印象を受けた。

 よく見ると、女の子の青色の着物の左袖に厚みがない。


「迷子?」


 問うと驚いた顔で振り返った。

 あどけない可愛らしい顔に安堵する。


「飛べないの。だから置いて行かれちゃったの」


 淋しそうに俯く女の子の足元に目をやる。

 ああ、そういうことか。

 それで飛べないのか。

 納得して私も縁側に這い出て空を仰いだ。


 今日もよく晴れた空が広がっている。

 毎日カンカン照りでニュースでは水不足を心配する報道がされていた。

 そろそろ一雨欲しいところだ。


「……ちょっとここへおいで。一緒にお茶にしよう」


 そう言って私は縁側へ女の子を招き、「冷たいお茶を一つ頼めますか?」と台所へ向かって叫んだ。


 彼がお茶の入ったグラスを盆に載せて戻って来ると、私はどうぞ、と女の子に手渡した。


「ちょっとここにいて貰えますか? 少し電話をして来ます」


 不思議そうにする彼を残し、私は居間で電話を掛け、すぐに縁側へと戻る。


「先生……」


 不安そうに見上げて来る彼に「大丈夫です」と言って縁側から外に出た。

 良く晴れた空は徐々に曇り初め、急に暗くなった。


「雨だ……」

 彼も突然の雨に驚いて縁側から顔を覗かせた。

「先生、風邪引きますよっ。早く中に入って下さいっ。今、タオル取って来ますから」

 慌ただしく彼が風呂場へ駆けて行くが、私はそのままその場に立っていた。

 雨は徐々に強くなり、あっという間にパンツまでびしょ濡れになった。

 雨粒が痛いと感じる程強く降り始めたのも束の間、すぐに勢いは弱まり、徐々に晴れ間を覗かせ始めた。


「先生……ってあれ? 雨が上がってる?」

 彼が戻って来る頃にはすっかり晴れており、首を傾げながらもバスタオルを広げる彼を私は無視した。


 濡れた髪をかき上げ、空を仰ぐ。

 雨雲が去って、再び雲一つない青空が広がっているのを確認し、私は女の子に手招きした。


「こっちに来てごらん」


 女の子は小首を傾げたが、私が地面を指差すと興味を惹かれたようで駆け寄って来た。


「水溜りを覗いてごらん。何が見える?」

 雨上がりの庭には水溜りが幾つか出来ていた。

 着物の袖が地面に着くのも構わず、女の子はしゃがみ込んで水溜りを覗き込んだ。

「……空が見える」

 その隣に私もしゃがみ込み、水溜りに右手を浸けた。

「空に触れた」

 笑いかけると女の子も笑顔になって私と同じように片手を浸した。

 それからふと何かに気づいて振り返り、立ち上がって駆けて行った。


「見て見て。空を踏んでる」


 うちの庭には小さな金魚池がある。

 もう随分昔に干上がって池ではなくなってしまったのだが、大雨が降った後は池のようになることもある。

 そこに女の子は濡れるのも厭わずバシャバシャと入って片手を広げ、踊るように回っていた。


 楽しそうなその光景に思わずこちらも顔が綻ぶ。


「いつでもここに遊びにおいで。雨が降れば空に触れるし、一緒にお茶をすれば一人じゃないでしょう?」


 私の提案に彼は不安そうにしたが、女の子は「ありがとう」と満面の素敵な笑顔を向けてくれた。


 女の子はその後しばらく金魚池ではしゃいだ後、いつの間にか姿を消していた。


「……先生、説明してください」


 案の定、彼はわらび餅を頬張りながら口にいっぱい抹茶粉を付けてむくれた。


「かわいい女の子が遊びに来ていたんだよ」

 彼にはさっきの女の子の姿は見えていない。

 彼の目にはただお茶が勝手に減っていくように見え、彼の耳には金魚池がバシャバシャ音を立てているのが聞こえただけだ。

 こういうことは時々あるので、彼も少し慣れている。


「……幽霊、だったんですか?」

「違うよ。片翼の……あれはオオルリかなぁ? 小鳥だったよ」

「鳥ぃ? 鳥なら僕にだって見えます。見えないってことは鳥の幽霊でしょ?」

「そう……なるのかなぁ? 妖怪とか精霊とかそういったものに近いものだと思うけどね」


「妖怪って……塗り壁とか一反木綿とかああいうのですか?」

「まぁ……そんなものかな?」

「妖怪って本当にいるんですか? 先生は塗り壁見たことあるんですか?」

「ないよ。一つもね」

「じゃあなんで妖怪って言えるんですか?」

「幽霊じゃなくて君に見えないものだから、それを分かりやすくカテゴライズしたら妖怪かな、と。私だって彼らが見えてるだけで何者かなんて知らないよ」

「でも鳥で種類はオオルリなんでしょ?」

「そんな風に見えただけだって。それが正体かどうかなんてのも私には分からないよ。何一つ分からないんだから、似たもので答えるしかないでしょう? 答えられないんだから聞かないでくれるかな?」


「先生は作家じゃないですか。言葉扱うんだから的確に表現してくださいよ」

「作家でも私は売れてないし、無名に近いんだよ。それにね、私は今までずっと孤独に生きて来たんだ。そんな人間に表現力を求める方が無理だよ」

 作家だという痛いところを突かれ、私は大人げなく逆ギレしてしまったが、言ってる途中で自己嫌悪に陥った。


「……ところで電話は何だったんですか?」

 彼も私の機嫌を損ね、悪い空気を感じて話題を変えた。

「ああ、あれは……古い友人にね雨男がいてね、夕立を降らせてくれって頼んだんだ」

「え? 雨男って……え? え?」

 分かりやすく混乱する彼に私はわらび餅を一つ頬張って頬杖をついた。

「いるんだよ、一人。雨とお友達の人間がね。私には彼の友達の雨さんは見えないんだけれど」

「え? 先生にも見えないんですか?」

「なんでも見える訳じゃないよ。きっとこういうものはね、波長の合う人だけが見えるんだと思うよ? 君もいつか波長の合った何かを見ることがあるかもね」


 そう言うと、彼は「えー」と嫌そうな顔をした。

 彼は極度の怖がりだ。

 私の側にいて多少免疫は出来たとはいえ、やっぱり怖いものは怖いらしい。


 その後、女の子は時折うちに顔を出すようになった。

 雨の日は必ず来る。

 けれど未だに私は女の子の名前も正体も知らないのだけど、私と彼の間ではオオルリにちなんで『瑠璃ちゃん』とこっそり呼んでいる。

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