60  巡り逢い

 浅葉がドアを開けて出ていくと、長尾の髭面ひげづらが待ちかまえていた。


「おい、どした? 今日ってそんな難しい話だっけ?」


 ああそうだ、この上なく難しい、と返したいところを無言で飲み込み、浅葉はガラスのドアを後ろ手に閉めた。


 浅葉のキャリアの中でも数少ない、心底辛い仕事になることはとっくにわかっている。


 空っぽの胃の痛みははっきりとそこにあり続けた。唾液腺が不気味にうずく。だが、今から一本吸いに戻ったところで、何が変わるとも思えない。


「まあVIPっちゃVIPだけど、内容的にはいつものやつだろ?」


と、長尾だけは平常運転だ。


「ちなみに、もう来てるぜ。生で見るとなかなかかわいい子だな」


 浅葉は、思わず「黙れ」と噛み付きそうになるのを何とかこらえた。長尾はおかまいなしに続ける。


「ほら、顔立ち自体はやっぱどことなく似てるからさ。写真だとその印象しかなかったけど。……ま、仲良くやれよ」


と、また一言余計なことを言う。浅葉は、


「お前は現場を押さえることに集中しろ」


とだけ言った。


「はいはい、わかってます」


 長尾は首をすくめ、大部屋へと去っていく。




 ドアの一つが開いており、ブリーフィング中らしき声が漏れ聞こえてくる。そこに時折、はい……はい……と答えるか細い声。


 浅葉は自分の足音の向こうにそのやり取りを聞きながら、一歩、また一歩と歩みを進めた。二人の声が徐々に近付く。


 浅葉がその戸口に姿を現すと、坂口がぱっと振り向いて言った。


「あ、今ひと通り説明したところです」


 坂口の向かい側に座る彼女を、浅葉は視界の端で捉えていた。白い半袖のカットソー。反射的に懐かしさが込み上げる。


 坂口は立ち上がり、


「じゃ、行ってらっしゃい」


と彼女に向けてピシッと敬礼を決め、足早に出ていった。

 

 残された用心深げな顔が浅葉を見上げている。理知的なのにどこか温かい、育ちの良さをうかがわせる目。茶色がかった睫毛まつげが、二度、三度と上下した。浅葉は理性を総動員してこの女性に「護衛対象」とキャプションを付ける。


「田辺千尋か?」


と問いかけると、彼女はちょっと気分を害したように眉を寄せた。


「はい」


 その不服そうな表情の愛らしさに、浅葉は目を奪われた。


 いや、彼女から見れば俺は見知らぬ刑事でしかないのだ、と自分に言い聞かせ、何とか平常心を取り戻す。しかし、「初対面」の彼女にどんな顔で何を言えばよいのかわからず、努めてシンプルに、


「よろしく」


とだけ挨拶した。


 彼女は何か言いたそうに開いた口を一度閉じ、再び開いて、


「……あ、こちらこそ。よろしくお願いします」


と頭を下げた。


 その拍子に、少し癖のある前髪がふわりと揺れた。




                        (了)








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君の思い出 生津直 @nao-namaz

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