9/28 季節を香る

 秋の空気を吸いこむと、金木犀の香りがした。冷めきらぬ夏混じりの空気と甘い香りは、忘れがたいと思うのに秋になるまで思い出すことがない。


 君との記憶もまた、この季節になるまで思い出すことがないのに。君の電話番号も、実現しなかったお祭りデートのことも、香りとともに思い出す。


 プルースト効果だよ。


 君の声が聞こえてくるようだ。


 去年も金木犀、嗅いだでしょ? 帰り道でさ、咲いてた。あの時のキスの味とか、景色とか、思い出すなあ。


 自分ではないところから記憶が流れてくるようだ。ずいぶん湿っぽい空気が、星の光をぼやけさせていた。あの日はなんでもない仕事帰りの、スーパーの帰りだったことを覚えている。


 次は花火大会ね。湘南の方に行きたいな。


 君がそういっていた言葉は嘘だったみたいだ。


 あれから一年が経つ。ずいぶん記憶はもやがかっているのに、金木犀の香りとそれに紐づいた記憶は鮮明だ。


 ……君の電話番号を思い出せる今、かけてみようか。かけてしまえばなにかが変わるかもしれない。


 目の前を猛スピードで通過したトラックが、僕の肩を揺さぶった。疲れきった目にはテールランプの赤い光すら、ひどくまぶしく映った。


 やめておこう。今の僕はずいぶん変わってしまった。やらなかった煙草も、やらなかった晩酌も、やらなかった競馬も、今の僕にはこびりついている。


 君はどれほど変わってしまっただろう? それを知るのもまた恐ろしい。


 花はすぐに枯れる。枯れた花は戻らない。


 小走りで道を渡り、車の鍵を開けた。あの頃、空はこんなに真っ暗だっただろうか。星もいつの間にか見えなくなっていた。


 さ、帰ろう。


 エンジンをかけようとしたとき、ポケットが震えた。仕事の連絡かと画面を見て、番号に笑った。


 金木犀が、咲いていた。

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短編愁 仙崎愁 @Senzaki_nov

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