10/19 さよなら夜

 気づけば午後十時の十分前、僕は難解でいやに現実的な夢を見た。海の底へ沈んでいく夢だ。深縹色の深海で日も注がない。海藻もなにもなくて、生き物といえばプランクトンと深海魚だけだ。底でなにか恐ろしいものを見たから僕は飛び起きたのに、もうその恐怖しか覚えていない。


 頭がしびれてなにもわからなかった。貰いものの枯れたライラックも出しっぱなしの皿も、積み重なる穢れも、なにも。


 こういうときは火みたいに熱いシャワーを浴びるのが一番いい。いいのだけれど、身体がどうにも動かない。本当に深海へ沈んでしまったように、水のような空気に押しつぶされて、僕はうつ伏せのまま呆然としていた。


 まったく深い海だ、この世界は。だれも彼も沈んでいる。


 そういえば、今日の帰り道に寝転んでいた猫はどこへ行っただろうか。餌を求めてだれかの家に居座っているか、あるいは車に轢かれてしまっただろうか。


 たしかに死んでしまったかもしれない。思えばあの猫は歩き方がよたよただったし、ずいぶん痩せてしまっていた。それなら死んでしまっていてもおかしくはない。プランクトンに捕食され、炭素はループに還っていく。


 昨日駅のホームでいさかいを起こしていた男ふたりはどうなっただろう。どちらかが押したとか押さないとか、遅いとか遅くないとか言いあっていたっけ。


 彼らのどちらかが死んでしまったっておかしくはない。ひとりは髪が白くなるほど歳を取っているし、ずいぶん太っていた。もうひとりはジャンクフードが主食みたいな痩身だったから、栄養失調で死ぬかもしれない。でも死因はみんな一緒、溺死だ。そしてまた炭素のループだ。


 なにが悪いとか悪くないとか、当人たちに悪そのものが含まれていたわけではない。この夜より重い水のせいで狂ってしまっているだけだ。悪を糾弾するならつまり、すべてが息を止めるしかない。そうだ、底で見たのはこの絶命だ。


 いずれにしても現実はこれから、僕らは重苦しい空気のなかで沈んでいるしかない。この馬鹿げた水の重さのなかで、いつまでも沈んでいくしかない。夜の深さに救われるしかない。夜は僕たちを包みこんでくれる。水の重さなんて忘れさせてくれる。


 また深い夢のような現実が迫ってくる。抗えずにまた眠っていく。夜なら溺れずにすむはずなのに、深く水へと溺れていく。


 さよなら夜。今度はもっと深くまで、僕を連れて行ってくれ。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る