第13話  四月十七日(木) ルール


 オレは――歩くことはキライじゃない。


 歩いている時は足を動かすだけだから、脳みそが暇になる。そうすると、脳は自動的に自分が書いた小説を推敲すいこうし始める。頭の中で自分の小説を読み返し、誤字脱字を見つけ、文章を直す作業がオートで働く。


 だから、ただボーっとしながら外を歩くだけで、ストーリーの矛盾点や背景描写の揺れを無意識のうちに探し出し、修正が必要な箇所に気づかせてくれる。



 ……はずなのだが。



 今日はダメだ。まったく何も思いつかない。脳がこれっぽっちも働いてくれない。まるで脳細胞が絹ごし豆腐にでもなったみたいに、完全な思考停止に陥っている。


 だから――。


 オレは今日、学校を無断で休んだ。


 朝起きて家を出たところまではいいのだが、頭がバカになりすぎて、学校に行く気がどうしてもしなかった。そういうワケで、学校とは反対方向にフラフラと歩き出し、かれこれ一時間以上は歩いている。


 だけど、別に行く当てはない。目的もない。どこに向かっているのか自分でも分からない。ただひたすら、足に任せて進むだけだ。


 オレは何も考えず、大勢の人でにぎわう最寄りの駅を通り過ぎ、交通量の多い陸橋を渡り、そのまま広いバス通りをひたすら歩く。


 どこかの高校の横を通りかかった時、不意にチャイムの音が聞こえた。


 目を向けると、校門の奥のポール時計は十一時を回っている。いつの間にか、家を出てから三時間以上が経っていた。もうすぐお昼と考えると、時間なんてあっという間に過ぎていくモノだと、心の底から実感する。


 だけど――うん。たしかにそうだ。

 だって、オレの三年間も無駄に消えてしまったんだから。


 ヒトに読んでもらえない小説を書くことほど無駄なことはない。

 ほんと、オレは今日までいったい何をやってきたんだろ……。


 重い口からため息が漏れた。


 さらに辛気くさいため息があとに続き、そのまま灰色のアスファルトに目を落としながら足を動かす。片側三車線の大きな道路を渡り、すぐそばにあった公園の門を通過。どうやら海浜公園まで来てしまったらしい。


 今はまだ四月の半ば。県営プールは営業していない。公園に入ってすぐ横を見ると植物園がある。広い前庭には色とりどりの花が咲き乱れ、奥には近代的な建物が見える。


 なかなか洒落た植物園だ。しかし、ここには二度ほど来たことがあるが、あまり記憶に残っていない。昔のオレにとって、植物園はそれほど楽しい場所ではなかったようだ。


 だけど、今はなぜか心が惹かれる。


 もしかしたら、何か小説のネタがあるかも知れない――と思いつつ建物に入ってみると、中は想像以上にガラガラだった。客はほとんど見当たらないどころか、一人もいない。ゲートに係員が一人いるだけだ。


 しかしまあ、平日の午前中なんてこんなもんだろ。普通の子どもは学校に行っている時間だし、普通の大人は忙しく働いている頃合いだ。


 オレは何も考えずにチケットを買い、天井の高い吹き抜けのアトリウムをまっすぐ抜けて、温室ドームに足を踏み入れる。中はわずかに蒸し暑く、上から下まで緑色の植物だらけだ。ところどころに色鮮やかな花が咲いているので、思った以上に見ごたえがある。




「――おや? キミもサボリかい?」




 え?



 背後からいきなり落ち着いた声が聞こえてきた。振り返ると、黒いセーラー服の女子高生が立っている。うちの学校の制服だ。長い黒髪をアップにまとめたその女子は、何やら興味深そうな目つきでオレを見ている。


「ねぇ、キミ。よかったら、ボクと一緒に見て回らない?」


「うお、マジか。ボクっ子なんて初めて見たぜ」


「あは。キミ、面白いね。ボクは藤宮那留ふじみやなる。ボクっ子って呼んでくれてかまわないよ。キミは?」


「オレは寿々木すずきだ。寿々木深夜しんや


「そうか。じゃあ、深夜クン。屋上に行ってみよう。バラが飾ってあるらしいから」


 そう言って、藤宮那留はさっさと歩き出す。


 まさかこんな時間にこんな場所で同じ学校のヤツに会うとは思いもしなかった。しかしまあ、そんなことはどうでもいい。どうせ今日は、頭がまったく働かない。驚いたとか後ろ暗いとか、そういうめんどくさい感情は後回しだ。とにかく今は、流れに身を任せて進むだけだ――。


 オレは無言で、藤宮那留の隣を歩いた。

 オレよりちょっとだけ背の高い藤宮那留は、館内を隅々まで案内してくれた。


 あそこには早咲きのバラがある。

 あっちのチューリップはなかなかに可愛らしい。

 今の季節はポピーも見事だ。


 ――ってな具合に、藤宮那留は楽しそうに春の花を眺めて歩く。


 裏庭に出ると、ローズガーデンと大きな東屋があった。しかしバラの満開は五月なので、さすがにほとんど咲いていない。レンガ造りの散歩道では、二人の女性職員が小さなバラのアーチを準備している。来月になれば、きっとロマンティックなアーチになるのだろう。


 そうしてあっという間に一時間が経過した。


 オレたちは植物園に併設しているレストランで昼飯を食べて、それから砂浜をゆっくり散歩した。


 水色の空の下に広がる東京湾は、穏やかで静かだった。青くて白い波間には、ピクリとも動かない白い鳥がプカプカ浮いて、ゆらりゆらりとどこまでも流されていく。あれは浮かんだまま寝ているのだろうか? その姿はちょっぴり間抜けで、思わずクスリと笑ってしまう。



 まあ、流れに身を任せているオレも、あの鳥と同じようなモンだがな。



「へぇ。深夜クンは小説を書いているんだ。何だかすごいね」


「いや。残念ながらオレはぜんぜんすごくない。オレの小説を読んでくれたのはたったの六人だけだし、ブックマークだって二個だけだ。つまりオレには、才能がなかったんだよ。それで貴重な三年間を無駄にしちまったんだ」


「そうかな? ボクはそうは思わない」


 藤宮那留は、軽くオレを指さした。


「無駄か無駄じゃないかは深夜クンが決めることだ。でも、一心不乱に小説を書いたのなら、深夜クンにはその経験が蓄積されている。それは成功という花を咲かせる栄養になるはずだ。キミが積み重ねてきた経験は、諦めたら腐ってしまう。だけど少しずつでも前に進めば、いつか必ず花開く。――と、ボクは思う」


「……気休めはやめてくれ」


「そう。ボクの言葉は気休めだ。だけど、ボクには見えるんだよ」


 藤宮那留はオレの背後と頭の上を指さした。


「キミの後ろには道がある。それはキミが歩いてきた過去だ。そしてキミの上にも道がある。それはキミがこれから進む未来だ。どちらも辛く苦しい道のりだけど、キミの道は見事なほどにまっすぐだ。だからボクは、ルールを一つ破ろうと思う」


「ルール? なんのことだ?」


「これは非常にたわいもないことで、非常に重要なことだ。キミはこの先、何度も何度も挫折する。心がくじける。涙を流す。自分の力だけではどうすることもできなくなり、前にも後ろにも進めなくなる。そして多くの人がキミをけなす。おまえの小説はつまらない。文章が下手くそだ。ストーリーにひねりがない。山がない。引きがない。起承転結がなっていない。才能がないからもう諦めろ――」


「ごふ……」


 オレは砂浜に両手をついてうな垂れた。


「たしかに、もうこの時点で心がくじけたぜ……」


「あは。ごめんごめん」


 藤宮那留はオレの隣に腰を下ろし、寄りかかって言葉を続ける。


「ちょっと余計なことを言いすぎちゃったけど、ボクが言いたいことは一つだけ。深夜クンの未来は、きれいに輝いているよ――ってことなんだ」


「なんだそりゃ? おまえまさか、オレの未来が見えるのか?」


「まあね。ボクは時空間の観測者だから、すべての過去と未来に平行して存在しているんだよ」


「あっそ」


 オレは両手の砂をはたき、藤宮那留の背中に寄りかかる。


「つまりおまえには、未来にいるオレが見えているってことなんだな?」


「その時空間にいる、別のボクの目を通してだけどね」


「そうか。じゃあ、一つだけ訊かせてもらおうか」


 なんだい? と藤宮那留は首をかしげる。


「オレの妹たちは、みんな幸せか?」


「うん。ボクの目にはそう見えるよ」



「そうか……。だったらオレも、頑張らないといけないな」



 藤宮那留の言葉は、ただの気休めにすぎないことは分かっている。


 現実には、時の観測者なんているはずがない。過去や未来が見える人間なんているはずがない。だからこいつの言葉は落ち込んでいるオレを励ますための、ただのリップサービスだ。


 キミの未来は輝いている。いつか成功の花が咲く――。そんな言葉は、励ましワードのテンプレートだ。言っちゃ悪いが安っぽいし、子どもだましでしかない。



 だけど。



 それが嘘か本当かなんてことは、どうでもいい。肝心なのは、出会ったばかりの藤宮那留が、オレを励まそうとしていることだ。そういう気遣いをしてくれたことが一番大事で、そしてそれが最高に嬉しい。


 今の世の中、落ち込んでいるヤツに優しい言葉をかけるニンゲンなんかほとんどいない。誰だって自分のことで手いっぱい――。誰だって、ダメなニンゲンを見れば脊髄せきずい反射でバカにする――。


 なぜなら、オレも昔はそうだったからだ。


 何もできない小学生のくせに、どんくさいクラスメイトを心の中でバカにしていた。何も知らない子どものくせに、勉強のできないクラスメイトを見下していた。


 本当にみっともないのはオレ自身だったのに、本当に情けないのはオレ自身だったのに、オレは自分の汚い心から目を逸らしていたんだ。


 そのことに気づいたのは、自分がバカにされてからだった。


 ヒトに見下されてから、ようやく分かった。


 だから分かる。今なら分かる。


 落ち込んでいるヤツをなぐさめることができるのは、本当に勇気のあるニンゲンだけだ。そして、誰かに優しい言葉をかけられた時、その優しさを受け止めることができるのも、勇気のあるニンゲンにしかできない。


 自分の中にある恥ずかしい自分。みっともない自分。そういう弱い自分がいることを認めるのは、本当に辛い。でも、落ち込んでいるヒトに声をかけるのは、優しい言葉をかける勇気を持つのは、それと同じくらい難しい。


 だから、たとえ一人でもなぐさめてくれるヒトがいるのであれば、オレはその勇気にこたえたい。


 だからオレは、勇気を出して前に進もうと思う。



 だってオレは、歩くことはキライじゃないからな――。



「……なあ、藤宮」



「なんだい?」


「おまえ、マンガやアニメが大好きだろ」


「あは。ばれたか」


 誰もいない砂浜に座ったまま、オレは肩越しに振り返る。

 すると藤宮那留もオレを見た。


 こいつは大人びた顔をしているくせに、瞳は無邪気な子どもみたいに輝いていやがる。まるで波間のきらめきが、こいつの中で踊っているようだ。


 穏やかな声に、優しい笑顔――。やはり、こんなヤツが時の観測者であるはずがない。現実ってのは、こんなに澄んだ瞳で直視できるものじゃないからな。


「……だけどさ、藤宮」


「うん?」


「ありがとな」


「うん」



 オレは藤宮那留と一緒に立ち上がり、二人で砂浜を散歩した。



 そして密かに、決意を固めた――。




***




 日暮れ間際のビジネス街は、家路につくサラリーマンであふれていた。



 並び立つ高層ビルからスーツ姿の男女がとめどなく姿を現し、最寄りの駅へと向かっていく。まるで川の流れのような人の群れだ。しかし藤宮那留はその流れに逆らって、すいすいと軽い足取りで高層ビルへと入っていく。


 そのまま誰も使っていない一番奥のエレベーターに乗り込み、階数パネルに片手をかざす。するとすぐにドアが閉まり、高速で上昇開始。


 電光掲示板は異常な早さで最上階に到達したが、機械の箱は止まることなくさらに上昇。それから数十秒後にようやく停止。エレベーターのドアが開くと、そこは広い空間だった。



「おや? 来てたんだね。いらっしゃい」



 天井の高い部屋の中央には、一人の少女が立っていた。フリルの付いた、白いドレス姿の女の子だ。


 藤宮那留は壁際に足を向け、不自然にポツンと作られたキッチンカウンターでコーヒーをいれる。それから、やはりポツンと配置されたソファに移動し、ローテーブルに二つのカップを静かに置く。テーブルの奥は一面ガラスの壁になっていて、夕焼けの赤い空がどこまでも広がっている。



「こっちにおいでよ。ホットミルクのカフェラテ、好きだったよね?」



 藤宮那留の落ち着いた声が、広い空間に溶けていく。


 白いドレスの少女は無言でソファに腰を下ろし、コーヒーを静かにすする。


「もしかしてキミ、怒ってる? ボク、余計な真似をしちゃったかな?」


「……別に。でも、ちょっと意外。答えを全部知ってるくせに」


「たしかにボクはすべての答えを知っているけど、その答えに至るまでの過程については分からない。深夜クンの運命は、キミと『あの子』の心次第だからね」


「だからあたしに、深夜センパイの過去を見せたの?」


「さあ? 見たいと言ったのはキミの方だったと思うけど」


「……ずるいヒト」


「ボクはヒトじゃないからね」


 黒いセーラー服の藤宮那留は、美味しそうにブラックコーヒーをゆっくりと飲む。白いドレスの少女は、苦々しい顔でカフェラテを口に含む。


「それよりキミ、今夜はどうするんだい? 本当にアレを一人で止めるつもり?」


「当たり前」


 カフェラテを飲み干した少女は立ち上がり、ガラスの壁に歩を進める。


「道端に落ちているゴミを拾うことと、人類を滅ぼす『敵』を倒すことは、根本的には同じことでしょ。できるヒトが、できることをする。ただそれだけ。ニンゲンというのは、そういう生き物のはずよ」


「それはたしかにそうだけど、キミが命を散らす価値が、ニンゲンには本当にあるのかい?」


「当たり前」


 白いドレスの少女はガラスの壁に小さな手をつき、赤い空をまっすぐ見つめる。


「ヒトの心の成長速度は、ヒトによってそれぞれ違う。悪い心は幼い心。だから、どんなヒトの心でも、いつかは良い心に成長する――。深夜センパイがそう言ってた」


「ふーん、そうなんだ。それはなかなか面白い考え方だね」


「うそつき。そんなこと、これっぽっちも思ってないくせに」


「ボクは嘘なんかつかないよ。だから、面白い考えを聞かせてもらったお礼に、ルールを一つ破ろうと思ってる」


 そう言って藤宮那留は立ち上がり、手のひらを体の前で上に向ける。すると黒い光がゆっくり集まり、小さなクラウンが現れた。その真っ黒な王冠を、彼女は少女の頭にそっとのせる。


「なにこれ?」


「お守りだよ」


「黒はキライ。白にして」


「はいはい。ニンゲンは注文が多いね」


 藤宮那留はクラウンを白い指でそっとなでる。そのとたん、王冠は白銀色しろがねいろに変化して、きらきらとした光を放ち始める。少女はガラスの壁に映る自分の姿をチェックして、満足そうに一つうなずく。


「うん。なかなかいいじゃない」


「どうやら気に入ってもらえたようだね」


「まあね。でもあなた、いつもルール破ってない?」


「それがボクの趣味だからね」


「ふーん。そういうところはニンゲンらしいんだ」


「ボクはヒトになりたいんだよ」


「あっそ。それじゃあ、あなたもついでに守ってあげる」


 白いドレスの少女はにこりと微笑み、ガラスの壁に向かってジャンプした。そしてそのままスルリと壁を通り抜け、赤い空の彼方に向かって飛んでいく。


「……おやおや。キミも、きれいなまっすぐだね」


 藤宮那留は、遠ざかる少女の背中を見つめて嬉しそうに微笑んだ。


「できるヒトが、できることをするだけ、か……。でもね、それができるニンゲンなんて、この世にはほとんどいないんだよ」


 広い空間に、落ち着いた声が静かに漂う。


 藤宮那留は、星の世界に上昇していく白い光を、見えなくなるまで見送った。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る