第6話   四月十二日(土) 封印


 朝起きたら夕方だった。



 ちょっと何を言っているのか自分でもよく分からないが、とにかく時計を見ると、土曜日の午後四時半を過ぎている。しかもオレの左右には、昼瑠ひるる夜以よいがすやすやと寝息ねいきを立てていらっしゃる。それぞれがオレの両腕をがっちりロックしていて、まるでセミだ。眠眠みんみんゼミだ。いや、別に上手いことを言うつもりはないのだが、とにかくシングルベッドに三人はさすがに厳しい。

 

 オレは無防備な妹たちの寝顔を観察しながらそっと静かに腕を抜く。ザンバラショートの昼瑠は寝ぐせがピンピン突っ立っている。逆に夜以の和風ロングヘアーはしっとりサラサラで乱れがない。うーむ、すごいな。なんで小さい子どもの髪って、こんなに滑らかなんだ?


 とまあ、そんなことを思いながら、オレは二人を起こさないようにベッドを抜け出し、我が居室『図書神殿』をあとにする。さらにそのまま『ダンジョン』の階段をのぼって地下一階を通り過ぎ、地上一階の風呂場に直行。洗面台で顔を洗ってキッチンに入ると、エプロン姿の朝花あさかが夕飯の準備に取り掛かっていた。



「――あ。おはよう、シンくん。もう夕方だよ?」



 朝花はちょっぴりふくれっ面で、オレの顔を指さした。我が妹ながら、ポニーテールの朝花はかわいい方ではないかと思う。ンだがしかし。これがもう、見た目と違い、かなり口うるさい。


 オレが夜更かしするとすぐに怒る。

 朝寝坊するとすぐに怒る。

 洗濯ものを出さないとすぐに怒る。


 しかも反論できずに黙っていると、次から次に文句が飛び出て止まらない。オレはいったいどうすればいいんだよ。はい、どうにもできません。だからオレは機先を制し、キッチンに向かいながら他愛もない会話で話を逸らす作戦に出る。



「そういや、菜々美と美空は?」


「とっくに帰ったよ。お昼前にシンくんがスリープモードに入っちゃったから、二人とも気をつかってくれたみたい。まったくもぉ。せっかく遊びにきてくれたお友達に、気をつかわせちゃダメじゃない」


 くそぉ。作戦失敗。やっぱり小言が飛び出しやがった。


 オレは「うぇ~い」と生返事をしながらキッチンのシンクに近づき、水道レバーを上げてガラスのコップに水を注ぐ。そして朝花の軽い肘打ちを背中に受けてキッチンを追い出され、ダイニングテーブルの椅子に座り、水を飲み干す。ああ、五臓六腑ごぞうろっぷにしみ渡る。


 しかし、のどの渇きがえたら、今度はお腹が猛烈に空いてきた。キッチンにはカレールーが出ていたから、今夜のメニューはカレーライスだ。イエイ。なんとなーく、視界のどこかに微妙な違和感があるが、まあ、きっと大したことではないだろう。たぶん。


「あ、そうだ、シンくん。お父さんとお母さんからメッセきてたよ」

「ふーん。それで? なんか言ってたか?」

「二人とも、シンくんのセーラー服姿に感動してたよ。今度、あの格好で会いに来い――だって」


「アホか。あんな格好で天空回廊てんくうかいろうに行けるわけないだろ」

「天空回廊? なにそれ? また例の、超大作の設定?」

「まあな。カッコイイ名前だろ?」


「さあ。私にはよく分かんないけど、普通に宇宙ステーションでいいんじゃない?」

「おまえはほんと、ロマンがないよなぁ」

「はいはい。どうせ私はつまらない女ですよぉ~」


 朝花は軽く唇を尖らせながら、オレの前に小皿を置いた。見ると、輪切りのトマトがのっている。ちゃんと皮までむいてあるのがすごい。トマトの皮をむく主婦はプロ中のプロだ。しかも一切れつまんで食べてみると、これがやたらと美味すぎる。


「なあ、朝花。これは、お酢を吹きかけたのか?」

「うん。シンくん、お酢、好きでしょ?」

「ぬぅ。おまえの気配りスキルは、パッシブでレベルマックスだろ」


「ねぇ、シンくん。今の言葉、ちょっと日本語で言ってみて?」


 えっ?


「にっ、日本語? 日本語っていうと、えっと、おまえの気配りスキル……スキル? スキルはたしか、技術だよな……? えっと、おまえの気配り技術は、パッシブ……パッシブ……パッシブ? パッシブって、日本語でなんて言うんだ?」


「受動的、だよ」


「そ、そうか。じゃあ、受動的でレベル……レベル? え? レベルって、日本語に翻訳ほんやくできるのか?」

「はい、シンくん、時間切れ~。それより、昼ちゃんと夜ちゃんはまだ寝てるの?」


「え? あ、ああ、二人とも、オレのベッドでミンミンゼミだ」

「そう。じゃあ、二人とも起こしちゃって。夜眠れなくなると困るから」

「そ、そうだな……」


 ぬぅ。何だか上手くあしらわれたような気がするが、まあ仕方がない。夕飯を作ってくれる妹に逆らえる兄なんて、この世に存在しないからな。


 オレは小さく息を吐き出し、キッチンカウンターにコップと小皿を置いて朝花を見る。そして意味もなくじーっと見つめる。見つめ続ける。なんとなーく、朝花の頬が桃色っぽくなったような気がしないでもない。


「……え? どしたのシンくん。私の顔に何かついてる?」

「ああ、いや。なんだかおまえ、お母さんみたいだな」

「うるさいっ!」


 つめたっ。朝花が指先の水滴をオレの顔面に飛ばしやがった。


「まったくもぉ。変なこと言ってる暇があったら、夜ちゃんと一緒にお風呂入っちゃって。そうしてくれると、ゆっくり洗濯物をたためるから」

「はいはい、お母さん」

「もぉっ!」


 ドアに向かった俺の後頭部に、キュウリのヘタがヒットした。オレはヘタを拾ってキッチンシンクに放り込む。するとその時、微妙な違和感の正体に気がついた。カウンターの上にはカレー皿が用意されているのだが、それが四枚しかのっていない。オレと朝花、昼瑠と夜以の分だとすると、残りの一枚、夕遊ゆうゆの分はどうしたんだ?


「……なあ、朝花。夕遊は部屋にいるのか?」

「え? 夕ちゃん? 夕ちゃんなら、お友達と映画を見に行って、お夕飯も食べてくるって言ってたけど。何か用事でもあった?」


「……いや、なんでもない。昨日、久しぶりに一緒に遊べたからさ、ちょっと嬉しくて、もう少し話でもしようかなって思っただけだから」

「そっか。それはよかったね。シンくん」


 そう言って、朝花は嬉しそうに微笑んだ。




 うちの母親チックな妹は口うるさい。

 それはもう、かなりの水準レベルで口やかましい。


 しかし、笑うとけっこうかわいいような気がしないでもない。たぶんこれが、ギャップ萌えというヤツなのだろう。そしておそらく、この妹の笑顔に騙される男は、オレ以外にもけっこうゴロゴロいるはずだ。



 気をつけよう。

 ギャップ萌えは、ただの詐欺。



 うん。

 これは小説のネタに使えそうだ。




***




 ――ちょっと待って。



 日が暮れた少しあと――。

 

 薄暗い路地裏を歩いていた青伊志霞あおいしかすみは、不意に漂った少女の声で足を止めた。しかし、前を見ても誰もいない。振り返っても無人の道路。左右を見ると、片方は大きなマンションの外壁。反対側には自動販売機しかない。声の主はいったいどこだ?


 霞はおかっぱ頭の黒髪をかき上げ、片方の耳を出す。そして静かに息を吐き出し、意識を集中。直後、自販機に目を向けた。



「……やっと気づいた?」



 声の主は自販機の上に立っていた。白いドレスを身にまとった少女だ。まるで人気アイドルのようなフリル付きの派手なドレスに、手には短いステッキを握っている。栗色の髪をショートツインテールに結った少女は、冷たい目で霞を見下ろしながら口を開く。


「あなたが仙葉せんよう学園女子高等部、一年H組の青伊志霞ね?」


「……だったら何?」


 霞は三歩後ろに下がり、自販機から距離を取る。


 するとその時――唐突に水が降ってきた。


 量はそれほど多くないが、頭からびしょ濡れになった霞はとっさに頭上に目を向ける。しかし、そこには何もない。頭の上には、はるか彼方の星空だけ。マンションの壁には窓もベランダも見当たらない。いったいどこから降ってきたんだ?


「どう? いきなり水をかけられた気分は?」


「……なんなの、あなた」


 霞は頭の水滴を片手で払い、少女を見上げる。しかし少女は無言のまま、ステッキを斜め下に振り下げる。すると再び、霞の頭に水が降ってきた。


「もう一度聞くけど、いきなり水をかけられたら、どんな気分?」


「……べつに」


「そう。あなたはそういうヒトなんだ。でもね、いきなり水をかけられたら、イヤな過去を思い出して、心の中で涙を流すヒトもいるんだよ」


「……それはまさか、寿々木深夜のこと?」


「当たり前」


 少女は不愉快そうに顔を歪めて吐き捨てた。


「顔がかわいいってだけで女子たちにイジメられて、学校のトイレで裸にされて、髪の毛をむしられて、頭から水をかけられて、着るものがないからカーテンを体に巻いて、裸足で家に帰った経験、あなたにはある?」


「……だから、なに?」


「そんな経験をしておきながら、困っているヒトがいたら手を差し伸べて、泣いている子がいたら頭をなでてなぐさめて、ひき殺された猫がいたら抱き上げる優しい心を、あなたは持てる?」


「…………」


「今までクラスに友達がいなくて、ようやくできたクラスメイトと仲良くお昼ごはん食べて、ちょっとふざけて冗談を口にしただけで、なんで頭から水をかけられなくちゃいけないの?」


「……あの発言はふざけすぎだ」


「でも、菜々美センパイと美空センパイは不愉快には思わなかった。あなたは不愉快に思ったかも知れないけど、それはあなたの感覚で、あなただけの問題。水をかけていい理由にはならない」


 少女は再びステッキを振る。

 どこからともなく湧いた水が龍のように宙を舞い、霞の体に降り注ぐ。


「ねえ。不愉快だと思ったら、口で言えばいいじゃない。どうして水をかける必要があるの? どうしてイヤなことを思い出させるの?」


「……そんな過去があるとは知らなかった」


「知らなかったら何をしてもいいわけじゃないでしょ!」


 声を張り上げ、少女はステッキを振り下ろす。水の龍が霞を襲う。


「ヒトにはいろんな過去があって、いろんなキズがあるでしょ!」


 ステッキが振り上がり、水の塊が霞に落ちる。


「知らないんなら、なおさらでしょ! なおさらヒトを大事にしなくちゃいけないでしょ!」


 ステッキが真下に下がる。水の流れが霞を包み、流れ去る。

 ずぶ濡れの霞の髪から細い筋がしたたり落ちる。

 自販機の上に立つ少女の瞳からも、心が静かに流れ出す。



 霞は何も言えなかった。

 言い返せなかった。

 ただひたすら無言のまま、濡れたアスファルトに目を落とす。



 それからふと顔を上げると、少女の姿はどこにもなかった。自販機の上の狭い空間は、やたらにガランと広く見えた。



 霞は深々と息を吐き出す。すると服にしみ込んだ水分が一瞬で凝結した。霞は軽く体を叩き、氷の衣を崩して落とす。そしてすぐに、その場を去った。




 ――その二人のやりとりを、一人の少女が路地の角からのぞいていた。




「今のって……美玖みくちゃん、だよね……?」

 


 アニメ映画のパンフレットを胸に抱いた少女はぽつりと呟く。それからはっと我に返り、自宅に向かって駆け出した。




***




「ただいまぁ~」


 菜々美が自宅の居間に入ると、レオタード姿の母親がテレビの前で奇妙なダンスを踊っていた。


「あら、おかえり。早かったわね。もう一泊するんじゃなかったの?」

「うん。なんか忙しそうだったから、邪魔しちゃ悪いと思って帰ってきちゃった」


 あら、そう――と言って、母親はキッチンに足を向ける。


「お昼どうする? うどんならすぐ作れるけど」

「あ、うん。おうどん大好きぃ~」


 あんた、嫌いなモノないじゃない――と言いながら、母親はレオタードの上にエプロンを手早くつけて、冷蔵庫からうどんとネギと、ワカメとタマゴとカマボコを取り出す。


「……あ、そうだ。ねぇ、お母さん」

「なぁに?」


 カバンを椅子に置いた菜々美が、母親の隣に立って口を開く。


「あのね、うちにもダンジョンって作れないかなぁ?」

「え? ダンジョン? なにそれ?」


「ほら、あれだよ、あれ。ファンタジー映画とかでよくある、封印された地下迷宮だよ」

「ああ、あのダンジョンね。なに、あんた。あんなのが欲しいの?」

「うん。うちにダンジョンがあったら、ぐっすり眠れそうかなぁって」


 菜々美は胸の前で両手を合わせ、えへへぇと首を傾ける。


「別にいいわよ」

「えっ? いいの?」


 菜々美は軽く驚きながら、あっさりオーケーした母親をまっすぐ見つめる。


 母親はそんな菜々美を軽く押しのけ、床の取っ手をつかみ、大きく開ける。そして中に入っていたキッチンペーパーとラップフィルムの予備、新品のお酢や醤油などをすべて取り出し、空いたスペースに菜々美を押し込んだ。


「――はい、ダンジョン」


「え? え?」


 床の下に丸まった菜々美は、きょとんとしながら母を見上げる。


「お母さん……? これって、床下収納だよね……?」


「じゃ、封印するわよ」


 菜々美の問いに母は答えず、さっさとふたを閉めてロックする。そして「シェケナッ!ケツを振れっ! シェケナッ!もっと振れっ!」と腰をフリフリ、うどんをゆでた。


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