考えるべきことがあまりに多すぎた。ストーリーの趣旨や演出の意図、それらを書いた落窪さんの思惑――。

 落窪さんに限らず、脚本・演出家は、自分が「面白い」と感じるものしか書かないと僕は考えている。それは、単なる自画自賛ではなく、客観的な視点から見た上での「面白さ」であるはずだ。そうでなければ彼/彼女は、自身の作品に説得力を持たせることはできない。

 演劇の「面白さ」というものは、実際には部分的なものとして表出する。例えば、あるセリフ、あるシーンといった具合だ。だが、それらの断片的なすべての「面白さ」には、そのもととなる核心部がある。あるいはそれは、「心臓部」と言ってもいいかもしれない。ストーリーの流れはその心臓から伸びる血管、細かなセリフや所作、個々の演出は、血管を通して全身に送り込まれる血液とも言えるだろう。

 今回の「西瓜の名産地」にも、そんな「面白い」と感じてしかるべき核心部があるはずだ。作品の土台となるテーマか、作品全体に一貫して影響を与えるモチーフか、それとも作品の輪郭を作る演出的な仕掛けか。落窪さんは頭がいいし、いわんや本物の狂気などではない。だから自身の手掛けた作品に、必ずや生きた心臓を与えているはずだ。闇の中で規則的に脈打つ、真っ赤な心臓を。

 僕は一つひとつ論点を整理し、仮説を立てながら、目の前に広がる漠々とした謎を解くことにした。落窪さんと僕自身、そして二人の登場人物を取り巻く混沌とした現状と、支離滅裂なストーリーに、自分なりの秩序を与えることから地道に始めるしかない。僕は大学の生協でノートを一冊買い、表紙にサインペンで「西瓜の名産地 思考メモ」と記した。二文字目まで書いたところでなんだか気恥ずかしくなり、途中からためらいながら書いたせいで、全体的に細くて心もとない字になってしまった。


 論点一、西瓜は何を意味しているのだろう。

 血のつながった女性を独占するために父親を殺す(あくまで妄想ではあるが)というストーリーは、フロイトの提唱したエディプスコンプレックスを想起させる。エディプスコンプレックスとは、男児が母親を手に入れたいがために、父親に対して強い対抗心を抱くことを指す。厳密には、妹を独占しようとしているこのストーリーとは異なるし、独占欲の対象が母親だったとしても、エディプスは母親を殺していないから(脚本では、スオウさんが母親も殺したとされている)、完全に一致するとは言えない。だが、父親に対する敵意という点において、どうも類似性のほうが引っかかる。

 仮に、スオウさんに「エディプスコンプレックスに似た何らかの感情」があったとしよう。そうなると、西瓜にフロイトやユングの夢分析的な何らかの象徴性があってもいいように思う。

 中学生のころ、ユングの『夢分析』を読んだことがあるが、おおよそは性的な内容だ。多感だった当時は衝撃が大きく、ほとんど内容が頭に入ってこなかったことだけを覚えている。ただ、今思うと、夢なんて半分くらいはそんなもののような気がしないでもない。同書によると、丸いものはだいたい女性を、尖ったものはだいたい男性を象徴している。もちろん、由来はそれぞれの性器の形からだ。

 そうであるとするなら、西瓜は丸いから女性の象徴、ということになるだろう。さらに、ヴァイオリンは女性の体をモチーフにしているというのも、よく言われる話だ。

 スオウさんは妹を独占するとともに、その妹をも包含する存在として、母親を独占しようとしたのではないだろうか。

 では、なぜ西瓜なのか。カボチャやキャベツではいけなかったのか。おそらく、西瓜であることの意義は、割ったときに血を想起させるような赤い果肉が飛び散ることと関係しているだろう。女性器の象徴としても、こちらのほうがインパクトがある。

 そして、ここでもうひとつの疑問、「落窪さんがこの夢を見たことには、エディプスコンプレックス的な意味があるのか」という点についても考える必要がある。落窪さんの夢において、スオウさんやクラタといった架空の人物が登場したとは到底思えない。おそらく、僕の思うとおり、それは落窪さん自身と僕という形で表れただろう。現に落窪さんには、両親のほかに妹がいる。家族はみな存命だが、夢で「殺す」ための十分な土台だと言える。

 哲学の素養を持つ落窪さんは、エディプスコンプレックスや夢分析の知識を持ったうえで、この脚本を書いたはずだ。自分の無意識下におけるエディプスコンプレックス的な欲望を意識化し、あえて表現することにはどのような考えがあるのだろうか。例えば、一般的によく言われるような「欲望の昇華や解消」といった目的があるとは、僕には思えなかった。おそらくここに、落窪さんの考える「面白さ」があるのではないだろうか。自分でも制御できない世界を、脚本化し、演出するという形でコントロールしようと試みること。それは僕なんかが想像する以上にスリリングな営みであるはずだ。よく「夢日記を書いていたら、だんだん夢と現実が近づいてくる」と言われることがあるだろう。書いている途中で、「本当にこれは夢だったのか、あるいは現実ではなかったか」と感じるようになるのだ。そして、こちらが夢をコントロールしようとしているはずが、次第に夢にコントロールされているような気にすらなってしまう――。演劇という表現手段であればなおさらだろう。スクリーンやディスプレイを介さない、リアルタイムな動きのあるイメージとして視覚に訴えかけられるし、さらに落窪さんの場合は、自ら登場人物を演じることで、身体的にもその夢を体現してしまう。夢に支配されるか、逆にこちらが支配するか。落窪さんは、その危険な綱渡りを楽しんでいるのではないだろうか。

 ちなみに、落窪さんの夢の中では、僕も家族を殺していると錯覚しており(脚本が夢のとおりであったとするならば)、この点についても併せて考える必要がある。まず、僕が落窪さんの夢に出てきたことについては、単に現実世界で一緒に過ごす機会が多く、印象に残りやすかっただけかもしれないが、ひょっとすると、何か他の特別な感情があった可能性もある。典型的には、恋愛感情が考えられるだろう。ただ、現時点においては、この夢は母親や妹に対する強い愛欲を象徴しているという仮説の上で考察を進めているから、この可能性は限りなく低いと言っていいと思う。次に考えられるのは、同じ母親を取り合う兄弟に対する感情だ。しかし、もしそうなら、落窪さんは夢で、真っ先に僕を殺すだろう。

 そして、最後に考えられる可能性は、僕が落窪さんの鏡であるという解釈だ。特定の赤の他人について、「この人物は自分の映し鏡である」と認識するためには、やや複雑で理性的な思考を要する。一つ目の「恋愛感情」説、二つ目の「兄弟への対抗心」説は、無意識的な欲望や感情が夢に表れているという、いかにも「夢判断らしい」解釈だが、三つ目の解釈はそれらとは趣が異なるし、やや現実的ではないようにも感じられる。だが、おそらく落窪さんが採用したのは、この最後の解釈だ。僕が落窪さんの夢で、自分自身の家族を殺したと妄想し、二つの西瓜をその首だと崇めているのは、僕が落窪さんの姿を映す鏡だからだ。そして、僕と落窪さんが互いに映し鏡であるという夢の解釈から、落窪さんは二人を入れ替えたような配役を決めたのである。点が線でつながり、僕は背筋を震わせた。

 夢による支配に抗いながら、夢を支配しようとする落窪さん。その落窪さんを演じる僕もまた、落窪さんの夢によって支配されようとしている。あるいは、落窪さんの夢として、落窪さんに支配されようとしている。

 嫌だ。僕は支配なんてされたくない。演じるのはあくまで僕だ。そのためには、思考を続けることが必要だ。この芝居を、スオウさんという役を、自分自身のものにする。それが、自分を正気の世界にとどめる唯一の手段なのだ。僕はボールペンを握ったまま、書きなぐったノートのページをしばらく見つめていた。

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