「録音もいいが、やっぱり生歌だろうと俺は思う」

 プロジェクトメンバーによる合唱の録音がひと段落した翌日、落窪さんは稽古後の打ち合わせで唐突に告げた。昨日の今日での方針転換に、誰もが戸惑いを隠せない。

 落窪さんは前々から、BGMにはあの童謡「すいかの名産地」を使いたいと言っていたのだった。序盤でスオウさんがクラタに妹の首を見せるまでのシーンで一番を、スオウさんの母親と父親が出会った海辺の場面の回想で二番を、終盤にクラタが二つの西瓜を見せるまでで三番を使うらしい。ただし、重要な箇所についてはまったくの無音だという。既存の音源を使うのではなく、僕たちメンバーが実際に歌ったものを録音して流したいのだと、落窪さんは言っていたはずだった。


 友だちになった二人が、五月のある日、結婚する。豊かな穀物のような花婿と花嫁。


「歌詞には五月ってあるけれど、季節的に大丈夫なの?」

 落窪さんが最初にこの選曲を提案したとき、僕はふと気がついて尋ねた。

「脚本の設定では冬だったと思うけど」

「構わないさ。お前はすぐそういう細部を気にするな。面白ければそれでいいんだ」

 落窪さんがこだわるところと、意に介さないところとの境界線が、僕にはよくわからない。

 とにかく、そのBGMを録音するために、僕たちはこれまで少なくない労力を費やしてきた。スタジオを借りての作業ではなかったにせよ、落窪さんのわがままに付き合いながら三日はかけて何度も撮り直したのだ。録音前の練習や準備だってある。今までやってきたことは何だったのか。僕は怒りを通り越して、もはや呆れてしまっていた。

「みんなで舞台の上で歌おうじゃないか」

 落窪さんは独りでいい気分になり、今にもあの陽気なメロディを口ずさもうとしていた。一方で、メンバーたちはそろいもそろって頭を抱えていた。録音を流すのと当日に舞台上で歌うのとでは、スタッフの動き方はもちろん、音響関係のあれこれも変わってくる。そもそも、歌うとしたら誰が歌うのだろう。録音のときは五人を超える裏方が総動員で合唱したが(今回のプロジェクトメンバーは全部で十二人だ)、本番で使う劇場は最小規模のものだ。当初の予定では、一度に登場する役者は最大でも四人で、大道具の配置もその想定で考えられていた。だから、仮に合唱隊の人数を減らしたとしても、そのあたりの舞台上の事情にも影響してくる。これほどまでに演劇の進行に影響があることを、たとえ落窪さんだろうと知らないとは言わせない。“ブカン”こと舞台監督を務める他大学の男子学生は、涙まで浮かべているようにも見えた。

「合唱隊の衣裳はどうしようか。そうだ、妹の衣裳に合わせればいいな。全身白装束で黒髪にするぞ」

 追い打ちをかけるような発言に、今度は小道具や衣裳担当が目をむいた。衣裳については、クラタやスオウさんについては役者の私服で済ませていたし、実質、作業としては妹用の白いワンピースを制作するだけだったのだ。それが残り二カ月になって、倍以上の衣裳を作る必要が出てくるとは、夢にも思わなかったはずだ。劇団のオフィシャル公演でも衣裳を作り続けてきた女子学生二人は、互いの顔も見ずにただうつむいて黙っていた。

「あとはそうだな、直立不動で歌ってもいいが、あの振りを付けてもいい。指揮の代わりにもなるしな。合唱には指揮が不可欠だ。あるいは、オーケストラで言うコンサートマスターだな。それがいい、そのオーケストラみたいに、みんな前列右端のコンサートマスターに合わせるんだ」

 ほら、やってみろ。知らないとは言わせないぞ。

目を指さし、指で「三」の数字を作り、地面を指す「名産地」の振付だ。メンバーは各々困惑した表情のまま、もぞもぞと手を動かし始める。

「動かす手は右手にそろえろ。さあ、せーのでやってみろ」

 僕たちは成り行きのまま、落窪さんを正面に二列に並んだ。偶然、該当する位置に立った僕が差し当たっての「コンサートマスター」になった。

「じゃあ、やろうか。せーの」

 僕の合図に従って、メンバーたちは落窪さんの言うとおりに、一番だけ振りを付けて歌ってみせた。西瓜の名産地。西瓜の名産地――。

「はははっ、イメージ通りじゃないか」

 落窪さんは、馬鹿みたいに大声を上げて笑った。

「これで決まりだな。あとでブカンと、合唱団の団員を決めるぞ」

 一方のメンバーたちは誰一人として、発言はおろか、返事すらしなかった。パイプ椅子に座って腕を組みながら満足そうに僕らを眺める落窪さんは、まるで奴隷を統率する人買いのようだった。

 落窪さんが演出の指示を出すときは、こうしてだいたいみんな黙っている。万一、僕たちが何か口出ししたとしても、いつの間にか巧みに論点をそらされ、何となく納得させられてしまうのだ。むろん、あとで冷静になって思い返したときには、まったくもって理不尽だと悔やむことになる。僕はそうして落窪さんにやり込められ、「なぜ同意してしまったのだろう」と後悔したとき、独り自分のアパートで頬をつねることがある。落窪さんに言い伏せられると、それはロジカルに論破されたというより、狐か何かに化かされたような感じがするのだ。


 その日、稽古が終わったあと、落窪さんは僕を風呂屋へ連れ出した。駅の裏に街で一軒だけの銭湯があり、僕らの大学の連中は、授業やサークル活動のあと、居酒屋へ立ち寄るのと同じような感覚で、時々そこの風呂へ入りに行くのだ。

「女声がいいか混声がいいか、録音してから聞き比べてみよう」

 先に入った落窪さんは湯船の中で、痩せて浮き上がったあばら骨を見せながら言った。僕はそれには答えず、そろそろとつま先を熱い湯に浸けた。

「言うまでもないが、男声はなしだ」

 落窪さんは僕のへっぴり腰を一瞥してふっと鼻で笑ったあと、またいつものように明後日の方向を向いて続けた。僕は少しむっとして一気に肩まで体を沈めたが、全身がぴりぴりして、悲鳴をこらえるのに必死だった。

「まあ、いずれにせよ、改めて録音は必要ということだな」

 普段から慣れ親しんでいる背景の富士山が、この日はなぜか、不吉な巨人みたいに見えた。浴場には僕たちのような大学生のほかに、常連と思しき中高年の男が何人かいて、各々懸命に頭や体を洗っていた。煮えたぎる湯船に浸かっては水風呂の冷水を浴びる工程を繰り返して、独り苦行のようなことを自らに強いている老人もいた。

「そうだ、今思いついたんだが、ウィスパーボイスで歌うっていうのも面白くないか。セリフも邪魔しないしな」

 これも録音してみよう。落窪さんは人目もはばからず、気持ちよさそうに鼻歌で「すいかの名産地」を歌い始めた。あるときは女性のような高い声で、あるときは低く唸るようなバスの声域で、またあるときはウィスパーボイスで。

「ほら、お前も歌ってみろ。声に出してみると感じがわかるぞ」

 だが僕は、上の空の振りをして歌うことを免れた。厳密には、とても歌う気になれなかったのだ。巨人を前に裸一貫でいることが急に心細くなった僕は、じっと体を固めて黙っていた。入浴客たちは代わる代わる蛇口の前に座っては、うつむいて頭からシャワーを浴びている。落窪さんの声が青い天井にわんわんこだまする。なんだか落窪さんが、あの巨人の手下であるかのように思えてきた。

 風呂から上がると、上機嫌の落窪さんは瓶の牛乳を二本買い、そのうちの一本を僕に手渡した。そしていかにもうまそうに、ごくごくと喉を鳴らしてそれを飲んだ。

 逗子海岸からは富士山が見えることもあるという。スオウさんの幻想に生きる母親は、その圧倒的な巨人のもとで、知らない男と交わったのだろうか。それはあたかも、巨人が自らの手のものをこの世に生み出すべく、二人の男女を目の前の海岸でめぐり合わせたようにも感じられる。のぼせて重たくなった頭でぼうっとそんなことを考えながら、僕も腰に手を当てて牛乳を飲みほした。

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