「そういえばお前、もっとゆっくりセリフ回ししてくれないか」

 年明け早々、落窪さんは何の前触れもなく、演出家然とした口調で僕に言った。僕はぎくりとした。その夜は衣装合わせをしていて――衣装合わせとはいっても、僕のそれは自宅にある私服を持ち出して、落窪さんや衣装担当のチェックを受けるくらいの作業だった――、セリフのことなどつゆほども念頭になかったから、余計に面食らった。隣では、愛子ちゃんが白いワンピースを着て姿見の前に立っている。遠くから「火の用心」を叫ぶ老いた男の声が、木の打ち鳴らされる乾いた音とともに届いてくる。

「俗な言い方だが、一発キメてラリったやつのような話し方だ。そうだな、中島らもの生前の映像を見たことがあるか? まあ、あのしゃべり方は、薬とかアルコールとかと関係ない部分も多いだろうが、そういう印象も強いからわかりやすいだろう。あんな感じだな」

 僕はインターネットの動画投稿サイトで見た中島らもの姿を思い起こした。トレードマークの帽子、黒を基調とした服装、サングラス、あるいは眼鏡。そして、酒に焼けたようなしゃがれた声、粘性のある怠そうな話し方、とろんとしていながら何かの真理を捉えている目。その印象は、落窪さん自身のイメージと完全に一致するのだ。そう、僕がスオウさんを演じるうえで、もっとも避けていたイメージと。

 大学は長い春休みを目前に控えていた。大半の学生が就職活動や卒業論文制作、学年末試験勉強で慌ただしく過ごす時期だが、僕たちはというと、この公演の準備を除いてはまったく呑気に過ごしていた。三年生の僕は、通常であれば就職活動をするタイミングではあったが、芝居を口実に重い腰を上げられずにいた。正直、「働く」ということにあまりいいイメージを持てなかったのだ。会社や役所に入ったら、社会の歯車として思考停止したまま、朽ち果ててしまうまで回り続けることになるのではないかと、僕は漠然と恐れていた(もちろん、働く人たちの中には、深い洞察力や広い視野、高い意識を持って社会に貢献している人も少なくないはずなのだが)。

 また、四年生の落窪さんは、卒業後に同じ大学の修士課程に進学することが決定していて、就職や転居の準備もなく、まさに暇を持て余していた。今回の自主公演も「卒業公演」と銘打ってはいるが、どうせ大学院生になってからも、彼はしつこく劇団に顔を出すことだろう。卒業論文の提出期限は一月末のようだが、秋口にはある程度形にしていたと聞いている。今は最終的なこまごまとした文言調整とか、事務的な準備をしているといったところらしい。この芝居の相談をされた十一月ごろ、僕も論文の草稿を読ませてもらっていた。テーマは「イギリスにおける劇作家の政治・社会活動が、不条理演劇の芸術性に与える影響について」といったものだった。文学部哲学科に所属する落窪さんだが、その論文は哲学や芸術理論だけでなく、社会学や政治学などの理論も取り入れた複雑な内容になっていた。

 ちなみに、そんな落窪さんがアルコール依存症だとか、違法な薬に手を出しているとかいった話は聞いたことがない。脚本や演出はある意味「病的」ともいえるが、落窪さん自身は見た目以上に健康的だ。その事実を裏付けるかのように、クラタを演じているときの彼は、まるで別人のように高い声で、はきはきと早口でセリフ回しをしていた。所作だって、あの泰然自若とした調子とは打って変わって、どこか所在なく、落ち着きに欠けた動きをして見せていた。この四年間、落窪さんは舞台に立ったことがなかったから、ここまでの演技力を持っているということに誰もが驚いた。そして、メンバー全員が口にするのをはばかりながら、しかし確信的な共通認識を持っていたのは、その姿がまさに、僕そのものだということだった。

 落窪さんはまた勝負を仕掛けてきている、と僕は思った。僕のセリフ回しについて指摘した落窪さんの一言は、演出家としての演技指導のようにはどうしても思われなかったのだ。むしろそれは、同じ舞台に立つ役者としての挑発のように感じられた。落窪さんは明らかに僕を意識して演じながら、「逆に俺を演じてみろ」とけしかけているのである。僕が、スオウさんとクラタを、あえて落窪さんと僕に重ねないよう、注意深く演じているのを見透かして。

 僕は何かを言い返そうとしたが、すぐに冷静になってそれを飲み込んだ。この勝負だって、アドリブ合戦と同様、僕にとっては圧倒的に不利な戦いだ。しかし、だからこそ、この不平等を糾弾することはできない。僕の相手は試合のルールを決め、審判をも行う脚本・演出家なのである。

 僕は落窪さんの言葉にうなずきながらも、わざと音を立てて深くため息をついた。僕がうんざりするのは、この勝負がはじめからハンデのあるものであるというだけではなかった。悔しいかな、落窪さんの演技は完璧だったのだ。おそらく、この脚本が落窪さん以外の誰かによって書かれ、第三者が落窪さんにクラタ役をあてがっていたとしても、彼は同じように隙のない演技をしただろう。落窪さんの演じるクラタには、それほどの説得力があったのだ。

 やはり、この配役には落窪さんの意図がある。僕はこのとき確信した。だが、それはいったい何なのだ。二人の俳優が暗に相手を演じ合うということに、どんな演出上の意味があるというのだろう。そして、あの謎めいた不穏なストーリーと、どう関わってくるのだろうか。落窪さんは何がしたいのだろう。僕は、何をさせられようとしているのだろう。

 落窪さんが愛子ちゃんの衣装に対して何か言っている。手作り感が出てはいけないんだ。もっと無機質に、もっと中性的に。

 ふと、僕は唯一の友人だと思っていた落窪さんのことを、自分が何も知らないことに気がついた。落窪さんが何を考え、何を感じ、何を思って芝居を書いているのか。演劇というものについては、僕が劇団に加入してからの約三年間、二人で何度も議論したはずだった。だが、僕は未だにまったく知らないのだ。彼の考える西瓜とは、サロメとは、ヴァイオリンとは、砂浜とは。親とは、きょうだいとは。男とは、女とは。彼のとらえる僕とは、そして彼自身とは。

 暖房がうなりながら部屋の潤いを奪っていく。唇が乾燥して切れそうで痛い。

 友人を演じること。友人だと思ってきた実は何も知らない人物を演じること。その使命をを自身に課した人物を演じること。

 友人を演じることの難しさには、ある程度の普遍性はあると思う。これまでにそうした経験をしてきた多くの人が、僕と同じように、親しいはずの人物について何も知らないことに驚き、決して完全に知ることはないままその人物を演じることに戸惑いを覚えただろう。だが、この芝居は、そういった普遍的な問題としてはどうしても片付けられないのだ。奇妙な友人の書いた奇妙な脚本で奇妙な友人を演じる。ともすれば、彼の創り出した狂気の世界に吸い込まれて、二度と戻ってこられなくなるかもしれない。そのとき、僕は決してただの被害者ではない。奇妙な友人を演じる僕自身が、僕を正気の世界から引き離していく。

 隣を見ると、衣装合わせを終えた愛子ちゃんが、黙ったまま僕のほうを見ていた。視線は針のように冷たく、憐みすらかける価値もないと言っているようだった。僕は思わず身震いした。兄の歪んだ愛情によって命を奪われ、首だけになった少女が、目の前で僕を蔑んでいる。兄を演じようとしながら、同時にそれをためらい続け、何者にもなれない僕を。

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