この日の読み合わせは、先輩であるスオウさんが、母親の形見である砂だらけのヴァイオリンをクラタに見せるシーンだ。スオウさんの母親は、逗子の海辺でヴァイオリンを弾いていたときに、将来、夫となる男に凌辱される。そのときにできた子どもが自分なのだとスオウさんが告げる場面だ。クラタはその後、スオウさんの両親について彼の叔父に話を聞き、スオウさんの話がまったくの出鱈目だと知る。そして、「西瓜のことも、両親の馴れ初めについての妄想も、すべて脳の損傷のせいなのだ」と自分に言い聞かせるのだった。


○逗子の鮮魚店・スオウさんの自室

   スオウさんの部屋を歩き回るクラタ。

   スオウさん、ヴァイオリンケースを両手に持って立つ。

スオウさん「(大げさに大声で)俺の母親は、逗子海岸で独り、ヴァイオリンを弾くのが好きな少女だったんだ。確か、得意だったのは、ドヴォルザークの『ユーモレスク』。十一月の午後、あれは土曜日だったはずだ。母親はいつものように、高校から自転車に乗って海岸へ向かった。そうして『ユーモレスク』を奏でていたんだ。二度目の転調を迎えたそのとき、少女は見ず知らずの若い男に押し倒された。男はまるでヴァイオリンを奏でるように少女を愛でたそうだ。弓の角度を変えてあらゆる弦を撫でる。ときに大きく激しく、ときに小さく優しくだ。指で弦を弾いてみたりもする。少女はほとんど無抵抗で、その音楽に身を委ねた。そのときできた子どもが俺なんだ。どうだ、ロマンチックだろう」

   クラタ、黙ったまま立ち止まる。

スオウさん「見ろ、これが当時の母親が愛用していたヴァイオリンだ」

   と、砂だらけになったヴァイオリンをケースから出してクラタに見せる。

   クラタ、うつむいて黙っている。


 実際にプロジェクトが動き始めたのは、文化祭での本公演が終わった十一月上旬だった。落窪さんはめぼしいメンバーにメールで台本を送り付け、その三日後に部室へ集合させた。芝居のタイトルは「西瓜の名産地」。

「スオウの役は平田にやってもらう」

 その日、開口一番、落窪さんは高らかにこう宣言した。平田、それは紛れもなく僕のことだ。急なことに僕は動揺を隠しきれなかった。この芝居のことは、夏以降も何度か相談されていたが、僕があの狂気的な先輩の役をやるなんて、落窪さんの口からは一言も聞いたことがなかった。だが、僕にノーという選択肢は与えられていない。落窪さんは、一度言い出したら聞かない頑固者だ。僕は疑問や反論を挟む余地もなく、スオウさん役を引き受けることになった。さらに、落窪さんは続けた。

「クラタ役については、オーディションをしようとも思ったんだが、プロジェクトのメンバーを見る限り、どうもどれもぴんと来ない」

 なんだか嫌な予感がした。落窪さんは、茶色く濁った邪悪な三白眼で、斜め上四十五度の虚空を見渡していた。

「だから、クラタ役は俺がやることにする」

 僕はますます胸をかき乱された。つまり、それは僕が思い浮かべていた二人の主人公の印象、そう、クラタ=僕、落窪さん=スオウさんというイメージが、ちょうど入れ替わったような配役なのだ。そうした先入観と、目の前に突き付けられた事実が、僕の頭を混乱させた。そしておそらく、この明らかに不自然な配役は、意図的なものだ。落窪さんは今、あの虚空に何かを見ている。混沌としていながら、その奥に確かな核を持つ何かを。僕は落窪さんの力ない目と、その視線の先を交互に見ながら、そこに映し出された何らかの意図を探ろうとした。だが、上の空でいるうちにひゅっと足をすくわれそうで、僕は慌てて我に返ったのだった。


スオウさん「形見っていうのは、故人本人みたいなものなのさ」


 そうして電撃的に配役が決まってから、読み合わせもこの日で三回目を迎えていた。僕は自分なりにスオウさん像を思い浮かべながらも、できるだけそれが落窪さんに似ないよう、意識してセリフを発していた。深夜一時。半分開いたままの窓から入り込む冷気が肌を刺す。ついこの間まで晩夏の盛りを楽しんでいたと思っていた虫たちも、今や鳴き声を忘れてしまったかのように静まり返っている。おそらくその多くは、短い命を燃やし尽くして。


スオウさん「だから、みんな死んでしまっても、俺は少しも寂しくなんかないんだ」


 一応、僕は劇団では主に役者をしている。一度は劇団公式の舞台で主役を張ったことだってある。芝居は好きだ。笑われるかもしれないが、美内すずえの漫画『ガラスの仮面』を、既巻分はすべて読んでもいる。少女漫画にしては破天荒なところも多い作品だが、描かれる演劇の理念や真理といったものには共感できるし、学ぶべきことは多いと思っている。僕は、このスオウさんの役をあてがわれてから、久しぶりに『ガラスの仮面』の一巻を再読した。役作りのたびに悩み、激しく葛藤する主人公、北島マヤ。実をいうと、僕はスオウさん役が決まるまで、役作りに苦労したことがほとんどなかったのだ。しかし、今回はまるで手探り状態である。常人の理性では理解し得ない言動を繰り返すスオウさんを、何の変哲もない大学生である僕が、いったいどう演じていけばいいのだろう。そのヒントが見つかると思い、僕は役者を志すようになったばかりのマヤの足跡を追ったのだ。残念ながら、事態を打開するまでのひらめきは訪れなかったが、僕はとにかく、まずはこの難役を楽しむことにした。もともと演じることが楽しくて役者になったのだ。演じていれば、体で何かつかめることもあるだろう。


クラタ「そのヴァイオリン、弾いてみてよ」


 と、そのとき、誰もが現実に引き戻された。メンバーは一斉にパラパラと音を立てて台本をめくった。それは、どう見ても台本にないセリフだった。

「台本、変えたの?」

 僕は、みんなの気持ちを代弁するようにして尋ねた。すると、落窪さんはこともなげに言うのだった。

「今、思いついた」

 ああ、みんな書き加えなくてもいい。いそいそと鉛筆を走らせようとするメンバーたちを、落窪さんが制す。

「俺とこいつで適当に合わせるからな。場面の変わり目はつじつまが合うようにするから安心しろ」

 脇下が一気に汗で湿るのがわかった。アドリブそのものについては問題ない。だが、読み合わせの段階でアドリブを仕掛けてくるなんて、通常では考えられないことだ。そこには暗に、しかし明らかな落窪さんの意思表示が含まれていた。つまり、落窪さんは、「今のシーンに限らず、この芝居では、いつアドリブが始まってもおかしくないことを覚悟しておけ」と言い放って見せたのである。

「さあ、再開しよう」

 呑気な調子で落窪さんは続ける。僕はカチンときた。傍若無人に周りを振り回して、この芝居はあんただけのものじゃない。ほかの役者やスタッフがいなければ、公演なんてできっこないんだぞ。個人的に役作りに苦心していたこともあって、僕は余計に腹が立っていた。「落窪さんがイメージするスオウさん像を再現しよう」とか「脚本に書かれた以上の、僕なりのスオウさん像を作り上げよう」とか「それでも、落窪さんには似ないように演じよう」とか、そんなあらゆる努力や工夫が、幼稚な子どもの戯れとして一蹴されてしまったように感じた。

「どうした、平田。何か問題でもあるか?」

 あるいは、こいつはそうして僕が悩んでいることをすべて知ったうえで、僕を挑発し、試そうとしているのだろうか。僕の脳裏に、『ガラスの仮面』でライバルの姫川亜弓が北島マヤに仕掛けた芝居勝負のシーンが想起された。そのとき、僕の中の怒りが、異様な高揚感に変わった。いいだろう、それなら役者として受けて立とうじゃないか、この勝負に。


スオウさん「まさか、弾かないさ。このヴァイオリンは俺の母親なんだと言ったろう。だったらお前は、自分の母親の体を舐め回すような真似ができるとでもいうのかい?」

クラタ「そんなことを言ってるんじゃないよ。ちょっと音を鳴らすくらい、いいじゃないか」

スオウさん「わからないやつだな。それとも、お前はそんなに俺の母親に興味があるのか」

クラタ「興味を持たせるような話をしたのはスオウさんだろう?」

スオウさん「実の母親をいやらしいまなざしで見られるのは、気分のいいものじゃないな」

クラタ「さっきから話を複雑にしようとしすぎだよ。僕はただ純粋に、弾いてみたらどうかって言ってみただけなんだ」


 駄目だ、受けたはいいものの、これではまるでキリがない。この芝居勝負は、明らかに僕が不利なのだ。ありきたりな語彙しか持たない僕が、下手に教養のあるおしゃべりな変人を演じるのだから、適切なセリフがなかなか思い浮かばない。それ以前に、脚本を書いたのは向こうだ。落窪さんのことだから、脚本を書いている間にも、すでに無数のアドリブを想定して、ほくそ笑んでいたに違いない。最初から、フェアな勝負ではないのだ。そう思ったとたん、僕の熱は見る見るうちに冷めていった。僕はほとんど投げやりになって言った。


スオウさん「なら、君が弾いてみてくれたまえよ」


 思わず文学的な口調になってしまったが、まあいいだろう。


   クラタ、沈黙。


 そのとき、僕はクラタの一瞬の表情の変化を見逃さなかった。


スオウさん「……夕食の支度がそろそろだな。手伝ってくる」

   と、クラタに背を向け、部屋を出る。


 僕は半ば無理やり、次のシーンへと移るセリフをねじ込んだ。


クラタ「僕も行くよ」


 クラタが応じた。芝居がつながったのだ。あちこちから安堵のため息が漏れるのがわかった。その後、この日は結末まで、滞りなく読み合わせが進んだ。落窪さんも、これ以上アドリブをふっかけてくることはなかった。

 しかし、予想通り、落窪さんの気まぐれな「芝居勝負」はこれが最後ではなかった。僕は稽古のたびにこうしたやり取りをさせられ、そのたびに周りの空気は有刺鉄線を張ったみたいな緊張に包まれた。あらすじを見てもわかるとおり、登場人物は実質、クラタとスオウさんだけだ。したがって、少なくとも読み合わせの場で落窪さんの道楽に直接付き合わされるのは、必然的に僕だけということになる。百歩譲って僕はかまわないが、気の毒なのはやはり巻き込まれる周囲の連中だ。落窪さんが何か仕掛けるたびにはらはらさせられているメンバーたちを見て、僕は彼の身勝手さを、改めて腹立たしく思った。それでも落窪さんには逆らえないのだ。繰り返しになるが、彼は一度やり始めたら聞かない脚本・演出家である。それを天才肌だとか芸術家気質だとか崇める後輩たちもいれば、やれやれと呆れながらかわいがるOBたちもいる。うれしいかな悲しいかな、彼のカンパニーはそういう人間たちの集まりなのである。

 それにしても、自分はどうだろうと僕は思う。なぜ、こんな迷惑極まりない曲者の元を離れることができないのだろう。もちろん、彼には魅力もある。奇抜な発想力だけでなく、深い洞察力と広い視野、そして豊富な知識を持ち、話していて刺激を受けることは多い。特に演劇に関する理論や思想など、彼から学ぶことは多くあると僕は思っている。それに、地元が同じだからということもあるのか、ちょっとした場面でニュアンスが伝わりやすい。どんなに激しい議論になっても、それにはどこかホームゲームのような安心感があった。

 だが、そうした魅力と同じくらい、彼には目に余る言動も多いのだ。実際、僕がフォローしなければ、落窪さんが周囲と衝突することは多々ある。僕は時に、彼の世話をしてやっているように感じることすらあるくらいだ。「世話」とはいっても、親がかわいい子どもの面倒を見るのとは違い、落窪さんの世話はちっとも気分のいいものではない。ひと騒ぎ起こした落窪さんと別れたあとは、精力を爪の先まで吸い取られてしまったようにぐったりとしてしまう。

 そんな蔦のように絡み合う美点と欠点に囚われて、結局僕は落窪さんのところを離れることができないのだろう。僕も結局、落窪さんの信奉者たちと何も変わらないのかもしれない。そんなことを考えながら稽古を重ねるうち、僕はいつの間にか、落窪さんの仕掛けてくるアドリブ勝負を楽しむようになっていったのだった。

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