四十三 共愛会型政党構想

 明治13年11月10日。第二回国会期成同盟の会議が開かれた。前回の第一回国会期成同盟は集会条例により解散させられたが民権家たちは決して挫けることなく、第三回愛国社再興大会における「大阪で春季大会、東京で秋季大会を開催する」という決定に則ってこの11月の第二回国会期成同盟も東京に設置された愛国社東京支社で開催となる。


 第四回愛国社再興大会が2府22県の政治結社から集まった参加者114名のうち40名以上が高知の人間となり議場が騒然となったのに対し、第二回国会期成同盟では2府22県の政治結社代表64名中高知出身者は僅か2名にまで抑えられた。

 一方で共愛会関係者からは郡利、箱田六輔、香月恕経の3人の実力者が大会に出席し、郡利が副議長、箱田六輔と香月恕経が幹事に当選する。さらに議長には福島の河野広中が選ばれた上、2名の常務委員選出においても彼らに対する出席者の支持は衰えず、河野広中、郡利、箱田六輔、香月恕経の4人が1位から4位を占め、その下にも福井の杉田定一と京都の沢辺正修が続くなど、非土佐派の勢いが強い大会だったと伺える。



 また、可決された「国会期成同盟合議書」では「国会開設の為め今茲に会同するものを国会期成同盟と為し国会の開設して其美果を観るに至る迄は幾年月日を経るも敢て此の同盟を解かざるべし」という一文を第一条として、第二条は明治14年10月1日より東京で会議を開くこと、会員について其郡国県の過半数の同意を得(第三条)、百人以上の結合あるものを会員とすること(第五条)、順番が前後するが第四条は各組憲法見込案を持参すること、また国会期成同盟の組織について東京に中央本部を置くこと(第六条)と全国を八区に分け各区に区本部を設けること(第七条)などが規定された。



 愛国社大会でやったことの発展と思しき区本部の設置と、非土佐派の、それも筑前の共愛会関係者が3名も要職に就いたことを“国会期成同盟はかなり共愛会に似通った組織となった”という風に評価する向きもあるが、何もかもが筑前人の思い通りという訳にはいかなかった。



 河野広中がこの明治13年11月の第二回国会期成同盟を振り返って語るには、「当時民心頗る沈滞し、有志の意気も亦た甚だしく銷磨し、十三年春に於ける如き勢は殆んど之を認むることが出来なかった」という状況で、規制や弾圧などにもめげずに政府と対決し活動を続けていくには、杉田定一と新潟の山際七司の主張としては「地方の団結を鞏固にして実力を養成する」ことが当時の急務であった。



 まずは「国会期成同盟合議書」の内容に関する議論である。前回3月の期成同盟規約では憲法制定議会の開催を国会開設の允許を得た後として国会開設要求を優先していたのに対し、草間時福(沼間守一が設立した政治結社・嚶鳴社の所属として出席)が、「只に国会の名義に拘泥し主義の何たるを問はざるときは、現時政府一片の官令憲法を以て国会を開くも能く満足して此の会を解くか」「主義の立たざる国会は甚だ不同意なり」と述べる。


 そしていずれ藩閥政府が表に出してくるであろう“官令憲法”の国会に対抗するため、「自由を主義とする国会」の意義とその実現のための憲法起草を主張。期成同盟の中で国憲見込書を審査議定するため、憲法見込書の起草委員5名と、それとは別に審査委員5名を公選することを提案した。



 これに福岡の香月恕経と京都の沢辺正修、さらに高知代表の一人である林包明なども支持に回ったものの、杉田定一と山際七司がやはり地方の団結と実力の養成こそ努力すべき今日の急務であると主張し、憲法見込案の持参までは合議書に規定したのだから、それ以上は今この会合で急いで議定する必要はないと反論する。


 そこへもう一人の高知出身者で土佐六郡総代の黒岩保教も杉田らを支持し「今日の急務は充分に実力を養い、国会開設の妨碍を為す所の牆壁を撃破するに在り、憲法草案は今日の急務にあらず」と主張。公会における国憲見込書の審査議定については彼らの廃案説が三十五名の多数の支持するところとなり、原案支持派は敗れてしまう。



 そのような調子で第二回国会期成同盟には「地方の団結」と「実力の養成」という問題が大きくのしかかった。


 憲法草案審議策定に加えて大日本国会有志公会の名による願望書提出も否決。常務委員二名の選出についても「地方の団結を以て急務とするの今日なれば、地方の状態に因ては、仮令当選するも止むを得ずして辞するものあるべく」と述べられ、一番人気の河野広中から、郡利、箱田六輔、香月恕経、杉田定一、沢辺正修まで多くの票数を得た者たちが次々と辞退していき、その果てにようやく黒岩保教と長野の松沢求策の両名が常務委員に就任する形に収まった。



 また、この国会期成同盟合議書と期成同盟規約の内容に関する議論では、期成同盟の政党化に関する主張もあったという。それは郡利と河野広中、松沢求策の三名により修正建議の第三号議案として出されたもののようで、明治13年12月7日の福岡日日新聞に郡利らしき大会参加者の書簡と思われる文章が掲載されて伝えられているという。


 「右の三号案の修正案は、全国に一大政党を立て全国の連合を計り全国を視察巡導する事恰も米国合衆政事の体にならい、国会の如きも此の政党中の一事業と為す〔此の連合法は我共愛会の当初の結合法と同なりとぞ〕の見込なりしに……」だそうである。



 期成同盟の組織について東京に中央本部を置くことと全国を八区に分け各区に区本部を設けることが既に規定されているが、この中央本部を全国八区の委員によって構成される形とするとともに権限を強化して地方指導機関の機能を持たせ、さらに国会期成だけに目的を絞らずそのまま同盟自体を政党の形に発展させていこう……という構想が彼らの建議らしい。


 国会が政党の内側になるといわれると社会主義国家やファシズム政党みたいなものが思い浮かぶが、日本共産党も日本社会党も社会民主党もついでにイタリアファシスト党も、それどころか東洋社会党と車会党すらまだ現れていない。


 「政党を立つるは地方国会の結合に拠る」というのが彼らの政党構想であり、これはアメリカ合衆国の政治制度を参考に考えたものなのだという。

 アメリカ合衆国の東部13州は独立前からそれぞれ独立した勢力として独自の憲法を持っており、それらが結合した州連合ユナイテッド・ステイツという連邦国家としてアメリカ合衆国は独立した。そして連邦国家というだけあって、彼らには今でも国全体の合衆国憲法とは別に州憲法があり、州毎に独立性が強い立法権と司法権(例えば州によって運転できる年齢やタバコを買える年齢、結婚できる年齢等に幅を持たせられる)を持ち、各州が州の人口や面積や経済規模等に関係なく2名ずつの代表を上院議会に送る権利を有している。


 向陽義塾に一時期アメリカ人のアッキンソンが講師として身を置いていた影響か、共愛会の構想には一部アメリカの影響と思しきものがある。共愛会憲法の“府県憲法”という発想や甲号案での“元老議院”という上院の呼称、乙号案での上院議員が6年の任期で2年毎に更撰するという制度(アメリカ上院議会がそういった形になっているらしい)に加えて、国会期成同盟で提案された“地方国会の結合による国政政党”というのも少々解釈の仕方にずれというか独特な部分があるかもしれないがアメリカ合衆国の政治制度、主に上院議会の制度からインスピレーションを受けたものなのだろう。



 あるいは期成同盟を政党にしていくという提案は、国会期成同盟が地方八区に区本部を設けたことを共愛会に通ずるような地域ごとにいくつもの支部や分会を有する組織構造へと近づいてきたものと見做して、これを機に筑前共愛公衆会の理念や活動を日本全国に広め、筑前の共愛会をもやがて成立する全国的な共愛会連合の一部にしてしまおうというプランの実行を試したのかもしれない。



 しかし国憲案の審議も願望書の提出も否決されてしまう時勢に政党組織の確立、それも各国の議会制民主主義制度で一般に見受けられるような政策や主義思想の一致する有志による組織ではなく、階級等を超えた日本中の全国民の結合という構想は当然というべきか否決され、「盟約は国会期成に止まる。自由党は別に立つ」という決定が下される。

 福岡日日新聞の記事(あるいはその元になったと思われる書簡等の文書)は大会の方針が「すこぶる保守策」であると不満を漏らしているが仕方がないだろう。



 ちなみに立志社の人間である林包明は地方国会の結合するタイプの政党構想どころか、議決された国会期成同盟合議書第三条の“会員となるものは来会迄に其郡国県の戸数過半数の同意を得て出会すべし”という規定でさえも“無気力な多数の獲得を待って事を成そうとする愚である”として、このようなものは「吾人の目的とする所にあらざるべし」とまで言うほど否定的だった。


 確かに政治意識も思想もバラバラの大衆を片っ端から関わらせていけば、運動のコントロールどころか混乱の収拾さえつけられなくなる……というのは想像するに難くないが、片岡健吉といい大衆に信を置かない立志社社員らの少数精鋭主義は愛国社再興大会・国会期成同盟において筑前などとは非常に対照的である。


 さらに先のことも言えば、後の頭山満が「一人でいても寂しくない人間になれ」などといった言葉を残しているように玄洋社もやがては一人で千人力の働きをする志士を求める少数精鋭主義に向かうわけで、階級対立を全く意識していないこの頃の共愛会の姿こそ特殊であるとも言えよう。


 その変化のきっかけとなるのはやはり国会期成同盟の翌年明治14年の官有物払い下げスキャンダルから始まる騒動だろうか。



 一先ず第二回国会期成同盟の後のことを書いておくと、大会では否決されたものの、河野広中は全国の運動を統率するため政党結成の準備を重視し、植木枝盛と佐賀県牛津の松田正久がこれに賛同したらしい。彼らは大会後の明治13年12月15日に嚶鳴社の沼間守一・草間時福と会議し、沼間が座長役になる形で自由党準備会を結成する。


 そして国会期成同盟は参加者に国憲案の提出を求めたために起草のための時間を置く意味もあってか合議書第二条でも“明治14年10月1日より東京で会議を開くこと”と定められた通り、大阪での明治14年春季大会は飛ばされ、第三回国会期成同盟は11か月ほど後に開かれる方針で予定が組まれる。そういった理由もあってか、この期間に植木枝盛の『東洋大日本国国憲按』や千葉卓三郎らの『五日市憲法草案』、嚶鳴社や交詢社等の私擬憲法案が続々と起草されていく。


 しかし第三回国会期成同盟の会議が開かれようというタイミングで生じた政府のスキャンダルに乗じて、後世で板垣退助と並ぶ民党の顔役として知られる大隈重信が大暴れしたことで薩長閥の政府元老たちも板垣退助も国会期成同盟も大隈と福沢の門下生も共愛会も向陽社や玄洋社も……朝野を問わず日本中が騒動と混乱の渦に巻き込まれてしまうのである。

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