四十二 東北歴訪と西郷の精神返却

 五月末に東京に着いた頭山は2週間と落ち着かず、6月の11日には梅雨の晴れ間に番傘を片手に提げ、更なる有志との出会いを求めて北へと旅立つ。


 陸前浜街道(国道6号)を午前中に40数キロメートル、午後におよそ30キロメートルという猛烈なペースで歩みを進め、13日には茨城県南部の土浦へと到着した。


 そして土浦に1週間ほど滞在して見物してから、水戸で三木左太夫、斎藤甲斐といった有志者を訪問し、福島県浜通り南部の平を経て中通り中部の三春で田母野秀顕という名望家に世話になった後、河野広中を訪ねて中通り北部の福島の街を目指す。




 福島の市内をしばらく歩いていると、向こうから近づいてくる男が頭山を見て首を傾げ、ある程度距離が縮まったところで驚いた声を上げた。


「頭山さん! 頭山さんじゃないか、こりゃ奇遇じゃ」


「おお、阿部君だったか」


 頭山と東京までの道を同行した後しばらく別れていた阿部武三郎だった。“なんか知り合いに似ている人がいるな”と思いながら歩いていたらしい。




 頭山が訪ねようとしていた河野広中は福島における民権運動の代表だが、この頃は県会議長の地位についていた。副議長の岡田健長も同志であり、さらに当時の福島県議会は60余名の議員ほぼ全員が民権運動家かそのシンパともいえる状態で、彼らは福島新聞の佐藤清社長や花香鏡次郎(恭次郎?)主筆らとの会合場所として北裏町の借家を借り、自由民権や国会開設の運動を展開していたという。




 頭山よりも先に福島に入っていた阿部武三郎の案内によれば、河野広中の家は福島の郊外にあるのでこの北裏町につくってある“福島民権運動者たちの梁山泊”に向かった方が早いとのことだった。




 河野広中は1年ほど前、箱田六輔に「筑前の人物で、福岡全部を背負って立つだけの器量人といったら誰かね」と質問した際、「それは頭山満をおいて他にない。貴方を前にして失礼やも知れぬが、彼こそ福岡はおろか日本一でっかい人物であると推奨しても、過言ではないと思っております」と即答されたそうだ。


 河野広中はそのことを他の福島県の民権運動家たちにも話していたため、彼らはその頭山満がそろそろ夏になるとはいえ素肌に白木綿の単衣一枚、腰は紺色に染めた木綿の兵児帯をぐるぐると巻き付け、足には朴歯の足駄をつっかけているという少々ラフな格好で現れたのには拍子抜けしてしまったらしい。




 しかしながら頭山満には若い時から人を惹きつける不思議な魅力があった。その精神性もさることながら、子供の頃より本は読むほうだった上に滝田塾と亀井塾で和漢の教養を身に着け、記憶力も高い。しかも頭山は人から話しかけられなければ自分から喋りだすことをあまりしなかったため、その学識はひけらかされることなく秘められた知性となってますます周囲の尊敬を集めた。


 ついでに言えば食事の時には三人分の量を軽く平らげてしまう大食漢であり、囲碁を打たせても滅法強いという特技まである。この頃の福島県令山吉盛典は大変な囲碁好きだったとかで、この民権梁山泊を訪れて頭山に挑戦するも勝てず、何度も勝負を挑んだそうな。




 頭山と碁盤を挟んで烏鷺をたたかわせながら天下国家の談義から世間話まで談笑を重ねるうちに、福島の政客たちは当代有数の豪傑といって良い頭山の人物像にすっかり惚れ込んだという。




 ある日、頭山は『川定』というほど近い料亭を会場にした官民連合の懇親会というのに河野広中から誘われた。


 県会議長河野に全県議と銀行重役、新聞社幹部に各郡の名士など200人ほどが民間人側として顔を揃え、官吏側も県令山吉盛典に警部長の門外千別ら各官署の幹部30人余りが懇親会に出席し、襖を取り払った大広間会場が廊下まで溢れる盛大な集まりとなった。




 酒を飲まない頭山は山海の肴が並んだ食膳に舌鼓を打っていたが、参加者に酒が回るうちに負けん気が強いという門外警部長と福島新聞花香主筆の2人がいかなる話の行き違いか殴り合いの喧嘩をおっぱじめた。殴り合い、とは言っても職業柄荒事に慣れている門外警部長が基本的には優勢で花香主筆を組み伏せて殴りつけるという形だったが。


 広間の目立つ場所での取っ組み合いとのことで出席者たちからは「やめとけ」という声も「負けるな、もっとやれ」という声も上がったが、一応「やめとけ」とは言っておきつつ酒の席ということもあって本気で止めに入る者はいなかった。警部長と新聞主筆という県内一流の名士ともなれば相応の言い分の果てだろうというのも察しが皆ついているのでうかつに引き止めるわけにもいかない。喧嘩が中途半端なところで仲裁に入ればむしろ遺恨になってしまう恐れもあった。




 頭山もしばらくは知らんぷりして箸をつついていたのだが、喧嘩が続くうちに暴れまわる2人の位置が頭山の目の前に近づき、相手を押さえつけようとする門外警部長とそれに抵抗する花香主筆が食膳近くで大きな音とホコリを立て続けるようになってしまう。これにはさすがの頭山もうんざりしたようだった。


 相手を殴りつける門外が背を向けたところで図体の大きい頭山は身をぐっと乗り出して腕を伸ばすと、門外警部長の足を鷲掴みにして花香主筆の身体から一気に1メートルほど引きはがし、そのまま知らん顔で座りなおして再び料理を頬ばる。


「だ、誰だ。なにするかっ」


 相手の上から引きずり落とされた門外警部長は慌てて怒鳴りながら再び花香主筆に掴みかかろうとしたが、その前に花香主筆が素早く跳ね起きて体勢を立て直し、門外警部長の横面に一撃を加えると逆に押し倒して殴りつけた。


 頭山は料理に箸をのばしながらその様子を眺め、花香の方も充分に殴り返したというタイミングで「おいっ、もうよかろうが」と一声。


 すると相手に馬乗りになっていた花香主筆は息を荒げながら警部長から離れ、相手が退いた門外警部長の方も息を荒げつつ照れ笑いをしながら自分の席へと戻っていった。




 野次が飛び交う喧嘩騒ぎに独り平然と座り続け、荒事慣れしているはずの警部長を片腕一本の力で一瞬にして1メートル近くも引きずり、さらに巧妙にタイミングを見計らって一声で喧嘩を止めてしまった頭山の姿には列座一同舌を巻いたという。






 河野広中はまた別の日、河野圭一郎という人に会ってみないかと頭山を誘いに来た。


 河野圭一郎は広中と血縁関係のない鹿児島の人物で、西南戦争の薩軍前線司令だったという。西郷軍が敗色濃厚となった明治10年9月22日に、政府軍側で親交のあった川村純義参軍に会見して西郷隆盛の助命を意見したが上手くいかず(川村参軍はとりあえず降伏の勧めを送ったが西郷側は拒否したらしい)、そのまま政府軍で捕虜となって現在福島の監獄に入っているということだった。




 当時の監獄には融通の利くところがあったらしく、囚人の1日分の労役報酬を賠償すれば外出が許可されるとのことで、広中は圭一郎を監獄から連れ出し、頭山満と河野広中は料亭で酒をすすめながら河野圭一郎から話を聞くことができた。




 頭山が河野圭一郎に「あんたが出獄した後、いったい何万ぐらいの兵士を集められますか」と尋ねてみれば、圭一郎は「2万人は簡単でごわす」と豪語する。




 実際のところ河野圭一郎が監獄の外の情勢をどこまで理解しているのかは疑問であり、西南戦争までの一連の反乱で多くの同志を失って運動の中心が言論による国会開設要求へと移っている中でどこまで戦力を集められるのかわからないが、西南の役や大久保利通暗殺からまだ2,3年しか経っていない時期でもある。


 可能性として、藩閥打倒を実現するのに或いは武力を用いた“第二の西南戦争” が必要になる時にも備えた方が良いと、河野圭一郎だけでなく頭山満も河野広中もこの場にいた3人ともが考えていたようだ。




 近い将来に天皇陛下が九州巡幸をされる予定なのでそのタイミングで事を起こせるように準備しようと彼らは密かに企てたが、この話し合いとは関係なく肝心の九州巡幸自体が中止になったため、後世の歴史としても“大規模な内戦は西南の役が最後”という形になる。


 だが、この2年後の明治15年には新しくやってきた三島通庸県令が無茶な県政を行ったことに対する反発で福島事件が発生し、それに関与してしまった人物として河野広中が軽禁獄7年、福島新聞の花香恭次郎記者と、浜通りで頭山満に宿を貸してくれた田母野秀顕が軽禁獄6年などの実刑判決を受けてしまう。穏便なやり方だけでやっていくのもなかなか難しい時代だった。






 頭山満は一ヶ月ほど福島に滞在した後で阿部武三郎と共に旅を再開し、三陸地方を北上していった。


 仙台で若生精一郎、それから松島に出て名所遊覧の後盛岡で鈴木舎定、青森で広沢安任といった人々に面会し、青森で阿部武三郎と別れた頭山は続いて日本海側を南下していく。




 南津軽郡の黒石では、地元有力者の竹内清明と加藤宇兵衛、それから郡立中学校校長の木村勇次郎ら教員たちが頭山の評判を伝え聞いていたとかでちょっとした歓迎会を開いたという。


 その中で成田三郎という教師が「生徒たちのために何かご演説をお願いしたい」と熱心に頼み込んで来たので断り切れなくなった頭山は「僕は演説などできないが……」と謙遜しつつ(立志社や向陽社で何度か演説の経験自体はある)急遽地元の中学生たちに訓話することになった。


「棒と棒をこすり合わせれば火が付く。水中であっても石を打ち合わせて火花を発することは出来る。精神一到何事か成らざらん、諸君もそのぐらい物事に対して熱心でなくてはならぬ」


といったことを述べたそうである。




 青森県の南西部に位置する弘前では、本田庸一という実力者を訪ねたが留守だった。続いて“東奥の西郷隆盛”と評判の菊池九郎という人の家に行ってみたが、この時その菊池九郎はちょうど弘前で開催中だった博覧会の主催責任者として会場にいるということで、頭山は博覧会会場まで行ってようやく菊池九郎に面会できたという。




 自由民権運動の状況打開や“第二の西南戦争計画”などのこともあったといえ、頭山がいかに人脈づくりに労力を注いだかが伺える。






 弘前市の次は秋田市を経て山形県北西部の酒田で森藤右衛門なる名望家を訪問しようとしたものの、これまたおり悪く近くの村に出かけていて留守だというので、縁側で藤右衛門の父親が青年と碁を打っているのに混じって待つことになった。頭山の囲碁の強さに藤右衛門の父は「おぬしは碁の師匠だ。よいお方のご入来じゃ」と大喜び。即席料理なども出して本格的に対局を続けようと接待し始めたとか。


やがて藤右衛門本人が帰宅すると、彼もまた評判を噂に聞いていた頭山が来客だというので大喜びし、「当分滞在していってくれ」と大歓迎。


 そこで囲碁を打っていた青年の方も村松亀一郎だと自己紹介し、「旅回りの碁打ち師と誤解して失礼いたしました。高名な頭山先生がまさかこんな辺地においでくださるとは思わずとんだご無礼を」と詫びた。


 この村松亀一郎という人は後に福島事件で逃れてくる田母野秀顕らを匿った他、県会議員、仙台市会議員、衆議院議員の政治家として明治時代から昭和の初めにかけて活躍した人だそうである。




 頭山は森家に数日世話になった後、庄内の民権派政客である松本十郎や松平権十郎を訪ね、さらに新潟へ向けて南下し、新発田市で山崎米太郎という人の家に宿を借り、長岡で“越後三傑”と称されたという高橋竹之助、大橋一蔵、三浦清風や、さらに鈴木昌司、山際七司、八木原繁祉らと交流していった。




 新潟県内を進む中では、とうとう旅費が尽きた頭山が田舎道を宿のあてもなく歩いているうちにどこかのお寺に辿り着き、これも仏様の慈悲だと暗い中手探りで寺院の縁側へとよじ登り仮寝の宿とすることにしたのだが、これまでとは違った方向性で折が悪いことに、その頃そのお寺の住職の妻(妻帯できる宗派だったのだろうか)がなんと情夫を作って浮気していたとかで、暗い中で縁側に登った頭山を住職は情夫と勘違いしたまま村人に連絡し、事情もわからないままの頭山は人違いで殺気立った村の若い衆に袋叩きにされそうなところを危うく逃げ出した……などという妙なトラブルに巻き込まれたりもしたとか。






 北陸道を進んだ頭山はやがて杉田定一の福井自郷社に到着した。杉田定一とその父仙十郎は酒蔵を改造して自郷学舎の校舎にした酒造家というだけあって、遠来の同志たちには酒蔵の扉を開いて蔵出しの酒を「いくらでもどうぞ」と勧めて厚遇する習慣があったとのことだが、筋金入りの酒嫌いである頭山は酒の代わりに仙十郎の蔵書から『和論語』を借りて読みふけったという。




 頭山が東京を出発したのは6月だったが、青森までぐるっとまわって福井にたどり着いた頃にはすっかり雪の降る季節になっていた。この時期に至るまで頭山は夏用の着物しか持たずに過ごしていたため、その姿を見かねた仙十郎の老妻が羽二重の紋付羽織を自らの手によって大急ぎで仕立て上げ、袷の冬着もつけて頭山にプレゼントしてくれた。


 これにはさすがの頭山も感謝し通しだったが、小雪がちらつくある日、その羽織を着て彼が杉田定一と共にとある会合に向かっていたところ肥え桶を持った農夫と出くわす。狭い田舎道で2人に道を開けようとした農夫は思いっきりバランスを崩し、揺れた桶から撥ねた中身を頭山の羽織にかけてしまった。




 ちなみに日本の農業が人糞肥料の使用を止めたのは第二次世界大戦が終わった後しばらく経ってようやくだという。




 平謝りする農夫をなだめつつも汚れた羽織を見つめていた頭山だったが、彼自身福岡でもしょっちゅう新品の着物や履物を汚したりどこかに置きっぱなしにしたまま帰ってきて義母の歌子や許嫁の峰尾から呆れられるような男だった。


 なのでこの時も「せっかく御母堂から戴いた物じゃが、こうなってしまったら無念だが着られぬなあ」と言いつつ、脱いだ羽織を道端に投げ捨てて平然と歩き出してしまった。




 帰宅後に定一からその話を聞いた仙十郎は「いや大した人物じゃ。あの男は必ず天下に名を挙げるぞ」と唸ったそうだ。頭山満のこういった豪傑気質は何やら杉田定一以上に杉田仙十郎の方と気が合ったようで、頭山曰く仙十郎とは親子ほどに年が離れていながら親友同士のようになったとか。




 春に東京に向けて出発し、夏の始まりに東北へと旅立ち、冬の寒さに追いやられるように福岡へと帰ってきた頭山に、今度は南にいく用事ができて、明治14年の正月頃、彼は前年に散々怒らせていた鹿児島の川口雪篷老人のところを再び訪れた。


 互いに『洗心洞箚記』については話題に触れもせず3時間も話し込んだ後で頭山は頼みごとをしてみた。


「友人から頼まれておったのですが、川口先生の揮毫を一枚戴きたいと……」


 墨書が欲しいと言いながら頭山はその揮毫のための用紙を一枚も持参していないのだが、川口老人も川口老人で頭山の頼みを嬉々として引き受けつつ、床の間の地袋からあるいは別の知人からの揮毫依頼で預かっていた用紙なのではないかと思われる画仙紙や色紙を平然と転用して、扁額用の揮毫や漢詩などを7枚ばかり次々と書き上げ、墨が乾いてから一束にして差し出した。「これは頭山さん、あんたのために……」と渡された一枚には「淡如雲」と揮毫してあったそうである。




 そして頭山が帰ろうとしたところで川口老人はようやく「ところで頭山さん、あの『洗心洞箚記』はご熟読なさったか」とにこやかなまま訊ねた。


 ええ、確かにと、頭山が話題の本を懐から出すと老人は「喧しく催促して失礼した」と詫びる。


「あれは私のものではなく西郷家の門外不出の宝物で、預かっている品だったもので……」


 それから川口老人は頭山を少し待たせると、別間から2冊の和綴じ本を持ってきて「これは、私の物ですから進呈します。お返しくださる必要はありません」と山崎闇斎の註になる『靖献遺言』と『陽明文粋』を渡した。




 そして頭山を玄関まで見送りながら、またもう一度、よっぽど残念そうに言うのだった。


「せっかく遠路を再度おいで下されたのに、薩摩は大木の伐り跡ばかりでのう。この大木は5年や10年では出来申さんので、遺憾なことでござる」

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