四十四 大隈建議と開拓使官有物払い下げ事件

 愛国社再興大会の全国遊説や国会期成同盟の組織発展と共に国会開設要求の勢いはますます熱気を増し、頭山満は前年に続いて明治14年再び上京した。


 この頃は頭山以外にも若き志士たちが続々と帝都東京に集結していたという。

 頭山満と関係が親密な者では向陽社・玄洋社の的野半助、来島(的野)恒喜が熊本県出身の前田下学、藤木真次郎、大分県の山田宇吉、福井県の重野久太郎らと気心を通じ合い、芝・青松寺の隣に一軒の家を借りて同居していた。


 この若者たちは昨年頭山が上京した頃の玄洋社員と同様に貧窮していたが、志も自尊心も高く持った彼らは伯爵副島種臣や、自由民権運動の日本への紹介者である馬場辰猪といった著名人や実力者の資金援助の申し出を謝絶し、どうにか初心を曲げずに活動の継続と資金面の独立・自活とを両立させようと試みる。


 そんな中、玄洋社員の青年達へ援助をしすぎて自分の店を倒産させてしまったという元八百屋の近藤卯平という男が彼らに合流することになり、それならば同志たち10人ほどを集めてこの近藤と共に八百屋商売を始めてみようという話になった。


 夜明け方に目黒や渋谷の辺りまで荷車を曳いて行って、経験のある近藤が野菜の仕入を行い、来島恒喜や前田下学らがそれを銀座や日本橋まで持って行って売りさばいた。

 来島には旧藩主黒田家の執事をやっているような裕福な親戚や物持ちの縁者・知己が結構いたようだが志のためにそちらを頼らず、米飯が食えなくなれば焼き芋だけでなんとか耐え凌ぎ、そのうちに「書生八百屋」という評判で客から目をかけられ、商売も上向いていったそうである。


 この時期の頭山満は各地で行ってきた人脈構築の甲斐もあって民間壮士の顔利きとなり、東京、大阪、福岡を行き来しながら来島(的野)恒喜らのような玄洋社青年社員たちの指導や国会開設請願運動、九州自由民権運動の発展などのために奔走を続けていた。

 明治14年8月には父の筒井亀策が病気にかかったという知らせに対し、郷里の実兄筒井亀来へ「大悪大罪の頑弟」を自称しすぐには帰郷できない旨の手紙を返したというほど忙しく動いていたらしい。




 ……というのが当時の頭山満の動きだが、この自由民権運動の盛り上がりに対抗するため明治政府も水面下で動きを進めており、新政府でも特に保守的な人物と知られる岩倉具視も明治13年には政府内の参議や諸卿に立憲体制導入について意見を求めたり、明治14年1月からは政府内で大隈重信、伊藤博文、井上馨、黒田清隆といった面子が憲法についての協議を行っていた。


 いわば嚶鳴社の草間時福が言ったところの“官令憲法”による国会の模索である。



 大隈・伊藤・井上・黒田の憲法協議が意見の不一致でなかなか纏まらない中、政府内で1人だけ立憲体制導入についての意見発表を先延ばしにしていた大隈が明治14年3月になってようやく意見書を提出した。


 その内容がまた無茶苦茶で「早期にイギリス流の立憲君主国家としての憲法を公布し、来年の末までに議員選挙を行い、再来年の初めには国会を開け」というとんでもない主張である。


 まずこの頃は自由党も結党準備中で、政変を受けて大急ぎで結党を終わらせたのは明治14年の10月である。大隈の立憲改進党が結成されるのは翌明治15年の4月で、3月に結党する立憲帝政党よりもさらに後だ。議会政党が一つもない中で選挙を行っていったいどのような国会を開こうというのか。


 しかもそれを意見提出を求めていた岩倉ではなく、何故か右大臣岩倉具視より上の立場の左大臣有栖川宮熾仁親王に“密奏”というやり方で提出し、主張内容と提出方法の両面で岩倉を激怒させた。


 明治政府内の右派というイメージで知られる井上毅は岩倉から意見を求められ、イギリス方式を推す大隈の案は大隈と親しい福沢諭吉の民権論と類似点が見られるとし、大隈・福沢ラインへの対抗としてドイツ帝国に倣って君権主義的要素の強い政治制度を目指すことを主張。


 一方、6月末にようやくこれらの動きを知った伊藤博文は“イギリス式かドイツ式かなど今決めることではない”として大隈だけでなく井上のことも罵倒する。岩倉の主張する大隈追放案に対しても否定的な態度を取った。




 井上毅の方については一旦置いておくとして、大隈重信は何故ここまで無茶な主張を行ったか。簡単に言ってしまえば板垣退助や土佐立志社と似たようなものである。「薩長土肥」の“土”である土佐出身の板垣と同様に、薩長土肥の“肥”である肥前出身の大隈もまた、頭上に立ち塞がる薩長閥を退かすと共に“日本の議会政治確立の英雄の座”という栄冠の獲得を望んだのだろう。


 後に国会議事堂に“日本の議会政治発足の礎となった3英傑”として銅像が並べられる伊藤博文・板垣退助・大隈重信の3人だが、その手法は3人それぞれ違う道筋を辿っている。


 まず長州人である伊藤は当然ながら薩長閥との関係が深く、公家の岩倉たちからの信任も厚い。十分な基礎固めの上で着実に国会開設・立憲政治開始への道を進むことが可能で、板垣と大隈に対して議会制度の英雄第一位の座に最も近いところにいる。


 対する板垣は基本的には在野の政治家として外部から薩長の牙城を崩さんとしており、早くから自由民権運動の大親分としての地位を築き上げている。一方でその地位を逆に利用して大阪会議での参議復帰等といった政府薩長閥からの誘いを引き出し、美味しいポストや甘い汁を手に入れることも厭わない強かな“政界の惑星”としての顔も持っていた。


 3人目の大隈は板垣の逆である。征韓論に組しなかった大隈は基本的には政府内に身を置きつつ、自らのブレーンとして福沢系の知識人を官吏に登用し、明治政府の内部から在野勢力への影響力拡大を目論んでいた。



 自由民権運動の勢力が拡大し、政府内でさえも進むべき道が国会開設・立憲政治であることを疑うものがほとんど消えたこの時期。

 長州閥に属する伊藤と「民権運動の大関」である板垣に対して政府内における伊藤のライバルの一人に過ぎない大隈は一歩出遅れているようだったかもしれないが、大隈は逆に勝負を仕掛けるチャンスと見たのかもしれない。


 政府は自由民権運動の熱量に圧され、根強い保守派だった岩倉具視ですら立憲体制の導入を受け入れる姿勢を見せている。政府保守派の力が弱まっているこのタイミングで政府内の傍流という立ち位置を活かして大胆な行動に出ることで、朝野の国会開設運動の主導権を奪取する漁夫の利を狙っていたのではないだろうか。


 だがここで伊藤と大隈の間に談合が行われ、大隈の建議による政府の混乱はほんの一瞬だけ小康状態に入った。自由党、自由憲法、自由議会の結成を目指す在野の民権運動と、政府主導の憲法制定・国会開設を目指す薩長閥の競争はまだしばらく長引いて長距離レースになるかと思われた。




 ところがそこへ発生したのが開拓使官有物払い下げ事件である。伊藤博文による大隈の鎮静化は2ヶ月と保たなかった。


 この頃北海道には開拓使が置かれ10年計画で開発事業が行われていた。その10年計画の満期が近づいたこの年、開拓使の廃止が決まり、その事業は払い下げによって継承されることとなる。

 そして開拓使事業というのはそもそもロシア帝国に対抗するための重要な国力増大政策であるということから、開拓使長官黒田清隆は払い下げ事業について私利で動かない信用できる者たち――特に官吏出身者をあてるように主張する。


 しかしながら、1400万円の予算を投じた官有設備を事業が赤字であったというのを理由に39万円、それも無利息30年賦の破格大特価にまで値下げしてもなお、開拓使官吏たちが結成した北海社のみでは資本金が幾ばくか不足した。

 そこで岩内の炭鉱と厚岸の山林だけは実業家五代友厚らが経営する関西貿易商会で払い下げを引き受けるという方針がまとめられる。


 この格安の払い下げには政府内でも批判が出たが、特に大隈重信は前大蔵卿であり、払い下げの規則を定めた張本人というのもあって彼の反対の声は大きく、“不当に廉価な払い下げの中止”を公然と主張していた。


 7月にはこの問題が新聞にすっぱ抜かれて民衆の前に暴露され、“藩閥政府の開拓使長官が同郷の政商に(黒田と五代はどちらも元薩摩藩士族で両名ともに鹿児島の城下町出身だった)格安無利子の払い下げを行った”という形で認識されて大騒動となった。


 さらに大隈が登用した大蔵官僚たちも払い下げ中止を求める意見を出した上に、大隈と関係が深い福沢の門下生も北海道や東北地方へ遊説に派遣されたという。しかもどうやら、三菱財閥がこの反対運動に資金提供を行っているらしい……。


 なぜここに三菱が絡んでくるのかというと、彼らは北海道貿易に既得権益を所持しており、以前に創業者である岩崎弥太郎は開拓使の保有する船舶の払い下げまで願い出て却下されたこともあった。開拓使官有物が五代友厚の関西貿易商会に払い下げられるというニュースで、三菱は北海道貿易の既得権が脅かされると懸念したようなのである。




 状況的に、大隈が福沢諭吉とその門下生、並びに大隈派の官僚や政治運動家たちのみならず、三菱財閥や新聞社などとも結びついて政府薩長閥を全力で攻撃しているというのは明白だと見られた。


 あるいはこの積極的行動は“これを機に薩長閥を叩きのめして、一気に国会開設を実現しよう”等といった在野反政府派に対する扇動、もしくは在野の板垣らに対するアドバルーンみたいなものだったのかもしれないが、土佐派と大隈・福沢派の間には若干の温度差や距離感の違いが生じている。


 土佐派の中でも特に反政府運動の中心指導勢力としての自負を持つ者たちにしてみれば自分たちのお株を奪わんとする大隈の騒動に乗っかるよりも自由党の準備会や第3回国会期成同盟大会の準備を優先すべきだったであろうし、板垣退助は“政界の惑星”として非常に優秀で、乗るべき誘いと乗っちゃいけない誘いを分別する能力がそれなりに敏かった。



 大隈が起こした世間の騒動・政府の混乱を見つつ、板垣は8月末に全国遊説へと出発。神戸、大阪、横浜と各地で反政府派有志を扇動し、9月16日東京に東京に入って大隈・福沢派から歓迎を受けながらも、板垣は彼らと微妙に距離を取ってそのまま遊説の旅を続けに東北へ向かってしまった。


 大隈派の者たちは“今この人心が激昂し、政府が困弊している機に乗じて民権各派で大隈さんを応援し、内外相応じて政府を攻撃すれば薩長の藩閥政府を転覆させることも容易いでしょう”と板垣を説得するが、板垣の返答は大隈シンパの人々にとってやや冷淡なものだった。



「此(開拓使払い下げ不正問題)の如きの事は、今日の政体に在て、敢て異とするに足らず。故に予は寧(むしろ)其根本に溯りて之を救治せんと欲す。徒らに一部の官吏と結託して他の一部の官吏を攻撃するが如きは、ただに予の屑(いさぎよし)とせざる所のみならず、亦以て我徒の目的を達すべき所以の道にあらず。我徒は幸にして全国に多数の同志を有せり。予は先づ之に赴かざる可からず。加ふるに今日の漫遊は東北人士との宿約に係り、また如何ともする無し。卿等それこれを諒せよ」



 昨今の政治ニュースを思うと、いや戦後日本の民主政治どころか日本の政党政治始まって以来延々と続いてきたスキャンダル合戦を思えば大変立派なことを言っているが、発言のタイミング的には逃げの上手さが印象に残る。


 そもそもここで大隈派の動きに乗るのは板垣の立場を軽くするどころか危険に晒すものであり、板垣にとってはほとんど得がないのだから冷淡な態度も当然のものだった。



 政府内では政変の直前、井上毅が有馬温泉で休養していた岩倉具視に状況報告と進言の書簡を送っているが、立志社その他の国会期成同盟や福沢諭吉らの党派が全国に拡大していることに対して「……此侭打過候はば、事変不測と相見へ候。若し還幸後早々聖旨を以て人心之方向を公示せられず候而一度彼より先鞭を着けられ候に至らば、憲法も徒に空文に帰し百年の大事を誤り、前後之策なきに至候は必然……」と警戒心を述べている。


 もし今急進派が暴発すれば“第二の西南戦争”すら考えられた。内戦に至れば大久保利通と西郷隆盛という卓越した指導者を失った当時の日本で早期の解決はほぼ困難であろう。


 この頃はまだ西洋諸国がビスマルク外交に振り回されている時期だが、日本が長期の内乱に突入すればいつ列強が落ち着きを取り戻して干渉を行ってくるかわからない。そうなれば日本の独立は破局を迎える。


 立志社の獄の際にも、大久保利通暗殺後の頭山満の訪問に対しても武力蜂起路線を戒めているように、板垣はそういった犠牲が多いうえに制御が難しい内乱による戦い方を望んでおらず、自由民権運動による長期的な浸透と影響力の拡大こそが彼の選んだ戦法だった。


 第二の西南戦争を望まない板垣にとって、政府との全面衝突も辞さないような大隈派の危険な賭けは到底乗ることができない話だ。




 そして大隈重信はその過激な言動によって、民権運動側の板垣退助のみならず政府側の伊藤博文からすらも見捨てられた。

 数か月前に岩倉具視が主張した「大隈追放」に反対した伊藤だったが、大隈重信と大隈系官僚による払い下げ批判や福沢系の民権運動との結託、政府批判を行う新聞社との結びつき疑惑等は政府内にいる大隈の“利敵行為”と見做されて伊藤の態度を急速に硬化させ大隈追放賛成の側へと転向させてしまう。


 大隈追放の急先鋒だった岩倉具視が休養で、大隈重信本人は天皇の行幸に同行のためどちらも不在だったタイミングで伊藤博文は井上毅と協議。ここで大隈追放の方針を固めると共に激化する反政府運動を鎮めるため払い下げの中止、さらには国会の開設を10年後と具体化することも決定した。


 10月11日に天皇が行幸から帰ると大隈追放を支持する元老たちはその日のうちに御前会議の裁許を得て、翌12日には事前の方針通りに国会開設の詔勅が発表される。この時、山県有朋が近衛師団を待機させるなど軍事力・警察力の配備によって大隈を政府に近づけさせず、大隈邸を伊藤と西郷従道が訪れて辞表提出を促し、了承を得られたため詔勅と同日に大隈は免官ということになった。


 いわば大隈に対し薩長閥によって“政府中枢からのクーデター”的な手法で行われたのがこの政変である。


 要するに強制的に仕事を辞めさせられて追い出された訳だが、大隈が新聞等の政府批判と結びついたという見解について当人は“全くの濡れ衣”“事のここに至ったのは全く薩長軋轢の関係から来たもので、邦家の前途深憂に堪えない”“死を覚悟した”“天皇陛下と鍋島公に助けてもらわねば命も危なかった”などと主張。


 そして「今にして思い出さるるのは故内務卿大久保さんのことである」と大隈は言うと力を込めて「大久保さん」と繰り返し、「大久保さんが今日なお生きて居られたならば、かかることはなかったであろう」と両眼に涙を浮かべて、袂からしばしばハンカチーフを取り出し、語っては目を拭き、拭いては泣き、思いで多き嘆息をし、夫人曰く、「大隈が今日のように涙を流して泣いたことは、今日が実に初めてである」とかなんとか……。



 ちなみにこの明治14年の政変について頭山満の孫である頭山統一氏は「大久保がもし生きていたら大隈の生命は断たれていたかもしれない」と書いている。内務卿大久保が江藤新平、前原一誠といった対立相手や不平士族たちをどう処していたか思い起こせば同意するほかない。


 “大久保さんが今日なお生きて居られたならば、かかることはなかったであろう”と大隈は言うが、もしこの時まで大久保利通が生きていたら大隈重信はもっと容赦なく死に追いやられ、史実のような穏便な処分で済むことはなかっただろう。



 さて、この政変では大隈重信の他に大蔵卿の佐野常民、大隈に付き従った参議兼農商務卿の河野敏鎌や駅逓総監の前島密、また福沢系の官僚として慶応義塾出身で統計院権少書記官という職に就いていた犬養毅と尾崎行雄(この2人は後に政党政治家として活躍し、共に「憲政の神様」と呼ばれる)などが下野する。


 立志社社員などにしてみればライバル的存在の大隈・福沢派に近い官僚たちの犠牲だけで一先ず国会開設の約束は手に入れられたわけだが、板垣退助は遊説先の新潟で大隈免職と国会開設の大詔の報を受け、それに対して「前途猶遠し、喜ぶ勿れ」と返電して気を引き締めさせた。



 国会開設の確定とそれに伴って与えられた10年という準備期間は日本の政治運動における新たな時代の幕明けを呼ぶものであり、政府関係者と在野の運動家たちはそれぞれ諸々の対応に奔走させられることになる。

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