五つ目 ぼくとぼこう

 教育実習に行く年の四月、ぼくと父は大学に呼び出された。一度目は、五日間の介護等体験の終わった後。その年の末に行われる二日の介護等体験についての話だった。その時期まだぼくは入院していたので、来年度以降のチャンスに持ち越すことになった。そして同時に、大学は障害者が教育実習に行こうとすることに、難色を―――というより、ぼくの感じたことに正直に言えば、何とかぼくに実習を思いとどまらせようとしていた。脅しをかけるように、如何に教育実習が大変かと言う事を、どつきまわすように念を押してきた。

 結局、教育実習は行ってもいいが、それには条件が出された。

 その内の一つが、大学付属の病院で診断書を出すことだった。ぼくのかかりつけ病院では、信用できないらしい。


 その話し合いの五日後、ぼくは第一中学校と打ち合わせする予定があった。ところが、この話の翌日、第一中学校から電話があり、突然受け入れは出来ないと拒否されてしまった。

 理由を聞いても、「母校で」としか言われない。しかし大学に相談すると、大学は心底嬉しそうだったのを覚えている。だからぼくは、この段階で、附属病院の診断書がないからとか、そんな理由で断らせたのだろうと考えるようになった。いや、そうしなければ、怒りでどうにかなりそうだった。


 六月になって、教育実習に関して話し合いが設けられた。とはいえ、父は大学に行く必要性を感じていない。もう子供も四半世紀生きているのに、一体何だって親の監督でどこかに行かなければならないんだ、というのもあるだろうし、何より父は大学側の種々の発言から、大学の少なくとも事務連中のレベルの低さにもう付き合う気にもなれなかったのだ。しかし大学側は何を勘違いしていたのか、「話し合いに来ないのなら実習に行かせない」とのたまい、結局六月に実習について話し合うことになった。

 事務連中はこの辺りから、どうも根本的に勘違いしていたようである。

 父の職業に関しては、まあそこそこブラックな勤務体制と阿漕な仕事内容というところで察して貰いたいのだが、まあ、要するに父は大学なんぞに行く時間がそうそう取れる身分ではない。そういう訳なので、「この日に」と指定し、分かったと事務は言ったのだが、その後「実は会議がありました」と、別の日にするように要求してきた。父はそのいい加減な連絡網を心底軽蔑しながらも、別日を指定し、要求に応じた。その際、ぼくも一緒に来るように言っていたと言うことは、おそらくあの話し合いで、ぼくが辞退すると言うのを期待していたのだろう。

 あの時、大学のくそ教務は「本当に倒れませんか? 絶対に倒れませんか?」などと無茶苦茶な確認をしてきた。父は「私はこの話し合いに来る前、三十時間の極限状況下(読者諸氏はその人生の中で最も過酷な仕事を思い描いてくれて構わない)での仕事を終え、自力で車を二時間走らせ、この会議に出席しているが、この後私が倒れないという保証はない。そんな保証をする事は逆に無責任だ」とカウンターを打った。大学は、というより、事務連中は押し黙るしかなかった。当たり前だ。連中はもし万が一、ぼくが大学に泥を塗った時、「だから言ったのに」という言い訳が欲しかったのだから。

 その間も私は内諾を探した。母校で、母校で、母校で、という繰り返す言葉はいっそ清々しいまでにオウム以下、壊れたラジオを通り越して、針のねじくれた蓄音機だ。電話代が勿体無い事この上ない。


 不毛で無毛な会議の後、ぼくは相変わらず電話に明け暮れていた。やれ、教師不足だの何だのと現場はいっているが、何のことは無い、連中は「ボランティアで教えてやっている」という文句にあぐらを掻いて、何故こんな急な時期に、などと宣っていたし、ぼくが数字を少しでも言いよどもうものなら、いかに非常識かと、非常識的で非常用的な言葉で返したものだった。

否や、もしかしたら連中は、モンスターペアレントの対処のしすぎで、それが暴言だと分からなくなった哀れな社畜なのかもしれない。だがしかし、いずれにしろ、ぼくは大学側の嫌がらせでこんなに急になりました、とは言わなかったので、そこは褒めて貰いたい。

こんな具合だったのだが、それでもぼくの熱意は伝わった所には伝わった。ここを便宜上、第二中学と呼ぼう。

 第二中学は、校長が宗教学を履修していた。「後進を育てる」と言って、校長は、面接は形だけ、即決で、その年の秋の実習を認めてくれた。よかったよかった、と、大学に報告し、ティータイムを楽しんでいると、校長から直接電話があり、謝罪を受けた。校長から事の次第を聞いた担当教諭が、とても勤まらないと拒否したらしい。ぼくは糠喜びを悲しむ間もなく、また電話をかけ始めた。

 母校に、母校に、母校に、母校に…。

 連中は必ずそう言う。だがぼくの母校は、後にも先にもトワイライトだけ、そしてトワイライトは公的機関でありながら、学校ではないと言う。

 大学の連中は、ぼくが通信制高校の出身であることは知っている筈だ。履歴書に書いてあるのだから。だから、高校の母校でも良いと言われたら、ぼくの母校は通信制高校しかない。だが通信制高校は、教育実習先として認められていない。

 否や、こいつについて、大学の失言であるので、大いに公言するべきであろう。出来れば大学の名前も出しておこうか。市ヶ谷に本部のある通信制大学だ。なんでも日本で一番初めに出来た通信制大学らしい。随分とこの国も馬鹿にされたものだ。

 閑話休題。

まず通信制高校というものは、主にレポートとスクーリングによって成り立つ。毎日毎日、懇切丁寧に教師に教えてもらうのとは訳が違う。ということは、授業一つ一つの重さも時間も密度も、普通の高校とは異なるのだ。一度授業で遅れが出来たら、それは取り戻せない。次の授業に、出られると言う保証もない生徒達が、学ぶ意欲と執念だけで集まる。それが通信制というところだ。だから、教育実習先として不適切だと言うのは理解できる。しかし連中は、あまりにも、あまりにも語彙が貧弱で、ぼくを唯の障碍者だと軽んじすぎた。よもやぼくが、口を封じられれば指先で戦う弁士だとは思わなかったのだろう。


「夜間高校はいい。でも通信制は実習先として認めない。」

「通信制は学校に行かないから。」


ほうほう。じゃあ今貴様が汚ェケツを乗っけてふんぞり返ってる教務課は、どこの大学のなんていう学部なんですかねぇぇぇぇ????

 しかし本当にぼくがゆるせないのはここではない。



「適応指導教室は、学校ではない。」



 連中は、トワイライトを侮辱した。否! 否! 否! これは侮辱ではない! 学歴差別も甚だしい! 貴様たちは人権センター(笑)とやらを作っておきながら、平気で平気で、へいいいいいいいきで、こうしてぼくに実習を行かせない為のアカデミック・ハラスメントを繰り返しているのだ! 悍ましい、ああなんということだ! 教務課長の上の名前だけでなく、下の名前も名札に書いてあったのだから、記憶しておけばよかった! 教育実習担当の禿鷹(偽名)の下の名前も記録しておけばよかった! そうすれば少なくともぼくは、自己満足のために形代を用意し、自分の手首を切った血でその形代を汚し、油性ペンで名前を書いて、焼き尽くすことが何度でも出来たのに!

 奴らを、法に触れずにぼくだけが裁く事が出来たのに!

 今思い出しても呪わしい! あの教務課に入ったこの足の裏が汚らわしい! 洗っても洗っても、連中のクソと白癬菌が取れないのだ!!!


 ここでぼくが、ノウマク・サマンダ・バサラダンカンだの、ソモソモチマキナナダンゴクニハと延々唱えてもいいが、それではぼくが単なる癇癪持ちになってしまう。だからここは先に進まなければ。ああでも、こんな感じでぼくの感情がここからさき、少々乱れるのくらいは、勘弁してくれたまえよ。ぼくはこの時のことを書こうとすると、愉快で愉快で、堪らなく愉快で口元が歪んでしまうのだ! 肩が震えて笑いが止まらない! この衝動を表現せずして、ぼくという人間のエッセイは語れないのだから!


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SEXPOSURE 菊華 紫苑 @s-kikuka

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