四つ目 ぼくとがっこう

 教育実習に行く条件は大学毎に異なるそうだが、まあ、必修科目というものはどこにでもある。最低限の条件を満たすのに、ぼくは二年かかった。というのも、教師の基礎科目である「教師論」の科目の教授に突っかからない自信が無かったので、対面しないで済む方法で単位を取ろうとしたのだ。レポートでは「教師に求められる資質」が出題され、テストもその通りだが、ぼくは二年、落ち続けた。その理由は、恐らくぼくは頭でしか理解できないのだろう。

 結局の所ぼくは教授と対面する形で、最も安易な方法で単位を取ることになるのだが、ぼくは教師の精神論を指摘し、レポートでは教師の職業論を言ってほしかった…の、だと思う。

 と言ったって、ぼくは絶対数量的に「教師」を知らない。先ほど言ったように、小学校と中高の教育課程は別であるから、参考にならない。大体そんな十五年近く前のことなんて覚えてない。中学校は言わずもがな、高校は週に一日しか授業が無いのだ。無理である。想像もつかない。だから、理想や思い描く教師像でしか語れない。その元になるのは、やはりトワイライトの恩師達や、逆にトワイライトに嫌味を言ってきたあの偉ぶった―――後から知ったが本当に偉かった、ウマヅラハギ達を反面教師にするしかない。ぼくの見てきた教師は、テキストとはあまりにかけ離れすぎていて、理解が及ばなかった。


 本当にあいつらは、この科目を履修したのだろうか?


 何度もそう思っていた。そして、このままじゃ埒が空かない、と、ぼくはにっくき教師の親玉に対面する方法で単位を取ることにしたのだ。

 この教師論の教授を、ワロジャ教授としよう。いや、漢字の名前だと、どんなマジカルバナナが発生して特定されるか分からないからだ。この時は全くそんなことは知らなかったのだが、日本の教育論の物凄い分厚い共著などにも論文が沢山あり、ついでに国内の研究者のトップだった。この大学は何故か、「日本国内で唯一の研究者」が多いのだ。

 結論から言うと、ワロジャ教授は尊敬すべき教育者であった。ぼくを一目見て、「あのレポートを書いている人」と、言い当てたくらいだ。単純にワロジャ教授の研究室の近くに、ぼくと交流のある教授の研究室があって、仲の良い二人はぼくのレポートを「よく本を読んで考えているレポート」と評価してくれていたのだそうだ。

無論、ぼくは本を読んでそのようなものを書いたのでは無い。全て実体験に基づく、十年も前ではあるが、生のデータの賜だ。…それはそれでどうかと思うが。

ちなみに教授長も同じ理由で、ぼくの話題が上る程度には、認知されていたらしい。それもこれも、ぼくが質問票代をケチっていて、板書を写すために前に座っていたからだ。ケチは通信教育においてはとてつもなくプラスに働くらしい。

 ワロジャ教授の授業では、十年前、つまりぼくが不登校だったあの頃、丁度教育界は転換期を迎えていて、現場はかなり混乱していたということを知った。無論、だからといってあのアバズレを始めとしたウマヅラハギやらイッカクやらを赦すつもりはさらさらない。だがそういう事実があるのなら、教師の性質は変わっているかも知れない、と、ぼくは思ったのだ。

ああ、そうとも。思ったさ。ぼくは、彼らは責めるべきではなく、新しい環境を言い訳にしていた憐れむべき無能だと思ったのだ。

奴らをただ責めて憎むだけではならないということを知ってしまった。彼らの苦労という名の良い訳を知ってしまった。彼らを取り巻く過酷な労働環境も知ってしまった。だからぼくへの訪問がプリントを手渡すだけだった言い訳も知ってしまった。

 教師をただ純粋に憎んでいた頃は、もう過ぎ去ってしまった。

 彼らの言い訳を、聞いてしまったのだ。

 ぼくの反骨精神は、結局スクーリングを飛び出し、様々なところで「教職」そのものへの改革精神となってぼくを駆り立てた。

 両親はそれを心配していた。組織に入る前から、ジャンヌ・ダルクのような人間は受け入れられる筈が無い。もっと大人しく、しおらしく、謙虚でいろ、と、いつも口を酸っぱくさせていた。

 この一つの死を抱えても、まだぼくは正直に言えば、免許を取ることに抵抗があった。


 トワイライトに行くためには、教員免許が無ければならない。

だがぼくにとって、教師ほど憎い職業はない。


教授と講師には恵まれたので、ぼくは徹底的に「勉強」ではなく「学問」の輩なのだろう。教科書以上の学びの為に中学校に行けと迫られていたぼくにとっては、検定教科書―――つまり高等学校までの教科書というもの程くだらない本は無かった。大学や啓発セミナーで取り上げられる学術書ばかりを読んでいたぼくは、大学院の勉強の為に英語の論文を読んだりもしたけれど、結局小説は最後まで読まなかった。というより、読む時間がなかったのだ。

 ぼくは哲学科なので、中学校では社会を教える。社会科の教員免許は、経済学科でも法律学科でも心理学科でも哲学学科でも歴史学科でも、取ることが出来る。逆に言うと、哲学科の学生として特出した授業は出来ないのだ。

 一度取ったら、貪欲に免許をかき集め、一人で何でも教えられる「人材」にならなければ雇ってはもらえない。だがその結果、ぼくにまとわりつくのは、教員免許という汚泥だ。ぼくにレイプ魔を送ってきた中学校の、リョウを自殺に追い込んだにっくき仇共と同じ肩書きだ。そしてそれは、更新する必要がある。教員免許を取ることで、ぼくはリョウを殺し、無責任に義務を果たしに来たアバズレと同種になってしまう。けれどもそうならなければ、トワイライトに就職できない。

 そんな矛盾を抱えて、両親はトワイライトにはボランティアで行ったら、などと嘯いていた。冗談じゃない。ぼくはこの道で食べていくために、死に物狂いで、実際に殺されかけて発狂して精神病院に入院してまで卒業して、資格を取ったのだ。タダでじゃぶじゃぶ施す事によって、自分の生活が成り立つならまだしも、ぼくは慈善事業がしたかったわけではない。確かに在りし日のトワイライトの考え方はもう無くなり、適応指導教室は学校へ戻ることを大前提に改革された。つまり、ぼくのように伸び伸びとやりたいことをやって、中学校から離れた後、人生が始まるような選択肢は無くなった。もしそれを行いたいのであれば、ぼくが自費でそのようなグループを立ち上げるしかない。

 かつては教会の信者達が応援してくれ、知恵もくれていたが、今のぼく達は、最早老害と癪なガキにまで冷え切っている。しかし自分の理想のために身銭を切って貧乏暮らしをするのと、慈善事業で心の充足うんたらの為に生きるのは別問題だ。だいたい、慈善事業をやりながら食べるためにも働いてたら、ぼくは今度こそある日突然心臓が止まるに違いないのだ。ぼくの研鑽を安売りさせるような両親の発言は、確かにぼくを案じていたのだろうけれども、ぼくにとっては大いに、自分の存在意義を揺さぶられた。

 ワロジャ教授は、そう言ったぼくの葛藤を全て理解してくれていた。ワロジャ教授は教育学の教授として、教育組織の在り方も研究していたので、ぼくの持っている心理学の知識が利用できる立ち位置も知っていた。だが、それらは全て、ワロジャ教授のフィールドでの話であって、ぼくがそこに働きに行くことは現実的では無かった。あくまでもワロジャ教授は研究者であって、そこのツテではない。コネとしてそこに働きに行くことも出来なかったのだ。


 何はともあれ、教育実習に行く段階までこぎ着けた。

 こぎ着けたのだが、話はここで陰謀めいた話に転換してしまう。ケ・バッレを喉に詰まらせればいいのに。


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