三つ目 ぼくのがっこう

 もう間もなく梅雨に入るという頃、ぼくの家に一足早く雷が落ちた。

 ぼくが、「教職大学の通信制に行く」と言い出したのだ。

 ぼくは焦っていた。というのは、ぼくはこの頃からずっと「ニート」「無職」への強い恐怖があった。だから、僅かな間でも「予備校生」という公的身分の無い状態になるのが怖かったのだ。それに元々適応指導教室のスタッフは、教員免許が無ければ入れてもらえない。それ以外となると、相談実績がある相談員、小児科医、そして臨床心理士の資格がないといけない。そしてボランティアの必須条件が、どこもかしこも「教職課程であること」だったのだ。もしかしたら今でも、そんなことはないとにかく人手がほしい、という所はあるのかもしれないが、ぼくは見つけることが出来なかった。

 迷いがない筈が無い。教師はぼくの敵だ。リョウの仇だ。母の健康を奪った。ぼくの健常な精神を奪った。優しく大らかだった父を豹変させた。そして何より、家庭をめちゃくちゃにするために、あのアバズレは義務を果たしているという言い訳のために、教えもしないプリントを持ってきた。

 大分主観が混じっているが、そんなゾンビも顔負けの腐敗臭漂う魔窟に飛び込む事は、ぼくの魂が拒否していたし、何より両親は反対だった。

 中学校に行けなかった人間が、中学校で教育実習が出来るわけが無いからだ。

 ただ、その教職大学は、哲学科があった。ぼくは生育過程の影響もあって、哲学にも興味があった。哲学をやりたいという意思は尊重され、晴れてぼくは教職大学の通信生になった。

 そこは、心理大学と全く違っていた。

 まず学風が違う。心理大学は謂わばテスト中心で、壮絶な情報戦が繰り広げられた。三日しかないスクーリング(面接授業)で、目線が合った生徒と、授業前の十分間で仲良くなり、ランチの約束をする。ランチの時にアドレスを交換し、必要であれば住所も教えて、テストとレポートの情報を集める。そんながっついた所があった。

 ところが教職大学は、教職という売りの他に、もう一つ単位取得の豊富さが売りだった。つまり、スクーリング中心である。履修方法によっては、三十回もの授業がある場合もある。通信制高校は、一年で最大でも十八回しか授業が無い。これは大いにぼくを混乱させた。豊富な履修方法は、その仕組みが複雑で、難しい事務仕事に縁が無かったぼくは酷く苦労した。


この頃、教育実習先は中々見つけられない、という話を聞いていたので、ぼくは隣町の中学校に内諾をとった。これを第一中学校と呼ぶことにしよう。


 それはさておき、ぼくのようにがっついた人間は、安直な志の学生には合わなかった。よりわかりやすく主観に依って言うのであれば、通信制の光の部分だけを求め、そして教職大学はそのように答える仕組みを持っていたので、貪欲に学習するために自分をアピールするような学生は、鬱陶しくて仕方が無かったのだ。やっかみはすぐに現れ、ぼくは勉強とは関係ないところで学生生活を妨害された。

 腐っても母校、後々再び菊華家を憎悪の渦潮に放り込んだこの大学のことをそう悪く言うものでも無いのかも知れないが、この大学の精神を現す出来事があった。その時にぼくが、この大学の、少なくとも事務方の考えを見抜ければ、と、今でも後悔する。


 教職大学に入って半年、夜間課程も履修しながら、ぼくの学生生活は充実していた。ここには教員免許を取るために来たということを暫し忘れ、哲学の勉強に没頭していた。そんな日々に、ぼくは足腰が使い物にならなくなる謎の症状に見舞われた。深井の医師は、「転換性障害」という診断をした。心の充実とは裏腹に、毎晩夜遅く、終電で帰ってくることの肉体的なストレスは、ぼくの身体を確実に蝕んでいた。歩けなくなっても、ぼくは勉学を止めなかった。杖を持って、出歩くようになった。そんな時、大学にダンスサークルのチラシが貼ってあって、ぼくはその主催学生に話を聞きに行った。


 手っ取り早く言うと、ブレイクダンス以外をやる予定は無いので、杖を突いているような身体に不具合のある人間は、大学公認サークルとして怪我人を出したくないので、入れられない、とのことだった。


 もう何も言うまい。通信制には訳ありの人間が、学ぶ意欲に突き動かされてやってくる、という前提が、そもそもこの大学にはなかった。高度な教授陣との、回数の多い授業の為の授業料も高く(それにしたって国立大よりは安いらしい)、ぼくは段々、この大学の組織そのものに、不信感が出るようになった。「金ばっかりとりやがる」という言葉が愚痴で終わっていた段階であれば、ぼくは少なくとも、このエッセイを書くに及ばなかった。


 ここで少々小難しい制度の話をしなければいけない。ここを抜きに、このエッセイは語れない。前段までの全エピソードの結末は、次段に全て集約されるので、頑張ってついてきて頂きたい。


 教員免許は、小学校、中学校、高校でそれぞれ種類が違う。つまり、大学教育において課程が異なると言うことだ。しかしその中でも、中学校と高校の免許は同時にとることが出来ることが多い。ただ、義務教育である中学校の免許の為には、高校の免許には無いある実習がある。それが「介護等体験」である。

 五日間の実習科目と、二日間の実習科目がある。この二つとはまた別に、所謂教育実習がある。これら三つを合格していなければ、中学校の免許は取れない。

 介護等体験の目的は、障害児童や弱者の視点がうんたらかんたらと言われたが、現役障害者のぼくから見れば、たかだか五日、老人ホームで認知症の老人の相手をすることが何故障害児理解に繋がるのか分からなかったし、もっと言うならそのような目的なのに何故対象に老人ホームが入っているのか理解に苦しんだ。ぼくは教育者の為の科目の担当教授達は皆尊敬していたけれども、これについては大いに噛み付いた。この程度で障害児が抱える不安を理解できるわけがない、自惚れるな、と、正直にアンケートに書いた。

 だって、我が子ですら障害者になったことを認められない親が、ぼくの目の前に、ぼくと一つ屋根の下に暮らしていたのだ。そんな中途半端な実習は、「その気」になるだけ、その教師の毒だと思っていた。今でも正直思っている。

 とはいえ、どうにか五日間実習の行き先が決まった。知的障害者の施設だ。知的障害「児」ではない。何故成人した人々しかいないところに行くのか、正直今でも分からない。


 この実習がいけなかった。悪い前例を作ってしまった。


 そもそもこの実習は、時期的に最悪だった。大学院受験の為に日本を横断した後、ぼくは入院が決まっていた。その入院した第一週目に被ってしまったのだ。受験疲れも何のその、杖を突いて身体を引きずって実習に行ったが、てっきりぼくが健常者だと思っていた施設連中は、大いに大学に文句を言ったらしい。と言っても、この話は後々事務屋から恨み言のように聞いたので、恐らくこの話が無ければ、ぼくには伝えられなかったのだろう。

 彼ら曰く、ぼくが杖を突いているなんて聞いてない、とのことだったらしい。杖を突かれると、施設の床が凹むから困る、というのだ。まあ、確かに床が凹んだら車いすが引っかかって………。


んな訳あるか。人一人がつく杖で凹む床なら、利用者が尻餅をついたなら施設が割れるだろうが。


大体、ぼくは大学に、杖を持っているのでも「介護」が必要なのか確認したし、自分がそういう障害を持っていると言うことも伝えてある。大学側の連絡ミスなのだろうか。それにぼくは、場所を確認するために事前にこの施設に訪問していたし、その時に杖を見せて、障害者手帳も見せたのだ。どっちもどっち、両方とも「教師は健康な人がなるべき」という当たり前のようで頭の悪いチキンライスみたいな脳みそを持っていたということだ。とはいえ、無事合格点をくれたのだから、文句は言っては行けないのだろう。

「利用者の生活を妨げないこと」「利用者を尊重すること」とテキストにあったから、「このような相談を受けたのでご報告します」「この発言はセクハラではないのでしょうか?」とぼくが所長に聞いたことは、今でも連中は根に持っているらしい。ぼくは前述したとおり、疑問に思ったことは何でも聞く。聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥だ。たった五日間だから、と、機械のように接することなど出来なかった。そのような冷たい実習の学生を、トワイライトで見てきて、そしてぼくはそのような学生を見ると、とても悲しい気持ちになったのを覚えているからだ。

 自分達の苦しみが、単位の道具にされている、というあの感覚を知っていたから、相談にも一日中乗っていたし(サボっていると思われたらしいが)、より深く話を聞くために休み時間中に仮眠をとっていたら、やはりサボっていると思われた。…まあ、確かにぎりぎりまで寝ていて、毎回ドアが蹴破られるような音で目が覚めたのは事実なのだが。恐らく、五分前行動という観点から見ると、あれは寝坊扱いだったのだろう。それは言い訳しない。

 だが、ぼくが大学に気に食わないのは、それが駄目だったと言わなかった事だ。大学は、「杖をついていた事に苦情を言ってきた、だから杖を突いている間は教育実習には行かせない」と言った。

 ぼくは休憩中であれば何をしていても良いと考えていたし、それは今でも変わらない。もしかしたら社会通念上、そんなことをするのは非常識なのかもしれないが、悲しいかな、ぼくは教師になる為に老人ホームに行かせる精神を未だに理解できていないので、「法律上拘束されない」ということを優先していた。それが駄目だった、とは、大学は言わなかった。知ったのは、何もかも戦意を失い、もう関わらないで欲しいと嘆願する父からだ。

 父は心理学を納めてはいない。どころか、技術高校の出身だ。だがその道の職人として、心理学的テクニックは身に着けていた。ぼくはすぐにそれに気づくが、父はぼくがそれに嵌ったと信じている。ぼくはこの先、父の機嫌と心臓のために、敢えて誤魔化されなくてはいけない。


 おっと、時間軸がズレてしまった。

 ともかく五日間実習が終わり、合格は貰えた。

その二ヶ月後に二日間実習を行うことになっていた。だがその時期も、ぼくは入院していたので、大学に時期を変更できないか問い合わせた。その時になって、ぼくは学校に父と共に呼び出された。

 新たな戦いの幕開けである。嗚呼畜生。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る