二つ目 ぼくとせんせい

 病は気からとよく言ったモノだが、気が病めば身体も動かなくなる。精神病とはそういうモノだ。ぼくの収入はがた落ちし、一時は九十万まであった貯金も、心理大学の通信制に入ったことですっからかんになってしまった。だが、それでもぼくはまだ働けていた。しかしそれも、大学二年までだった。

 一般的に、二十歳になるとニートだろうが学生だろうが社畜だろうが、年金を納めなければならないのだが、ぼくは二十歳になるや否や、年金を貰うことになってしまった。障害者年金だ。

 ここでこの福祉システムについては多くは語らないが、とにかく国が「お前は人並みに働けないから助けてあげる」という意味だと、母はぼくに言った。しかし頑固なぼくは、それでもバイトも大学も止めなかった。

 この頃、ぼくの麗しき弟分の、菊華家の従弟が、高校に入学した。何処に出ても恥ずかしくない立派な進学校に進学し、大学生のぼくでも聞いたことのないような問題を解いていた。ぼくは従弟が誇りで、うらやましくて、可愛くて、ねぎらってあげたくて、そして嫉妬していて、恐怖を覚えていた。

 神武家が父方としてあれだけの濃いメンツが揃っていたが、母方はごく平凡な一般家庭が揃っていた。逆に言うと、ぼくは菊華家の親戚とは仲が良かった。従弟は、ぼくが小学生の頃に生まれた、初めての「きょうだい」だった。

 小さな頃は一緒にいたずらをして遊んでいた二人だったが、それも従弟が中学校になると進学のための塾でなくなった。高校に入ると、大学受験の準備でさらになくなっていった。ぼくが障害者になったのは、この時期だ。

 ぼくは神武一族の従弟達には、それほど思い入れがなかった。否、大切なかけがえのないきょうだいではあるのだが、ぼくはいずれ彼らがぼくを置いていって、どこかより知らない世界の住人になってしまうのだと言うことを理解していた。だから余計に、菊華の従弟が可愛かった。


 そして同時に、物凄い嫉妬に狂い、ぼくは勉学の本来の意味を見失ったほどだった。


 従弟は頭が良く、主席が当たり前、トップテンだかトップスリーだか、良く覚えていないが、とにかくそれくらいの成績でいることが当たり前で、そこから下がる事は教育方針として許されていなかった。従弟には従弟の凄まじいプレッシャーがあっただろう。何せ従弟は、旧家の跡継ぎでもあったのだから。おっと、そこで眼を輝かせたのならそれは悪いことをした。何、ちょっと大きな墓に代々入っているだけのことだ。資産もお屋敷も地元のコネも何もない。…多分。

 話が逸れた。とにかくそんな環境だった訳だが、従弟はグレることなく、両親の期待に応えた。無論、元々頭も要領も良かったのだろう。後々触れるが、この子はぼくのように愚直に不器用に重ねるのではなく、効果的な勉強や動機付けが出来る子だった。つまり、従弟の学業は、まだ学問ではなかったけれども―――ぼくが、夢見ていた未来だった。

 ぼくの子供の頃の夢は、「東大に行くこと」、つまり「大学へ行って沢山勉強すること」だったのだ。結論から言えば、ぼくは自分の知的好奇心のままに何の制約もなく、通信制をひょいひょい渡り歩き、恵まれた教授達のご厚意に与り、もしかしたら従弟よりも優れた学問があるのかも知れない。けれどこの時のぼくは、まだ公私ともに支えてくれる優れた教授にも、新しい通信制もなかった。ぼくのちっぽけな矜恃―――「従弟に尊敬されていたい」という願いは、日を追う毎に、レポートが落ちる毎に、ぼくを深く穿つ楔となり、まともな考え方をしている身近な親戚にも見下されるかも知れないという、『妄想』で、ぼくを動けなくさせた。


 「中学校に行っていない」ことが如何に恥ずべき事か、ぼくは教え込まれていた。無論、この時は自分がそのように叩き込んだことなど、父は忘れている。


 誤解しないでほしいのは、このぼくの恐怖は、全て杞憂も杞憂、菊華の祖母に至っては「そんな孫じゃない」とぼくを逆に叱ったくらいで、つまりそれだけ従弟は人間としても良く出来ていた。この頃は少なくともまだ、ぼくのことを嫌ってはいなかったんだろうし、ましてや軽蔑などはしていなかったのだろうと思う。

 仮にしていたとしても、ぼくは反論できるはずだったのだ。従弟とぼくとでは、学問へ対する態度が、あまりにも違いすぎた。キャリアによる安定した経済力のために学問をし、躓く石の少ない学科を選んだ従弟一家と、金も地位も時間の確保も保証もへったくれもない、定年退職した老人の小遣い稼ぎ現場に、若くして行こうというぼくとでは、明らかにぼくのほうが鬼気迫り、そして狂っていた。

 死に物狂いという言葉は、あの時の為にあるのだと思う。

 深井の医師は、大学を辞めれば、単位というプレッシャーから解放されれば、病気は治ると言った。だがそれはあくまで理屈の話で、もしぼくが大学を辞めさせられたら、自殺するだろうということも見越していた。両親もそうだった。

 母は既に中学校の時に精神を病んでいた事は書いたが、核家族の中で、母と子が二人して心を病み、父親のいない昼間、一緒に過ごすというこの緊迫感、お分かり頂けるだろうか? 外へ出れば良い、という結論には、実はならない。


 まず田舎は、店がない。ない、というのは、徒歩圏内にないということだ。ちなみに、このエッセイを書いている段階で、コンビニが新しく出来ていた。ぼくの家から一番近いこのコンビニまで、歩くと三十分はかかる。ということは、車を出すしかない。だが車が運転できない。精神科の薬は、要するに悪い方向へ高速回転する事を静める薬だ。注意深くなくてはいけないこと、つまり危険な作業である車の運転は、医師の特別な許可が必要になる。遠くへ出れば出るほど、出先で発作が起こったときの対処は難しくなる。その為、行動範囲は如何したって狭められるのだ。


 さて、もう一度問おう。母は、ぼくは、この状態で何処へ行けたのだろうか?

 どこへも行ける筈がない。ぼくのヒステリーは、母にはどのように聞こえていたのだろうか。マンドラゴラだろうか。キメラだろうか。いずれにしろ、母はぼくが勉強に躓き、泣き出すと怒り狂った。ぼくが布団の中に入り込み、声を殺して泣いても、母は一階から上ってきて押しつぶした。殺せば泣き止むからだ。

 元とはいえ、ぼくはダンサーだったのだ。肺活量は並じゃない。布団にうつぶせにうずくまっていても、階下に響く。逆もしかり。一階でぽろぽろと涙を流していると、二階で寝ている筈の父が起きて怒鳴り込んでくる。そんな生活が、二年続くことになる。

 心理大学に入学して五年。ぼくは漸く卒業し、「心理学士」を取った。学びの場は十分に充実し、多くの友人も得たが、家では命がけの地獄絵図だった。

 漸く安寧が訪れたと、誰もが思った。この進路は大学院に進まなければならないのだが、受験はゆっくりやれば良い。

 そう、思っていたのだ。


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