第五段 ぼくとハラスメント

一つ目 ぼくのせんせい

 ぼくはとにもかくにも「組織」には縁がない。父曰く、ぼくは意固地に過ぎるのだという。

 それもそのはずで、ぼくは中学校で学ぶべき、社会の不正を許容する正当な不誠実さというものを学んでいないのだ。文献と講義だけが、ぼくの学びの全てで、そして奇しくも、ぼくは「教師」には恵まれなかったが、「講師」と「教授」には恵まれた。彼らは、ぼくの疑問をすぐに解決したい気持ちや、小説に生かすためのトリビアがほしいと言う気持ち、質問票を出すお金がもったいないという気持ち(三十円しかかからないのだが)を、「勉強熱心」「誠実」「真面目」と評価し、その評価はSNS黎明期においてでさえ、ぼくを有名にした。

 まず通信制高校、次に心理大学、その次に心理大学院へ進み、ぼくは臨床心理士になるのが目的だった。理由は勿論、トワイライトに勤めるためだ。

そしてそこの子供達に、ぼくの生き方そのもので、学校というくだらないシステムのために自壊することの空しさを伝えたかった。

ちなみに『臨床心理士』とは当時の呼び名で、当時心理職に国家資格はなく、ぼくがこのエッセイのこの段を書いている段階で、国家資格として公認心理士が制度化されようとしているという段階だ。皮肉にも、ぼくのキャリアよりも遙かにオトクで楽な進路は、この頃あちこちに出来てきていたのだが、もうぼくには、五年間新たに実地経験を積むか、大学院に進むかの、より難関な道しか残されていなかった。そしてここからが、新たな地獄の始まりであり、ついには父さえも壊れてしまうことになる。


 通信制高校に入学したとき、ぼくはその生徒の多様さに驚いたことは、前段で書いた。本当に六十才の同級生がいて、しかも彼は御年六十で有りながら、専門学校に入る為に、通信制高校に来て、公務員として夜勤をこなした後にスクーリング(面接授業)に来ていたのだ。ぼくは彼を見て感動し、将来中学生を教えるからには、高校の勉強ではなく、中学校の勉強をしておきたい、と思うようになった。幸いにも、ぼくはこの時始めたアルバイトが絶好調で、田舎の高校生の時給で九万もの大金を稼ぎ出した程だった。勿論、そのお金を全て使い、ぼくは原付を手に入れ、益々仕事に勉学に励むようになった。こういうわけで資金は潤沢であったので、ぼくは地元の進学塾に入れることになった。

 塾には高校受験と大学受験の為の二パターンの授業料があったのだが、通信制高校の教科書を見た塾長は非常に驚いていた。薄い、というのだ。そして斯うも言った。

「この内容で高校生料金は取れない」と。

 これには実は、ちょっとした笑い話がある。

 ぼくは中学三年の冬、何故か突然勉強がしたくなった。だが中学一年の教科書は、どうしても触れなかった。あの教科書には、学校に行けと怒鳴り散らす両親の声が染みついている。中学二年の教科書には、自殺したリョウのタバコが染み込んでいる。であれば、ぼくは中学三年生の教科書しか触れなかった。トワイライトの指導員は、当時教員免許は必須ではなく、福祉の専門家などが隔日で来ていた。ぼくは彼らを一人占めして、中学校の最初の二年間をすっ飛ばし、いきなり中学校三年の、それもよりによって英語と数学から始めた。なんでそれをやろうと思い立ったのか、今でも思い出せない。ただ、元が勉強好きなぼくであるから、中学の教科書はあっという間に終わらせてしまい、指導員達と参考書を買いに行った。数学は図形の参考書だった。が、問題は英語だ。

 現代英語教育は、文法主義だ。ぼくはその後の人生経験で、主語と動詞以外の文法ほど役に立たない勉強もないと知ったが、英語の先生がいなかった当時のトワイライトの生徒がそんなことを知る由もなく。中学校二年間の穴は、どうしたって埋められなかった。より具体的に当時の学力の話をすると、ぼくは今でもそうなのだが、英語は関係代名詞しか読み書きが出来なかった。数学は二次関数は解けるが、一次関数は解けない。おまけにグラフも書けない。この致命的な欠落は、全てこの時の偏りすぎた勉強方法によると思う。

 とにもかくにも、当時のぼくの英語力では、使える参考書やテキストがなかったそこでぼくは考えた。参考書がないのなら、作れば良い、と。

 どうやって作るか? そんなものは簡単だ。こんな時こそ「子供達」の出番だ!

 かくして、主語も分からない、動詞も分からない、代名詞も分からない、that節も分からない、分かるのは関係代名詞だけという、トンデモ知識でも作れるような、ショートストーリーが生み出されることになった。タイトルは「貴方の恨みを私に下さい」。英題は「Give me your hated.」。…はいそこ、しょっぱい顔をしない。

 これが中学生の時の話で、大学ノートに二十冊前後、二,三ページで完結するネバーエンディングストーリーが書かれ続ける事になった。

 …で、だ。時が流れて、高校生になったぼくは、進学塾に入り、奇妙な答案を作った。

 基本的に、問題文というのは、基礎、発展、応用の順番に並んでいるらしい。ぼくは基礎も発展もズタボロだったけども、応用だけは完璧に答えた。塾講師達は揃って首をかしげ、この頓珍漢な回答の答えを探った。その理由が、つまりこういう理由だったわけだ。

 塾講師達の間でも、ぼくは勉強熱心と言われた。ぼくはこの時にはもう、自分が臨床心理士になるまでの道筋を描いていて、それに伴う目標を三つ立てていた。


 一つ、貯金を百万貯めること。理由は後述するが、ぼくは結局九十万まで、アルバイトで貯めることに成功したが、百万までは届かなかった。

 一つ、学費を全て自分で出すこと。心理大学までは自分で出し切ったが、実は塾代は三分の二、親に肩代わりして貰っていた。大学の後半では、アルバイト以外の別の収入源もあったのだが、その話はまた後ほど。

 そしてもう一つ、究極にして原点の目標。即ち、周りの「普通の人生」の子供が、学校に行っていたことを後悔させるような人間になること。


 ぼくにとって、学校に行かなかった事を責められたと言う事実は、激しい憎悪の対象になっていた。この憎悪の炎の故に、ぼくは大学を二つ出ることになり、この炎に心を焼き尽くされ、その炎はぼくの家族をも蝕んだ。それでもぼくは負けたくなかった。学校に行かなかったからこそ出来た能力、キャリア、経験、それらを社会的に認めさせる。有名にならなくてもいい。ただぽろりと話したぼくのキャリアを聞いて、学校という肥溜めの悪質さを感じ取ってもらえればそれで良かった。

 そうとも、ぼくは憎かった。恨んだ。嫌悪した。憎くて憎くて憎くて、そしてリョウを死なせた事をずっと心に抱えたまま、勉学に仕事にと只管打ち込んだ。リョウの死を否定するために。リョウの死が下らない理由だったことを証明するために。リョウが見るはずだった、「子供の精神病」が当たり前になる世界。そこにぼくは行くのだと硬く信じていた。


 医療エンタテインメント番組で、「子供のうつが増えている」という事が囁かれ始めた、まさにその時期、ぼくは突然、「痛い痛い痛い!」と勝手に口走るようになった。何かが取り憑かれたとしか言いようが無い、異様な状態だったが、ぼくはすぐにそれが精神的な治療が必要なモノだと気づいた。この頃になると、母は精神科の入院を経験していたので、ぼくが「精神科に行きたい」というと、すぐに連れて行ってくれた。

 元々ぼくは、小学校の不登校の時に神経症と診断されていたのだが、そこはリョウの死後、ぼくがオーバードーズ(過剰服薬。失敗による死亡又は後遺症が出やすい最も危険な自傷行為の一つ)をした為に、その病院から追い出されていた。野良だったぼくを拾ってくれたのは、隣町にある深井病院の、当時病棟主任だった医師だった。後々知ったが、この医師、この深井病院で大出世をしたのだが、それが日本の精神医学界にとって大きな財産に成っていた。ぼくから見れば、ただの人当たりの良い頭の神々しい中年なのだが。

 ぼくの偏見に満ちた精神科治療についても、この深井の医師は良く聞いてくれ、やれ薬は飲みたくないだの、飲んでも漢方が良いだの、高校もバイトも減らしたくないだの、何でもワガママは聞いてくれた。ぼくは深井の医師を深く信頼するようになった。それだけが、その後のぼくの闘病生活で大きな支えとなった。

 診断された病気は「解離性障害」。そう、リョウと同じ病だ。ここで心理大学の卒業生として、そしてこのエッセイの主目的に従い小難しい用語を並べても良いのだが、要するにこの病気は、身体の疲れを脳が感知出来ない病気だ。ぼくの場合は「運動障害」として、この時現れた。それ以降、疲れが極限を超えると、あっちでパタパタ、こっちでパタパタ、倒れるようになった。バイト先でもちょくちょく倒れて救急車が来た事も多い。これ以降、バイト先はぼくの体調を考慮して、そして健康だった時の信頼も伴ったのか、電話一本で休暇をくれるようになった。


 蛇足だが、後続の病人が出ないために、この時のスケジュールを公開しておこう。


 ぼくがこの時やっていた勉強は、塾、漢字検定、エホバの証人の偽装研究、カトリック教会での講座、通信制高校、自動車教習所の、六カ所だ。

はいそこ、明らかに真ん中二つがおかしいとかいうツッコミは止めてくれたまえ。ぼくにとって宗教とのふれあいというモノは、何にもまして至極の娯楽、快楽なのだ。


 午前中は眠って、昼から夕方にかけてアルバイト。それを週に五日。

残りの二日は、カトリック教会と高校で消える。

バイトの後に週に二度、塾で三時間の英語と数学の勉強をする。

週に一回エホバの証人の教義を学びに仕事の後は鞄を提げて信者の家に向かう。

漢字検定は友人の家にテキストを持ち込み、大体毎週の同じ時間に、友人のゲームプレイを見ながらテキストを埋める。

そして余った日にちに、教習所の座学を詰め込み、仮免を取った後は実技にも打ち込む。


 この時のぼくは、まさに寝るためだけに家に帰っていた。夕食を家で食べて、風呂に入る暇もなく眠る。今にして思えば、「風呂に入れない」という心理状態は、極度のうつ状態を表していたのだろう。

 ともかく、こんな訳で、ぼくはめでたく精神病患者になったのだった。この時ぼくは、十八才だった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る