二人目 ぼくとぼくのセックス

 さて、ここから先はかなり胸くそ悪い話であることを覚悟しておいてほしい。だが何、ぼくに言わせれば、そんな感想を持つ人間は、自明の理に目を背けたツケが、想像だにしない形で刃向かい、その傷口を見たくない、という何時も通りの老害跋扈の与太話に毒されているだけだから、この機会に抑も人間とは『お前さん方が知っているように』生まれるのだという事を認識すれば良かろう。

「綺麗は汚い、汚いは綺麗」。ああ、近代文学の神ウィリアム・シェイクスピアよ、ぼくは貴方の美しい英語の歌に感謝しなければならない。だがどうして貴方は、W・Hとダーク・レディの事をもっと広めて下さらなかったのだ! 

でなければ自称常識人で知識人のあいつらが、ぼくを苛むことなど無かったのに!


 ぼくの娘を、息子を、陵辱し辱め死体を蹂躙することもなかったというのに!


 始まりは、ぼくが中学生の時だった。そうとも、あの日、ぼくの精神は決定的な傷を負い、そこから修正がきかなくなってしまったのだ。ああ、待ってくれたまえ、その受話器を置いてくれ。大丈夫、ここから話す話に、「犯罪者は」誰も居ない。だから警察や性犯罪被害者のなんたらセンターとかは呼ばなくて宜しい。

 そう、「犯罪者は」いないのだ。

 話を戻そう。


 前提を確認しよう。まず、ぼくは冒頭で話したように、学校に行っていない小学校の時期というのがあった。ああ、小学生とは今明記したかな? もしかしたらあの出来事が中学生と勘違いされていたかも知れない。確かに、十才の子供がまっとうな育ち方をしていれば、いじめっ子に脅迫状をつくったりしないだろうし、飛び降りようと瓦屋根の上に上ったりしない。うん、つまりぼくは、思い詰められると爆発するタイプの子供だったのだ。六年生のクラス替えの時、両親は学校に直接行き、「殺人事件が起こるから、あのいじめっ子とは絶対にクラスを一緒にしないで、唯一の味方のあの子と一緒のクラスにしてくれ」と直談判し、それを実現させたくらいだ。

 で、だ。それから僅か二年後、中学校をぼくは行かなくなった。四月の中頃に入学し、六月の頭の臨海学校だかなんだかのイベントには行っていなかった上に休みがちだったから、本当に一ヶ月、行っていないのだ。それなのに、ぼくは不登校になった。

 ぼくのこの初期の頃の記憶は、その後の強烈な記憶によって塗りつぶされているので、定かではないが、ぼくは中学校を「なんだかおかしいところ」と、評価していたらしい。たしかに、インターネットで遊ぶためには、役場に行かなければならなかったようなあの時代、なぜかぼくは、入学したその日のうちに、全校生徒に顔と名前を覚えられていた。

 小太りのぼくは、その時から既に、中学校の先輩達から、性的な偏見を持たれていた。だが、その理由は知らない。誰それともうセックスしているとか婚約関係だとか、そんな噂が流れていた。誰それってだれだ? 確かにそいつをぼくは知っている。だって同じ小学校だったんだ。だがそれが何だ? あの中学校は、ぼくの母校の小学校と、その分校が一緒になる中学校だ。つまり中学校には、初めから「同じ小学校」「もう一つの小学校」の、二種類の子供しかいなかったのだ。ましてその誰それとやらとぼくは話したことすらないっていのうに!

 ぼくは怖かった。不気味だった。なぜって、ぼくはその時、セックスがどういうものか分からなかったのだ。

 疑問を持った聡明な人、少し考えてほしい。

 十才は小学校五年生だ。ぼくは学校に行っていなかった。僅かに行った日は、担任がカリキュラムを潰し、学年単位の虐めに立ち向かい、生徒達に反省を促した。つまり、その日、授業は成立していない。

 十一才は小学校六年だ。ぼくは学校に戻りつつもあったが、憎きいじめっ子のクラスとの共同授業が多かったこともあって、ろくすっぽ行かなかった。それでなくても、ぼくはリセットされた友達を取り戻そうとも思わなかった。

 で、十二才。つまりこの話で言うところの「今」である。


 さて問題である。ぼくはいつ「性交」の教育を受ける時間があったんだろうか?


 無論ぼくも、卵子と精子がくっつくことは知っていた。けれどどうして、男と女の身体にあるはずのそれが、女の身体の中で出会い、くっつくのかは知らなかった。つまりぼくの性知識は、性交まで行かなかったのだ。ぼくの性教育は、精通と月経で止まっていた。これがまず大前提だ。ぼくは恥ずかしいことという自覚すらなかった。ぼくはセックスを全く知らなかったからだ。

 だから堕胎は知っていても、堕ろし方は知らなかった。

 受精は知っていても、受精するためのセックスは知らなかった。

 知らないと言うことは恐怖だ。その恐怖は、「また虐められる」という確信となって、ぼくを中学校から遠ざけた。その切欠は、同級生が配膳の時、ぼくの手ずから受け取らず、こう言ったからだ。


「こっちのお盆の方が綺麗そうだから」。

 

 そんな一言で、ぼくは中学校を全く行かなくなった。ここまでは良くある話なので、説明不足の所は各々の厭世的な知識で補ってくれて構わない。


 こういうわけで引きこもったぼくの家に、インターネットがやってきた。確か父が職場から貰ってきたんだっけか? ぼくは親戚にパソコンを会社で使っている人が居て、彼女にあこがれていたので、すぐに夢中になった。と言っても安心してほしい。ぼくが夢中になったのは、インターネットではなくパソコン、それもタイピングだ。なぜかって、叔母の働く姿にあこがれるぼくが見ているのは、「画面を見つめながら指を動かす姿」、つまりブラインドタッチだったからだ。ぼくは夢中でタイピングで遊んだ。それまでのワープロのおもちゃとは比べものにならない、大量の情報とソフトを使って、沢山の戯作を書いた。

 ひとりぼっちのぼくを慰めてくれるのは、いつだって、自分の描く小説に出てくるキャラクターだった。ぼくのことを皆まで言わずとも理解してくれる最高の友達であり、最大の恋人であり、何より彼らは、ぼくが指先を踊らせなければ「生きて」いけない、可愛い可愛い「我が子」だった。我が子が悲劇の中で苦しむときは、どうすればその苦しみが最大限花開くか、何度も何度も書き直した。死に様を鮮やかに演出するには如何したら良いか、何度も何度も殺し直した。苦しむ我が子を見て、悲しいなんて思わない。我が子の中には、ぼくが遂げられなかった復讐を遂げる子がいて、そしてその復讐によって惨めに死んでいく「あいつ」を踏襲した子がいた。でもぼくは、ぼくの脳内から決して出産されることのない彼らに命を見いだし、愛していた。ぼくの子供達は、あらゆる虐殺を行った。

 けれど、決してぼくは性のシーンは描かなかった。当たり前だ。「知らない」のだから。

 女は死にゆく男の、末期の口づけで孕み、大体三ヶ月で出産した。それくらい、ぼくは性について無知だった。生理現象の知識があったって使わない。だってぼくにとってそれは、トイレに行くという点において、排尿や排便と同じような価値だったのだ。


 そんなぼくが、セックスについて知ったのは、なんと吃驚、男女のセックスではなかった。男同士のセックスだった。これについては少し説明が要る。

 時代は二十一世紀に入ったばかりの平成中期。インターネットによって、二次創作が爆発的に広まった。そしてこの頃、ぼくとは違って正常な進路を進んだ先人達は、萌えの赴くままに、カップリングと言われる男キャラクター同士の恋愛を描いた。これらを「ヤマ無し、オチ無し、イミ無し」といって、「やおい」と呼んでいた。同時進行すると混乱するので後述するが、この世界にぼくを引き込んだ友達が居た。ちなみに、この時ぼくと友達は十三才だった。

 ぼくはめくるめく官能の世界にすぐに夢中になった。十八になるまでなんて待ってられない。今すぐ見たい、すぐに読みたい。ああ、また知らない単語が出てきた。これはなんていうイミなんだろう。何を表現しているんだろう。なんて面白いんだ!

 白濁ってなに? 「勃つ」ってなんて読むの? 「ぼつ」って読むの? 濡れるって何? 「ぼ」ったちんこってどうなるの? それをどこにいれるの? ぼくの身体にはそれらしい穴はないけど、本当はどこかにあるのかな。ザーメンって何? おしっこじゃないの? フェラチオって何? シックスナインって何? バックって何? 性感帯ってどこ? それはぼくにもあるの? オナニーってなんでするの? 同じ事をやってみてもぼくはなんともなかったよ。スカトロって何? 磯臭いって何で? イカ臭いって何で? カウパーって何? カピカピってどうして? イクって何? ゴムって何のこと? バイアグラって何? 媚薬って何? 中だしって何? 何? 何? それは何て意味? ………。

 爆発した好奇心は、ぼくから一切の倫理観を奪った。ぼくは知りたくて知りたくて、インターネットで読みあさった。でも不思議なことに、ぼくはそれらを表現した絵は見なかったのだ。ぼくにだって、羞恥心くらいある。文章ならパッと覗かれても分からない。でもイラストは見たら分かってしまうのだ。だから見なかった。


 ここで頭が痛くなった人の為に、ぼくの方から要点を言っておこう。


 つまり、ぼくはセックスについての知識は男性同士の、しかも間違った知識に基づく「やおい」から入った。だから尚のこと、「男女の」セックスについては何も知らなかった。男同士のセックスだから、妊娠描写は…いや、あったのだが、基本的に存在しない。だからぼくは、ここまで来ても尚、セックスと子作りがリンクしなかったのだ。本当に、不思議なことに。…いや、男性が子供を産むというファンタジーもあったし、女体化や両性具有なんていう特殊な設定も読んでいたので、全く女性の体について無知だったわけでもないのだが。

 つまり、ぼくにとってセックスとは、「男性同士が行う愛情表現」であって、決して子供を授かる為のものでは無かったのだ。


 そんな間違った性知識を付けていたぼくの「セックス観」に、「女性」が入ってきたのは、やはりインターネットだった。ただ、これはぼくの意思によるものじゃない。要するに海外のSM画像のウィルスに感染したのだ。ぼくは無修正の性器が露出し、SMプレイに興じる男女の外国人に、非常に大きなショックを受けた。本当に食欲がなくなったくらいだ。


 それまで「やおい」はただの娯楽だった。男のキャラクターが裸になり、どこだか分からない穴に、変化するらしい性器を突っ込んで、意味の無い母音の羅列で出来た台詞を読んで、その異様な雰囲気を楽しむものだった。だがぼくは知ってしまったのだ。寧ろその方が「不自然」であり、そのような行為は「男女」で行うものだ、ということ。

 そして、男が女性の膣の中で精液を吐き出すことの重大さ。ぼくは震え上がった。

 ぼくは男女のセックスが悍ましかった。ぼくにとっては、そちらの方が限りなく不自然だったし、男女の愛なんてものは一等下劣で理性がなくて、男同士や女同士のセックスほど尊く愛に満ち、感情のこもった行いを知らなかったのだ。


 なぜかって、そりゃ単にぼくの経験則だ。


 ぼくは幼いながらに、人生の大半を(つまり幼少期の話だが)過ごした幼なじみに恋をした。意味も分からず、将来結婚したいね、と言ったりもしたし、幼なじみの親が、将来義理の両親になるのだと、昼ドラの知識を使って理解していた。そうそう、初めてのバレンタインデーのお返しも、この子だった。だがこの子は、十才の時、我が身かわいさにぼくを捨て、いじめっ子に与した。ぼくを裏切ったのだ。(物凄くどうでも良いが、この十年後、成人式でこの子にそれとなく尋ねてみた。この子は抑も小学校五年生の時に虐めがあったという事すら忘れていた)。

 ぼくは自分につきまとう性の噂が嫌で、中学校に行かなくなった。だからぼくは、男女のセックスというものはキテレツで下劣で人を馬鹿にするものだと思っていた。

 そして何より、ぼくの一番の友人が、同性愛者だったのだ。仮に名前をリョウとしよう。


 さて、実はぼくのセックスの話はまだ続くのだが、ここで一度区切り、リョウの話をしよう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る