デボラの世界

 デボラ。

 二十年前、日本の富士山より現れた超巨大生命体。自衛隊の攻撃をものともせず、米軍さえも蹂躙し、日米同盟をも打ち破り……ついには核の炎をも受け止めた。

 十年の間に数多の国を衰退させ、世界そのものの在り方すら変えようとしていた。変わりゆく環境に、人類もいよいよ覚悟を決め、資源と人材を惜しみなく投じ、最強の兵器を作り上げ……善戦はしたもののあえなく粉砕された。

 そして二十年が経った今、人類最後の希望の地を廃墟へと変えた。

 かつて宇宙にも飛び出し、無数の生物種を自らの欲望で滅ぼし、星の環境すら変える力を持った、七十億体もの知性体である人類。その人類をたった二十年で絶滅寸前まで追い詰めた元凶デボラ。

 そのデボラの死骸が、及川蘭子が見つめる先……数十キロ彼方に転がっていた。

「いやー、見事なもんねぇ。傷だらけとはいえ世界で唯一の死骸。是非とも標本にしたいわ」

「いやいや無理ですよ、あんな大きな生物を標本にするなんて。というか何処に置くんですか」

 思うがままに発言したところ、傍に居る助手のアランに蘭子はツッコミを入れられた。

 デボラの亡骸は、瓦礫の積み上がった……元住宅地の上でうつ伏せの体勢で存在している。

 甲殻は傷だらけの上に体液塗れ。腕は一本取れたまま。そして闘志で燃え上がっていた複眼は白く濁り、もうなんの生気も感じさせない。

 ほんの一時間ほど前まで、超大型デボラに選ばれたデボラ……二十年前から地上に存在すると推測される個体は、超大型デボラの腹に己の尾の先を元気に潜り込ませていた。恐らくはそれがデボラの交尾行動なのだろう。交尾自体はほんの数分で終わった。

 そして一仕事終えたデボラは、まるで一息吐くようにその場で蹲る。

 蹲って……そのまま死んでしまったのだ。

「しかし……なんか、その、交尾を終えた後すぐに死んだように見えましたけど」

 アランは戸惑いながら、自分が見た光景をそう解釈する。その解釈に蘭子は反対などしない。蘭子自身、そう見えたからだ。

「そうね。恐らくある種のハチやアリとかと同じで、生涯に一度しか交尾が出来ないタイプの種なんでしょ。交尾を終えた雄個体は、種としては用済みだからさくっと死んでもらうと。実に合理的な生態ね」

「男としては悲しくなるのですが」

「雌だって多分一度の産卵で死ぬわよ。七万年規模のライフサイクルなんだから、古い世代が何時までも残っていたら世代更新が上手くいかないだろうし」

 淡々と語りながら、蘭子はちらりと視線をデボラの亡骸から逸らす。

 見つめる先にあるのは海。

 そして海に足を踏み入れる超大型デボラこと、雌個体の姿だ。

 遺伝子解析の結果が正しければ、デボラが現生のエビ類の祖先と分岐したのは約五億六千万年前。当時はまだ植物すら上陸していない時期であり、よってデボラの祖先は海中の、熱水噴出口付近で暮らしていたものと思われる。

 その祖先の形質が今も残っているのだろう。デボラの産卵は灼熱のマグマ内ではなく、海中で行うのだ。陸生のカニ類であっても、大半の種では産卵と初期発育を海で行うように。

 出来れば卵からデボラが産まれる瞬間も見てみたい。産み落とす卵の大きさや数を知り、デボラの生存戦略をもっと詳しく知りたい。しかし衰退しきった今の人類には叶わぬ夢である。

「……あの、博士。もしも、もしもの話なのですが」

 夢を諦めた蘭子に、アランが話し掛けてくる。蘭子は顔を上げ、笑顔でアランと向き合った。

「ん? なぁに?」

「例えばですよ、今の人類に大量の兵器を運用する力があったとして……デボラの産卵地を爆破するなりして、デボラの卵を粉砕したなら、デボラを絶滅に追い込めるのでしょうか?」

「どうかしら。デボラが卵を生むとして、その卵は一ヶ所に纏めて生むものなのか、それとも海流に乗って拡散するものなのか。もしかすると卵胎生で、大きく育った子を産み落とすのかも知れない。次世代の残し方次第としか、言いようがないわねぇ」

「無脊椎動物が卵胎生なんてあり得るのですか?」

「勿論。例えばツェツェバエっていうハエがそうね。というかあなたアフリカ育ちなのにツェツェバエ知らないの?」

「ボク、これでも都会っ子なんで虫とかはあまり……」

「都会っ子ねぇ……」

 今時都市なんて何処にも残ってないでしょうが、というツッコミを蘭子は静かに飲み込む。確かにこのご時世に学者になろうと思う辺り、中々育ちは良いのかも知れない。あまり人に興味がない蘭子は、今になって助手の出自が少し気になった。尤も、追求するほどではないが。

「まぁ、仮に根絶が可能だとしても、やらない方が得策でしょうね」

「……得策、ですか」

「幼体がどの程度の大きさまで海で暮らすかは分からないけど、生育の大半はマグマの中の筈。つまりマグマ内にある炭素や窒素を取り込みながら成長し、大きくなったら地上に戻る……地殻と地上間の物質循環を担ってる可能性があるわ。デボラを絶滅させた場合、長期的に見れば全ての元素が地殻に沈んで地上が荒廃、なんて事もあるかもね」

「……そう、ですか」

「不服?」

 蘭子が聞けば、アランは押し黙る。が、やがてゆっくりと頷いた。

「なんか、悔しいじゃないですか。デボラはボク達人間をこんな……絶滅寸前まで追い込んで、地球環境を滅茶苦茶にして、なのに全然お構いなしに生きていて……不公平な感じがします」

「不公平、ねぇ」

 そういう意見もあるのかと、蘭子はアランの意見に少なからず『感銘』を受ける。

 確かに人間は今や絶滅寸前。僅かな生き残りもデボラ教徒がこの国へと集め、そしてデボラ同士の闘いにより大勢死んだ。もしかすると、もう本当にあと数十~数百万人ぐらいしか生き残っていないかも知れない。

 加えてこの破滅は、今回が初めてではないと思われる。

 前回デボラが現れたと思われる七万年前……その時人類には未曾有の災厄が襲い掛かっていたと考えられている。何故なら人類の遺伝的多様性が急激に減少、即ち人口が急激に減った痕跡があるのだ。一説では総人口が一万人を下回ったともいわれている。

 その原因の一つと挙げられているのが、インドネシアに存在するトバ火山の噴火だ。この噴火による気候変動が人類の数を減らした要因だというのだ。これを『トバ・カタストロフ理論』と呼ぶ。

 もしも七万年前デボラ出現により、大噴火が起きたとすれば? デボラの上陸に伴う津波などの被害が、アフリカ沿岸地域の集落を襲ったなら? 今日のような決戦が、七万年前のアフリカ大陸でも起きていたなら?

 人類の数が一万人以下になっても、なんらおかしな話ではない。

 むしろ古代人はよくその程度の被害で済んだというべきか。現代人はたったの二十年で、人口を推定九十九パーセント以上失ったというのに。それとも下手に力を持ち、抗おうとした結果か。

 まだたった一匹しかデボラが現れていなかったのに。

「それに、あの……多分ですけど……デボラ、まだ現れますよね?」

「現れるわね。間違いなく」

 アランの漏らした不安を、蘭子はあっさりと肯定した。

 地殻のエネルギー量でどれだけのデボラが養えるかは不明だ。しかしたった三体で種が存続出来るとは思えないし、『地熱』という莫大なエネルギーを手にした彼等が少数しか生存出来ないとは考えられない。蘭子の予想では最低でも二十、多ければ千体ほどのデボラが、今後数十年間に出現するだろう。

 そのデボラ達も、雌に自らの強さをアピールするために戦う筈だ。それも世界の至る所で。アフリカ以外に人類の生存可能領域が残っていても、その地もまたこの国のように踏み潰されるかも知れない。気候も更に変化するだろう。

 アランが言うように、人類絶滅という危機感は決して大袈裟なものではない。

 だけど。

「それでも、私は人間が滅びそうだとは思わないけどね」

 蘭子はその危機感を、あっけらかんと否定した。

「……え?」

「デボラは常に火山から出現し、その際に大規模な噴火を引き起こしている。火山から出て来るのは、出易いところを探した結果でしょうね。雌はそれを無視して岩盤ぶち抜いていたけど……ともあれ、その結果引き起こされる噴火は、一時的には噴煙が太陽光を遮断して気温低下を招くわ。でも同時に大量の二酸化炭素を放出するから、長期的には温室効果をもたらす。実際恐竜時代で有名なジュラ紀は、三畳紀から続く火山活動の影響により二酸化炭素濃度が高く、その結果平均気温がかなり高かったとされているわ。あと二酸化炭素濃度の上昇は植物の生長を促進するから、農業的にもプラスね」

「つまり、デボラが出現するほど長期的には気温が上昇して、農作物の生産量が増えるのですか?」

「可能性の話だけどね。でもそう思ったら、絶望ばかりじゃない気もしてこない?」

 蘭子が問うと、アランはやや間を開けてから頷く。理解はした、が、納得はしていないのだろう。

 それも仕方ない。蘭子が語ったのはあくまで可能性であり、確証なんてない……ある種の願望だ。そして蘭子にはアランが納得出来るような『証拠』は持ち合わせていない。

「ほら、アレを見てみれば少しはそんな気がしてこない?」

 出来るのは、目に見える『可能性』を提示する事だけ。

 蘭子が振り返った先には、三つの人影があった。男一人と女が二人の三人組……いや、女の一人は赤子を抱いているので、正確には四人組だ。

「だぁーかぁーらぁー! 俺はお前が眼鏡なしじゃろくに見えないド近眼なんて知らなかったんだっつーの!」

「嘘吐きなさい! ほんとは私の赤ちゃん奪って、売り払うつもりだったんでしょ! 許さないから!」

「大体テメェがデボラの方に向かっていくのが悪いんだろうが!」

「見えなかったんだからしょうがないでしょ! 吹き飛ばされた所為か、耳がキンキンしてて音の方角も分からなかったし!」

 そして男の一人と女の一人は激しく言い争っていた。残る女は、巻き込まれたくないのかそっぽを向いて二人から距離を取っている。

 三人が歩いてきたのは、デボラの亡骸が横たわる、神聖デボラ教国の残骸方向。デボラ達によって散々破壊された市街地を踏み越えながら、何時までも口喧嘩を続けていた。

 神聖デボラ教国の跡地から来たという事は、彼等はデボラ達の争いを目の当たりにしていた筈。生き延びた数少ない人類同士だというのに、こんな時でも人は仲間割れを止めない。

 真っ当な人間ならば、きっとこの光景に失望するのだろう。団結出来ない人間はこのまま滅びの道を歩むのだと。

「……こんな時にケンカとか……」

 アランは正にそんな考えのようで、げんなりしている。

 しかし蘭子は逆だ。

 どんな時でも、どんな逆境でも、人は人のままだ。ならばきっと、この性質は古代から変わらぬものなのだろう。

 古代人達はデボラの脅威から生き延びた。ならばその直系の子孫である自分達が、何時までも変わらなかった自分達が生き延びられない理由はない。きっと人はデボラ達により変貌した世界に適応し、また立ち上がる筈だ。

 それこそ今この瞬間にも。

「ちょっと李さん! 国は何処なのよ!?」

「い、いや……な、なんでこんな……瓦礫の山に? というかあそこに死んでるのデボラじゃ……」

「一週間歩き通しで、もう食べ物は残ってないのですが……」

 のこのことこの場にやってきた老人と中年の三人組。年配者である彼等の知識は、きっとこれからの発展に役立つだろう。

「っだぁ! 間に合わなかったぁ! 運良く神聖デボラ教国の船に見付けてもらって、跳び乗って来たのに!」

「はっはっはっ。いやぁ、本当に何があったんだろうねこれは!」

 押っ取り刀で駆け付けた科学者二人。彼等の持つ専門的知識と技術は、年配者の語る理想を形にするだろう。

「とーちゃーん! とーちゃーん!」

「おい! 待て! ほんと待て! お前なんでそんなに体力が有り余ってるんだよ!? さっきまでぶっ倒れていたじゃないか!」

 仲良く国の残骸からやってきた二人の若者。体力と判断力に優れた彼等は、科学者が理想を形にするための物資を運び、生み出されたものを使いこなすであろう。

 そして、

「た、た、助けてくれ! うちの妻が産気付いた! 誰か詳しい人は居ないかぁ!?」

 彼等の作り上げたものを継承する、新たな命がこの瞬間にも生まれている。

 人は何度でもやり直せる。例え恐ろしい怪物に何度踏み潰されても、何度でも立ち上がれる。

 きっと七万年後、自分達の子孫は立派な文明を再建しているに違いない。

 人の逞しさに感動した蘭子は、自分に出来る事がしたくなった。そう、例えば……

「……レリーフの一つぐらいは残せるかしら」

「レリーフ?」

「ええ。石が良いわね、長持ちするから。そこに刻むの」

「えっと、何をですか?」

 首を傾げるアラン。そのアランに蘭子は微笑みながら答える。

 人はこの星の支配者を自称してきた。

 何故か? それは人がこの星の環境すらもある程度自由にコントロールし、その気になれば数多の生物種を滅ぼせるからだ。

 されど科学が進み、その考えが誤りと知る。コントロールしているつもりだった環境は激しさを増していき、ある種の生物の絶滅はある種の生物を制御不能なまでに増殖させる。人間はこれっぽっちもこの星を支配出来ておらず、この星の環境に身を委ねるしかない存在だった。

 だが、デボラは違う。

 デボラに人ほどの知性はない。恐らく愛情などもなくて、本能のまま生きている。

 だけど誰もがデボラには逆らえない。地上が凍り付こうとも、文明が消え去ろうとも、地上生命が根絶やしになろうとも……デボラには関係ない。

 その身一つで星の環境を意のままに変え、

 気紛れに数多の命を踏みにじり、

 されど頂点は決して揺るがず。

 デボラという種は脈々と命を繋ぎ、星が終わる時まで生き続ける。

 だからレリーフにはこう刻もう。



















 生き延び、再び地に満ちた子孫達よ。


 自然を支配したと思い込んだならば、己の足下に目を向けなさい。


 そこには我等の知らぬモノがいる。


 そこには我等の手に負えぬモノがいる。


 我等が繁栄は、彼等が微睡んでいる間の夢である事を知れ。


 我等の玉座は、彼等によって簡単に踏み潰されると弁えよ。


 この世界は人のものではない。

























 此処は、デボラの世界である。



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甲殻大怪獣デボラ 彼岸花 @Star_SIX_778

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