僅かな反撃 前編

「隊列が乱れてきてますね」


 アッサームが上からムランたちを見下ろして呟く。


「どうやら我が主は無事に退避出来たようですね、お待たせしました……さあ、あの哀れな民達を蹴散らして無事に逃走してください」


「言われるまでも無いわ、全軍突撃用意!」


 グラムの下知にすでに坂の頂上で待機していた兵士達が馬の手綱を握る。


 そして采配が振り下ろされた。


 今度は坂の下で猪口才な邪魔をしてくれた奴らもいない。


 陣形が崩れて四分五裂していてなおかつろくな訓練も受けていない民達など最初の一陣で突き崩せる。 


 やがて坂を降りきった最初の兵士がまるで槍の穂先のようにムランたちの最後部に遅いかかろうとする。


 最後尾にいる兵士達は敵の接近に恐れをなして逃げていき、まるで絹糸が切り裂かれるように中央から切り裂かれていく。 


「よし!続いて第二陣突撃せよ!」


 グラムが再度命令を下してニ陣を突撃させる。 


凶暴な咆哮を上げて坂を下りて突撃する兵士達を冷めた目で見つめる。


 そうだ……このまま無慈悲に奴らを殺戮せよ、流血の興奮が兵士達をさらに強くする。


 そして連中の本隊が来る前にわしはここから脱出して再起を得るのだ。


 自分が居なくなり本隊が来れば部下達は皆殺しになるだろう。


 だがそれがどうしたというのだ?


 自分の身が可愛いのは誰も同じ……なんら恥じることなどないわ。 


 ほくそえむグラムの顔をアッサムがじっと見つめている。


 その目には何の感情も写さずただ黙っている。


「間髪居れずに三陣突撃せ……」


 そうしたところでグラムの腕が止まる。 


「どういうことだ!」


 そして目を見開いて叫ぶ。


 そばにいた護衛の兵士が何事かと見下ろすと。


 坂の下……その向こう側に殺到している自軍の兵士達。


その前にはまるで削られたように中央部が空いた敵兵の陣が、そして自分の兵達はその前で止まっている。  


 まるで見えない壁があるかのようにある位置から先へと進めないでいるようだ。








 時刻は少し戻る。


 グラム隊の一陣で最前線を走っていたのはグラム隊の中でも勇猛で、常に突撃の時は先頭に立ち、何人もの敵を屠り、手傷を負ったことが無いという男だった。


 まさに隊の中での英雄と呼べる存在だった。


 それは彼も自負しているところで、その気になれば自分の上であるグラムでさえかなわないと密かに自惚れていた。 


 そしてそれは今日も変わらずに彼は自分から無様に逃げていく哀れな兵士達を優越に満ちた顔で見下ろしていた。


 このまま先頭まで切り裂いたところで反転して派手に蹴散らしてやろうか……。


 そんな考えが頭をよぎったところでふと自分の目の前に少女が立っているのが見えた。


 目立つ赤い髪、体型に不釣合いな大剣、そして生意気にも逃げないで立ちはだかろうとするその姿に彼は自身の獲物である槍を握りなおした。


 まずはこの生意気なガキを突き殺してやろうとするか……そうすれば士気がさらに下がってより簡単になるってもんだ。


 槍を強く握り、すれ違いざまに渾身の力を込めて突き出す。


 瞬間視界に赤い血が広がった。


 思ったよりも手応えが無かったな。やはりガキだとこんなものか……さてこのまま先頭まで走……抜け……てや……る。


 彼の意識はここで終わる。


 きっとうつつの中で先頭まで駆け抜けたことだろう。


 しかし現実では彼は胴体を真っ二つに切られ、上半身を地面に残したまま下半身はそのまま馬に乗って走り去っていった。


 先頭の英雄があっけなく戦死したことに戸惑った兵士達が慌てて馬を止めようとするが、少女は信じられないような速度で近づいて彼らを切り伏せていく。


 ある者は馬ごと首を飛ばされ、ある物は剣の腹で頭蓋骨を砕かれそのままダラリと倒れて馬に引きずられていくもの。


またある者は馬ごと串刺しにされてその場で打ち捨てられる者、その他数人の兵士が惨たらしい死に様で殺されていった。


 現実の戦場をいくつも体験してきた兵士達がわずか数十秒で何人も殺された。


  しかも凄惨な死に方で……。


「あ、悪魔だ!」


「ああ神よ!」


「や、やはり王国に反逆したので神が地獄の使者を送り込んだんだ!」


 口々に兵士達が叫ぶ。 


返り血を浴び、無表情で死体達の前に立つ少女は確かに悪魔か悪鬼にすら思えた。


 少女は無表情のまま顔を強張らせて一歩進む。 


 ビクリとグラム兵達が馬を反転させて退却しようとするが、彼らの後ろから大きな鉄刃が無慈悲に振り落とされる……。


 その凶行に後からやってきた兵士達は怯え、遠巻きに囲むだけだった。


 そして無慈悲な殺戮の後ろではムランが必死で叫んでいる。


「みんな落ち着け!落ち着くんだ!」


 進撃をイヨンが止めているとはいえ、敵がすぐそばに来ているのに落ち着けるはずが無い。


ムランの声だけが空しく悲鳴と怒声にかき消される。


「お前らいい加減にしろ!」


 ムランを押しのけて逃げようとした中年の兵士を槍の穂先で引っ掛け、空に投げ捨ててスアピが叫ぶ。


 その剣幕に逃げ回っていた兵士達が固まったように立ち止まる。


「逃げ回ってどうする?こんな山の中で逃げたところであいつらに見つかって殺されるか獣達に食われておしまいだろうが!」


 スアピの怒声が響き渡る。 しかし反応は無い。


 おずおずとやや若い兵士が手を上げて口を開く。


「だ、だったら……どうすればいいってんだよ!」


「戦いましょう、このまま何もしないなら自分達は訓練用のわら人形と同じようにされるだけです」


 ムランが一歩進み出て答える。


「無茶を言うな!俺達はまともに訓練すらつんでいないんだぞ……そんなこと……出来るはず……無い」


 悲鳴のような反論が後ろのほうから出る。 


「それならこのまま後ろからあいつらに殺されるますか?それとも仲良く獣の腹の中に入って一生を終わらせる?貴方達の最後はそんな惨めに終わるのですか?家族は?子供は?みなさん多少は名誉と国の為に働くという誇りを持ってこの場にきたのではないのですか?」


 …………。


 皆黙り込んでいる。


 確かにしがない民でしかない自分達が国の危機に立ち向かうという名誉は彼らの心中に内包されていた。


 そしてそれに立ち向かい見事撃破するという誇りはしがない自分達でも国の為に何か出来るという希望を持てた。


 しかし……それでも……。


 名誉も誇りも命の前では薄紙のように脆い。 普通に生きていれば他人に殺されることなんて無い。 


 こんな名も知らない山の中で野垂れ死ぬこともましてや獣に引き裂かれ食われて排泄物になることも無い。 


 当然だ……。 しかも相手はプロの戦場兵士、万に一つも勝てるはずが無い。


どうやらこの置いてけぼりにされた副官の部下が後方で敵の足止めをしているらしい……もしかしたら逃げられるかも?


でも……しかし……。


 彼らは真剣にムランの話を聞いている。 


無謀以外の何者でもない戦おうという命令……。


 そんな与太話を聞いている暇があるなら少しでも遠くへ逃げないと思っているのに足は動かない。 


恐怖だけじゃない……何か別のものが彼らの逃走を防いでいた。  


 しかしまだ足りない……ムランの言葉は逃走を止めているはいるが、やはり足りないのだ。


 彼一人の言葉だけでは兵士達が恐怖を克服することは出来ない……しかしスアピでは上手く彼らを鼓舞することが出来ない。


 口下手のイヨンでは彼らの前で演説をかますことも不可能である。


 第一彼らの心を動かすためには同じ立場の人間の言葉が必要だ。


 だからお願いです神よ……どうか誰か……誰でもいい……ここで一人が戦おうと言ってくれれば…………。


「戦いましょう!」


 念願の言葉が不意に聞こえた。 言葉を発したのはあの少年兵だった。 


 前にいる大人の兵士達を書き分けて彼はムラン達の前に立ち、カタカタと震えるのをニコリと笑い誤魔化して……後ろを振り返る。


「戦いましょうよ、少なくとも戦えば生き残る可能性はわずかにあるんですからねそれに……」


 少年がムランの手をとって高く上げる。


「副官であるムラン様にあの門番をやっつけたイヨン様もスアピ様もいるんですから……そうですよね?」


 屈託無く笑う少年にムランも笑い返し、宣言する。


「勿論です!皆さんが自分の言う通り動いてくれるならば無事に帰れることを保障します」


「それに最前線には俺達が出るから、あんた達にはそのサポートしてもらうだけでいいんだぜ」


 その言葉を聞いて兵士達の顔に安堵が浮かぶ。


 とりあえずは戦う気にはなってくれたようだ。 


ムランとスアピも顔を見合わせてホッとする。


 これで戦うための準備が始められる。 


ムランは敵が陣取っている坂の上を見た。


 幸いまだ総攻撃は始まっていないようだ。 


「イヨンの方は大丈夫だろうか」


 どうか無事にいてくれ……身体も心も……





「ブギャシャァァ!」


 豚のような悲鳴を上げて一人の兵士が地面に倒れた。


 地面に赤黒い血が広がり、彼の頭から流れ出てたピンク色の物質がそれに彩りを与える。 


「や、やっぱり化け物だ……」


 別の兵士が顔を青くして呟く。 


鮮血をすすったような赤い髪をした少女の姿をした化け物の前にはすでに死体の山が転がっている。


「アデル……クラン……モンテル……」


 名前を呼ばれた彼らはすでに泥と土に汚れた『物質』となって少女の足元に転がっている。


 皆、隊の中でも豪傑として勇名を馳せていた者達だった……。


「う、うおおおお!仲間の仇!」


 頭に血が上った者達が三人また少女に突っ込んでいったが、彼らもまたあっさりと物質に成り果てていった。 


「矢……、矢だ!矢で射殺せ!」


 隊員の一人が叫ぶと、皆思い出したように弓を構え矢を番う。 


「う、射て、射ち果たせ!


 弦が引き絞られ、無数の矢雨が少女の周囲に降り注がれるその直前。


少女が大剣の先で一つの死体を引っ掛けて弓隊の方へ放り投げた。


 まだ流し尽くされていなかった血が……内臓が兵士達の真上に乱暴にばら撒かれる。


「う、うひゃああ!血が……血が……ブグワッ!」


 急に死体を投げられ、その血が目に入ったり内臓が身体に巻きついたのに動揺して矢があらぬ方向に飛んでいく。


その中の一部が『死の雨』となってグラム隊に降り注ぐ。 


「お、落ち着け!一旦下がっ……」


「どうした!血が入って何も見えない!誰か何か言ってくれ!頼む!お願……だか……ら……ガハッ!」


 またさらに数人の兵士が化け物の獲物にかかって死体になっていった。


「も、もう嫌だ!ば、化け物の相手なんてせ、専門外だ!」


 怯えた一人が逃げ出すと、つられて何人かの兵士たちも逃げ出す……が、しかし


「怯むな……この馬鹿者達が……」


 一際大きな体格をした中年の男が彼らの前に立ちはだかる。 


「ふ、副長……しかし……あいつは……」


 言い訳をしようとする兵士の顔を副長と呼ばれた男が平手で張る。


「化け物……だとしてそれがどうした?同じ空気を吸い、大地に立っている。だとしたら倒せない存在ではあるまい……どれ、一つこのカンバルが証明してやろう」


 カンバルと名乗った男が自身の獲物を地面に叩き付けて構える。 


獲物はイヨンの剣以上に長い金棒で円柱型の面に突起物がついた巨大なものだった。


「ふむ……手並みを拝見したが、ただ力が強くてすばやいだけよ……何よりまだ小娘よのう」


 挑発と判断したのかイヨンの眉がピクリと上がる。


 剣を握る手が力強く握られる。


「ほっほ!可愛い小鳥ちゃんがピヨピヨと威嚇しておるわ……自分の足元も見ないでな」


 とっさにイヨンが足元を見る。


その隙を見逃さずにカンバルが超大な獲物を小枝を振るうように軽々と振り払う。


 手応え無しか……。 


 イヨンはまるで空を舞う木の葉のようにひらりとそれを避わし、また地面に着地し睨みつける。


「ほうほう避けおったか……勘も悪くない……顔も赤くなってきておるわ」


 言葉どおりイヨンの腕はわずかに震えている。 


よく見ると腕だけではなく、足も震えており、表情も蒼白になってガチガチと歯をならしている。


「緊張感が切れたか……ここまで良く持ったものよ」


 歳相応の娘のように震えているイヨンにカンバルが獲物を突きつけて不敵に笑う。


「い、一体……どういうことなのですか?」


「ど、どこか、攻撃が……当たった……のか?」


 カンバルの後ろに居る兵士達は口々に疑問を呟き合っている。 


仲間を屠り、まるで悪魔のようだった少女がまるで別人になったような姿は彼らの理解の範疇を超えていたのだ。


「どんなに腕を鍛え、剣筋を研ぎ澄まそうとも命を奪うことはそう慣れるものではない、いくつもの戦場を体験し、相手の脈動を感じ、自分自身の何かを切り捨て続けなければ得られない境地がある。どうやらそこに至るまでにはまだ達していないようだな」


 兵士達は納得した。


 自分達も新兵で入り、初の戦場を経験したときにあれほど覚悟を決め、鍛えてきた四肢はまるで動かず、まるで自身たちが教練で使っていた木人形のようにその場に立ち尽くしていた。


 早く動かなければと焦っても足はまるで根がはっているかのようで、華々しく初陣を飾る姿を想像してきた彼らにとって始めての絶望と羞恥の体験だった。


 だがそれにしても……。


 幾つかの死線を越え、木人形から歴戦の勇士となった者達の心を折ったあの悪魔がろくに人を殺すどころか戦場の体験すら薄い少女だったとは……。


「戦場を知らぬ無知ゆえの無類の強さ……だがお前は知ってしまった。吐き気を催す内臓の臭い、泥よりも足を捕らえる血の混じった土の感触、敵とはいえ人の命を奪ったその重みを……それらはお前の腕を足を徐々に重くしていき、足元に転がる戦士達が白濁した瞳でお前を見つめ心を乱すだろう……そしてお前は戦士達と同じように地面に転がる……このカンバルによってな」


 カンバルが手に持っている金棒をその体躯とは対照的な洗練された動きで突き出してくる。


 金棒は真っ直ぐに捕食動物のようにイヨンに迫ってくる。 


「あ……ああ……」


 迫り来る攻撃をイヨンは呆然と受け、次の瞬間にはまるで小石のように飛ばされ地面の上を滑っていく。


「やった!悪鬼を倒したぞ!」


 早合点した一人が快哉を叫ぶが、カンバルが手を上げてそれを制止する。


 まだ死体を確認したわけではないのだ。 


少し顔を赤くする兵士を回りに居た兵士達が笑う。


 よいぞ……落ち着きを戻してきておる。 


 カンバルは浮き足立ってきていた兵士達が落ち着きを取り戻してきたことを確認して安堵する。 


 総力戦や圧倒的な戦力差がある場合なら士気を上げるために出ざるを得ないことはままあるが、今回の状況は違う。


 本隊に見捨てられた兵士……いや正確には兵士ですらない戦場にたったことも無い烏合の衆、カンバルどころか最初の一隊の突撃だけで蹴散らせる戦闘ですらない戦闘だった。


 第一陣が攻めあぐねているのを見て何事かとやってきたカンバルが見たのは自身が練り上げてどこに出しても恥ずかしくない勇士たちの無残に転がる死体と恐怖に慄く姿だった。


 そしてその惨状を作り出していたのはまだ少女だったこともカンバルの衝撃をさらに深いものにした。


 祖国から受けた反乱軍の汚辱……地に落とされたと思われた名誉に神はまだ下があるのだぞと言わんばかりに彼が人生を捧げた隊にさらに不名誉を取り付ける。


 運を失うときとはこうまで全てを失ってしまうものだろうかとカンバルは天を仰いで運命を呪った。


 とはいえ、底をついた運を嘆いても自身の部下の不甲斐無さを嘆いても状況は好転しない。


むしろ真の勇将とは尽き果てた運の樽をもう一度満たすことが出来る者だと自身を励まして彼は敵である少女の前に立ったのだ。


 幸い少女の強さは確かに無類のものではあったが、身体に若干の固さがあった。  


 緊張とはまた違う。


戦場という世界にまだ踏み切れていない者特有の固さである。


 そこにつけこみ、うら若き女に武器を突き立てる後味の悪さはあったが、現状ではしょうがない。


  部下達の落ちた士気を上げるためには強敵を血祭りに上げなければならないのだ。


 そうするためにも悪鬼の強さをほこる少女の確実なる死の証拠が必要だ。


 つまりは身体に穴を開けた少女の死体が……。


 カンバルはゆっくりと少女に近づく。


 手応えはあったが、決して油断はせず武器の握りを緩めることはしなかった。 


悲運の芽は油断したときこそ悪辣な発芽をするという詩の一節が頭に浮かんだ。


 果たして少女は驚くことに生きていた。 


『悲運よ散れ!』と突き刺した攻撃は残念ながら完全には入らなかったらしい。


 どうやら攻撃が到達する瞬間に少女が持っていた剣の柄を間に入れて致命傷は避けたようだ。


 だがそれは死にはしなかったということで戦うにはいま少しの時間が必要なようだった。


 この場ではそれこそが死に至るものであることはその場にいた全ての人間が気づいている。


 ところでカンバルの部下達が悪鬼と呼んでいた少女……イヨンにもカンバル程ではないが悲運があったのだった。 


 ムランが味方の説得をするために出発するとき……つまりはイヨンに殿を任せたときに彼が発した事は近づいてくる敵だけを倒せということだった。


 そして出来るだけ圧倒的にと言う言葉を付け加えて彼はもう一人の従者と一緒に先へ進んでいった。


 その時のムランの顔は済まなさそうな、罪悪に苦しんでいるようで、イヨンはそんな顔を見ると自分のことのように悲しくなってしまう。 


だから自分は彼の命令を守ろうと決意した。


 近づいてくる敵を出来るだけ圧倒的に……。 


 彼女の主の予測では上に見捨てられた自分達を蹴散らして士気を上げようと一気呵成に攻めてくるだろうと考え、イヨンに近づいてくる敵だけを倒せとシンプルに命令した。


 辺境でいくつもの戦闘を体験した勇士。


敵の司令官を死亡させ、目の前にいるのは戦闘経験の無い雑兵、更なる士気向上を狙い仕掛けてくる可能性は高い……。


 仮に反乱軍の長がそれをしなくても勝ちに酔い武勇に自信のある者が更なる功をと独断でかかってくる可能性も十分に考えられた。


 また仮に敵が動かなければそれだけ味方を説得する時間が出来る。 


ムランにとっては現状出来得る限りの最善の選択ではあった。


 しかし心は最悪の気分だった。


 イヨンが殿につき、圧倒的に敵を打ち倒すということはつまり敵を冷酷に無残に殺せという意味の命令である。


 イヨンはそこまで認識していないだろうが、圧倒的という言葉を自分なりに判断し凄惨な戦いをするだろうということも予測できた。


 そしてそれと共に自身の大切な存在が傷つくことも容易に気づけた。

 

 それは身体だけでなく心も傷ついてしまう。


 その憂いが表情に浮かんでいることに彼は全く気づいていなかった。


 心の底で揺れ動く後悔と諦めの混合したものがこぼれないように制御できる程、そこまで彼女の主人は達観していないのだ。


 そしてその心からこぼれたものが表情に浮かび、彼の大切な者に必要以上の奮闘を促してしまったのはなんという皮肉だろうか。


 そう、イヨンが突っ込んで来る敵だけを切り倒せば、勝ちに浮かれている敵の出鼻をくじくことができ、また有利に進めている戦いの時にわざわざ危険に向かうようなことはしない。


人は勝っている時には勝ちを味わいたいから怪我をすることや死ぬことを恐れる。


故に無理はしないものだ。


だからこそ負けて絶体絶命の時にだけ使える苦肉の策がそれだった。


 しかしながら主の憂いに気づいてしまった無垢な少女は主に与えられた使命を逸脱するほどの働きをしてしまった。


 そこまで凄惨に戦うことは無かったのだ。


 たとえば最初に倒した敵も馬から落馬させて動けない程度に痛めつければよかった。


 次に来た相手もあっさり切り倒すよりも腕の一本でも切り落とせばそれだけで主の狙いを十分達成できたのだった。


 しかしそれだけで抑えられるほど少女の主に対する気持ちは弱くなかった。 


 血走った目で自分に向かってくる敵を殺した。 


逃げる敵も後ろから殺した。  


 内臓を骨を血液を、まるで生贄を捧げる狂信者のように周囲に振りまいた。


 腕が重い。


足が震える。


心臓の音が耳に響く、一人殺すごとにそれらは段階的に強くなっていくが、無理やり抑えて次の敵を倒す。


 ただ敵の進軍を足止めするだけでよかったのに……血に塗れたその姿を見たらますます主は憂いの感情を心にさらに植えつけるだろう。


 そして足止めどころか副長であるカンバルを呼び寄せてしまったことはさらに自体を悪い方向へと導くもであった。


 イヨンは不思議だった。


 何故身体が動かなかったのだろう? 


確かに新たに出てきた男は今まで倒した兵士よりも格段に強いことは対峙したときに気づいていた。


だからこそ一瞬の隙も見せずに一気に勝負に出なければいけなかったのに……。


 倒れている身体に力を入れる。


 幸い急所は外れたようで、特に大きな怪我もしていない。


 十分に戦える。


 後は何故か震えているこの四肢で無理やり起き上がるだけのことだ。


 疑問はまだ解決していないがそんなことを考えていたら死ぬということくらいは理解できる。


 死ぬ?


 そういえば死ぬのはどういうことなんだろう?


 そうだ……それはきっと昔のあの時代のようになるということだろう。


 頭をはっきりと狙った一撃が振り下ろされたが、それを横に転がって避ける。


 転がった反動で起き上がり、すぐに距離をとって構える。


 その間にも死んでいたのと同義の過去を思い出していた。


 幼い頃のことはほとんど覚えていない。


 ただ覚えていることは毎日歩いていたことと自分の他に一人の女の人がいたことだけ。


 後は漠然とした寒さと暑さ、他の人々への罵り……それが自分の全てだった。


 ああそういえば女の人は自分と同じ髪の色をしていて、鮮烈な赤色が子供心に凄く綺麗だと感心していたのに……。


でも彼女はいつも長い頭巾をかぶって見えないようにしていた。


 自分も彼女が作ってくれたボロボロの頭巾をかぶせられていたな。


 せっかくの綺麗な髪が隠れてしまうので自分はその頭巾をかぶるのを嫌がっていたっけ……。


 ある日の朝、一緒にいた女の人が寝たまま起きなくなってしまった。 


 今にも崩れそうなうち捨てられた小屋の中で冷えた指先を擦りあわせて女の人が起きるのをずっと待っていたような気がする。


 でもいつまでも起きなくて……変な臭いがして……綺麗だった彼女の髪もくすんでしまっていって……思わず髪に指を通したらその髪はごっそり抜けてしまったので、もう一度指を通したらまた髪が抜けて……さらに入れたらまた抜けて……そんなことを繰り返していたら髪は全て抜けてしまった。


 指に絡むそれを呆然と見つめていて、ふと彼女は自分を置いていってしまったのだなと思った。 


それなら仕方ないと小屋を出ることにする。


 半分崩れた戸を空けて外に出る。


月が空の一番上にまん丸と光っていて、何となく彼女はあの満月に行ってしまったのだなと理解した。 


 そういえば一人で歩き始めたあの夜も今のように両手両足は震えていたな。


 何で震えていたのかはわからなかったけれど……それでもあの時のようにしなきゃならないことはわかっている。


 それだけわかれば自分にはいい。


 難しいことはムランが考えてくれるし、スアピは何だかんだと怒りながらも自分と一緒に居てくれる。


 それだけで十分……あの一人で歩き出した夜に比べればこの程度大したこと無いから……私はまだ戦える。


 震えが急に止まる。 


力が沸いてくるどころか全身が軽い。 


今ならどんな相手にも負ける気がしないほど身体は絶好調だった。


 何でだろう? 


昔を思い出したから?


 ムランとスアピのことを考えたから? 


理由のわからない笑みが浮かんでくる。


 その理由はきっと両方だろう。


 そう結論付けて少女は自身以上の重さを持つ剣を構えた。


 身体を押さえていた全てをなぎ払って……。





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