7 代償

  すべてを分かつのだと言って泥で模した粥を口に詰め込まれたとき、

  私はそれを飲み下した。

  同じ部屋で眠る子供たちの口元に油を注いで回った夜から、

  私はすべてを分かち合えると信じている。

  病や、血や、命さえも分かち合うことができるだろう。

 

 

 エトとギリヤは市場通りを塔に向かって駆けていた。ギリヤは急ぐ素振りを見せなかったが、エトは追いつくのに必死だった。

 エトはギリヤの忠告に従って、商人服を身につけていた。普段油人の格好をして市場を出歩く時よりも、目を向けられる頻度が少ない。油人を見る目には蔑みと非難が含まれているのに、異境の商人を見る目には好奇か無関心しかなかった。

 市場通りの夜は昼間に負けじと賑やかで明るかった。商人の客を引く声に代わって、人々の猥雑な笑いが通りに満ちていた。すれ違う人の体からは、強い香の匂いがした。軒先に灯る炎は、化粧気の強い男や女を蠱惑的に揺らしている。あの灯りは、とエトは思った。僕たちの掘り出した油が燃えているのだろうか。

 「この都市の人間はどこか安心しきった顔をしてやがる」ギリヤは言った。

 「悪いことでしょうか?」

 「いいや、そんなことはないさ。でも、違和感を覚えるのも本当だ。例えばあれだ」ギリヤは物品が山を為す<木陰の下アモウラ>を指さした。「盗んでくれと言わんばかりのもんだが、誰もあの場から物を盗めない。あの場に積まれた物は持ち去りが自由だときているから、誰がどうやったって盗みにはならないよな」

 「そうですね」

 「それが気に食わん。セオの盗人が見たら卒倒しちまう。あいつらきっと、<木陰の下アモウラ>を目の前にして右往左往しだすぞ」

 「どうしてです?」

 「盗むことしか知らないからさ」ギリヤは鼻っ面をかいた。「竜のいない方が、人の顔が明るくなるとはついぞ考えたことがなかった。ここの連中を見ていると俺の常識の方が間違っていたんじゃないかと不安になる。竜は時に恐れをもたらすが、やはり俺たちは竜に守られてきた」

 「フォンリュウの話ですか?」エトはギリヤの話に上手く答えることができなかった。水族の村には竜がおらず、したがって竜のもたらす恐れも届きはしなかったが、それでも村人は顔をうつむけて暮らしていた。

 「フォンリュウの都市では、軽々しく竜の名を呼ぶなよ。皆、焔帝様とかしずいて暮らしている」

 「フォンリュウの都市もイーンと似ているのですか?」

 「何を指して似ていると問う?市場のことを聞いているのなら似ているように思うよ。市場はどの都市であっても同じようなものさ。活気があって猥雑で、様々な人種が入り交じる。だが、フォンリュウは古代都市群の境界に接している。都市の陥落を狙う侵略者たちが日々外界から押し寄せてくる。だから、物々しさで言えばフォンリュウだ。警邏の人間が四六時中目を光らせている」

 「ギリヤさんも都市の見回りをしたんですか?」

 「焔の戦士は外の連中しか相手取らない。フォンリュウとの契約では、血を流すのも炎に焼かれるのも侵略者なんだ」

 「フォンリュウの竜は、都市を護る存在なんですよね?」

 「フォンリュウは古代都市群全体を北の脅威から守護していると自負している」

 「僕もいつかフォンリュウまで行ってみたいです。できれば、さらに北の土地にも」

 「お前なら北の連中に殺されないですむかもしれない。北の蛮族どもは都市から来たというだけで見境なしに人を殺すからな。何というかお前は、都市の人間と言うよりも……」

 「蛮族に近い?」

 「辺境に暮らす人間は、都市に暮らす人間と匂いを異にするもんだ。竜の気配が薄いせいかも知れないな」

 「北にも南にも、都市を除けば竜がいないというのは本当でしょうか?」

 「さあな。俺は、竜によって大地が維持されていると聞かされて育ってきた。それなら、竜のいない土地に人の暮らしはないことになるだろう。北の蛮族どもは、竜を持たないという。だから蛮族なのだと言う者もいるが、だとすると俺たちは何だ?フォンリュウの上層民たちは、自身のことをこぞって竜人と呼びたがるが、実際に竜との契りを結んだ者はそれを忌み名と捉えるもんさ」

 ギリヤは政治区の入口を前にして立ち止まった。その場所は、ちょっとした公園広場になっていて、生活区と政治区を隔てる汽水域の役割を果たしていた。エトはギリヤの肩越しに、政治区の入口を固める衛兵の数人を見た。二人は、衛兵の動きが伺える場所を選んで腰を下ろした。

 「こんなところに座っていて大丈夫ですか?」あまりに堂々とした態度にエトは尋ねた。

 「構わないだろう。そこの藪では男女が睦言を交わし合っているし、そっちでは俺たちよりも怪しげな連中が酒を飲み交わしている。ここは、そういう場所なんだよ」

 エトはきょろきょろと辺りを見回し、ギリヤの言うことを確かめた。灯火の薄い広場には、エトたちの他にも、市場通りから流れて来た人間が、何をするでもなく集まっていた。

 「ここいらで一杯引っかけて待とう。通りにあった酒屋で飲み物と肴を適当に買ってきてくれ」ギリヤはエトに小銭の入った小袋を手渡した。「ただし酒瓶からは酒を抜いて代わりに水でも詰めてきてくれ。今宵は酔うのが目的じゃないからな」

 通りの手近な店にとって返すと、ギリヤの指示通りに酒と肴を買い求め酒瓶から酒を抜いた。酔っ払った客がエトに絡もうと腕を伸ばして来たが、エトは軽々とそれらの手をかわした。酒屋の並びにあった水屋の店主は、酒臭い瓶を受け取ると渋い顔をしたが、文句を口にすることもなく三番水をついでくれた。

 エトが戻ると、ギリヤは居眠りをしていた。

 「お前もそこに座れ」エトが近づくとギリヤはすぐに目を開いた。「笑い声を上げろとまでは言わないが、適当に何かしゃべっていろ。向こうにまで声は伝わらないが、酔い客の雰囲気を出すことが大事だ」

 ギリヤはエトから酒瓶を受け取るとぐいとあおった。

 「嫌にざらつく水だな」

 「二番水が売り切れていたんです」

 「水に一番とか二番とかつけない土地に早く帰りたいもんだ」とギリヤは鼻で笑った。

 「三番水でも、僕はここの水の方が好きです。故郷の村の水は独特な味がしましたから」

 「セオを囲むミシュ川の支流には、水で有名なものがあったろう?」

 「わかりません。僕の知る川は、白く濁ったものひとつでしたから」

 「なあエト。お前、これが終わったら故郷の村に帰るのか?」

 「そのつもりです。他に帰るあてもありませんから」

 「馬鹿を言うな。帰る場所がないとは、俺のような人間のことを言うんだ」ギリヤは声を抑えて怒鳴った。酔っ払いの演技のようで、その声には真摯な響きがのっているようにエトには思えた。「お前は好きなところに行けるし、なんなら油人としてイーンに残ることだってできる。甘ったれた答えは俺は好きじゃない」

 「僕だっていつかは世界を旅したいと思っています。でも、竜の恵みを持ち帰ると母に約束をしましたから」

 「竜の恵みか……。そんな物、持ち帰ってどうするのかと俺は思うね」ギリヤはエトに酒瓶を差し出した。

 エトは細かい砂の浮かぶ三番水を喉に流した。

 「ギリヤさんはどうして隊商に居るんですか?」

 「俺か?俺は隊長に借りがあるからな。借りを返すまでは働くつもりだよ。さっき戻る場所がないと言っただろう。フォンリュウとの契約を反故にした者は、炎に飲まれるしか道がない。俺は本来なら死んでいるはずの人間なんだ。ところが、フォンリュウへの代償は隊長によって贖われた。平たく言えば、隊長が俺を買ったんだ。だから、どんなことでもこなしてみせなくてはならないのさ。ひとつの契約を抜けたと思ったら、また新たな契約だ。くだらない話だが、それでも焔の戦士でいるよりは砂漠の隊商の方が気楽でいい」

 「でも、今の仕事は気楽な隊商員の仕事とはとても思えませんよ」

 「いいや、これはれっきとした隊商の仕事だよ。なんてったって、異境で売り物を手にし、砂漠向こうに運ぼうっていうんだからな」

 「僕はイーンの都市で暴動なんて起こしたくありませんでした」

 ギリヤはエトの手から酒瓶を取ると、水を飲み干し、空になった瓶を投げ捨てた。

 「俺の経験から言わせてもらうと、竜の力は人間が扱える代物じゃない。本当はそんな物のことは忘れてイーンの特産を東の都市で売り払う仕事がしたいもんさ」

 「でも心臓を奪えば、隊長はイーンから手を引くんでしょう?」

 「どう転んだって祭りは今夜だけのものと言い切れるさ。長くいざこざを起こすにはイーンはどこからも遠すぎる」

 「それなら……」エトの言葉は巨大な炸裂音にかき消された。

 都市の空がびりびりと震え、昇る朝日のような強い光が北の空を照らした。

 次いで、また炸裂音。

 空を仰いで慌てる人々を尻目に、ギリヤはゆっくりと立ち上がった。

 「さあエト、仕事の時間だ。もう後戻りはできないぞ。覚悟を決めなくては、この先、生きてはいけない」

 二人は政治区の衛兵をやり過ごし、塔へ向かって速やかな移動を始めた。衛兵の目を盗むのは簡単だった。皆、北に上がる炸薬の火に目を奪われていたからだ。

 「もうじき、市場の一画でも火の手が上がる算段だ。教区の魔術師の目は同じ魔術師連中が引いてくれるだろう。俺の動きをよく気にかけておけよエト。機会は一瞬。その瞬間を逃したら後がない。俺たちの他にも何人かの仲間が別の道から塔への侵入を試みている。だが、お互いあまり助けにならない」

 エトはギリヤにぴたりとくっつくようにして政治区の無骨な路地を走った。視界の片隅で必ずギリヤの足を見るようにして、ギリヤが止まればすぐに自分も止まり、突然の方向転換にも何とか着いていくようにした。政治区の路地を吹き抜ける夜の風は、火の匂いを伴って煙たかった。ざわざわと辺りが騒がしく感じられたが、言葉が意味を持つほどしっかりと耳に入って来なかった。火の手の上がる場所にいたならば、逃げ惑う人の声がエトの足を止めていたかもしれない。

 いよいよ二人は塔の足下までやって来た。塔は煙に巻かれた巨大な煙突を思わせた。持ち場に急ぐ衛兵たちの雑踏が、広場の不穏を煽り立てる。

 ギリヤは広場の一画にある植え込みまでエトを引き連れて行くと、身をかがめ、藪の中に隠した布地の覆いを外した。

 「水甕の反対を持てエト。誰かに尋ねられたなら、衛兵長に命ぜられて水を運んでいるところだと言え」

 エトは水甕の取っ手の反対を持ち、できる限りの速度で広場を横切っていった。水甕の中には、確かに水が入っているように感じられたが、隙間から漏れ出る匂いから察するに、それは多量の油だった。二人は塔の足下まで移動すると水甕を残して建物の陰に身を潜めた。ギリヤは、水甕から長い糸紐を引いてエトに糸口を握らせた。糸紐には、油がべっとりとしみついていた。

 「俺たちは、ここから塔の中に入る。そのための仕掛けがこいつだが、その前に邪魔者を排除する必要がある」ギリヤは水甕の近くに立つ衛兵の一人を指さしてみせた。

 「あいつに甕の爆発を見られるとやっかいだからな」そう言うとギリヤは腰元から短剣を引き抜いて、月明かりに光る刃先を外衣の裾で隠した。

 瞬きをひとつ、エトがする間にギリヤの姿が闇に消えた。

 気がつくと、衛兵が唸りひとつ上げずに倒れた。

 傍らには、片膝をつくギリヤの姿があった。

 「こいつに火を点けたらもう戻ることはできないぞ?」

 「着いていきます」エトは腰元に差した短剣の持ち手を力強く握った。

 「始めるぞ」ギリヤは糸紐の先端に火を灯した。

 火は、宙を這うように進んだ。

 柱の陰に火の先が見えなくなって、一刻、間が空いた。

 思ったよりも進みが遅いなとエトは思った。

 しかしエトが気を緩めた次の瞬間、石壁の爆ぜる音と共に、炎と噴煙がもうもうと立ち上った。

 炎はあっという間に燃え広がった。

 これではとても進めない。エトがそう思った矢先、ギリヤは躊躇なく火炎の中に飛び込んでいった。

 「俺に張り付いていろ」炎の中でギリヤは叫んだ。ギリヤの体は炎の中でうっすらと光を放っていた。それは炎の反射ではなかった。魔法の力を思わせる光がギリヤを包み込んでいた。

 火炎のせいで、辺りの空間が歪んで見えた。踊り狂う炎を見て、エトは臆した。これでは自ら死の中に飛び込んでいくようなものだ。しかし、わずかばかりの逡巡の後に、エトは炎に飛び込んでいた。

 「あまり大きく息をするなよ」一心不乱に飛び込んできたエトを受け止めながらギリヤは言った。「俺を避けるのは炎だけだ。煙は風に巻かれてやってくる」

 ギリヤは猛り狂う炎を突っ切って、大胆にも塔の入口に向けて駆けていった。

 「油が燃えているぞ!水じゃない、泥土を運んでこい!」ギリヤは怒号を挙げて衛兵をどついた。衛兵は炎を横目にあたふたとしていたが、やがて塔から駆け出てきた一団につられて、持ち場を離れた。

 二人は、混乱に乗じて難なく塔の中に入り込んだ。エトは額に汗が流れるのを感じたが、熱気のためというよりも、遅れてやってきた恐怖のためだった。あの場で死んでいてもおかしくはなかったと、ようやく心が状況に追いついた。エトは目を丸くして炎の内を先導したギリヤを見た。ギリヤの体を覆っていた魔法の光はいつの間にか消えていた。

 「今のは魔法ですか?」エトは尋ねた。ギリヤの起こした炎が、彼の作り出した幻、人を燃やすことのない魔法の炎に思えたのだ。

 「魔法でも何でもない、本物の炎だ」ギリヤの答えはエトの想像をあっさりと否定した。「焔帝フォンリュウの加護を失った俺には炎が寄りつかなくなったのさ」

 エトにはギリヤの答えが信じられなかった。炎を避ける力など、竜の加護そのものに思える。

 「さあぼやぼやしている暇はない。先に進むぞ」ギリヤは景気づけにエトの背を叩いてみせた。

 二人に気を向ける者などいなかった。都市のそこかしこで上がる火の手に加えて、手近な爆発が現場の混乱を更に高めた。通路のそこかしこで怒号が上がり、衛兵が大慌てで駆けていく。もうもうと立ちこめた煙に隠れて、二人は通路を進んでいった。

 「その扉を開けろエト」

 ギリヤに言われるまま、エトは扉を開いた。

 「誰もいません」

 「そのまま扉を開けておけ」ギリヤはやってきた衛兵の一人を呼び止めると、口をふさぎ、いきなり喉をかき切った。血が飛散しないように、袖口で喉を押さえ付けている。

 ずるずると衛兵を引き込むと、ギリヤは衛兵の服を脱がせ始めた。

 「お前に合う服は見つからないだろうから、そのままで移動する。何か聞かれたら、<大樹の間オウラ・ヴィタ>に用事があると答えろ」

 「<大樹の間オウラ・ヴィタ>ですか?」

 「賢主の子供を始め、塔に集められた子供が集う場所だ」ギリヤはすっかり塔の衛兵に変わっていた。

 二人は塔の上層に向かって進んだ。ギリヤはおそらく、塔に潜り込んだ仲間から内部の構造を聞いているのだろう。一度も迷う素振りを見せず、黙々とどこか目的地に向けて足を運んだ。

 上層に上がるほど衛兵の数は減り、反対に政治人の姿が増えた。二人を呼び止める者はいなかったが、すれ違う人間がちらちらとこちらの様子をうかがっていることをエトは感じ取っていた。――塔の住人は間違いなく、衛兵の格好をしたギリヤではなく砂漠の装束を身につけた僕のことを見ている。

 「まだ先は長いのですか?」エトは小声で尋ねた。

 「グムトは塔のずっと上にいる。上るのにも時間がかかるが、上に上がるための準備もいろいろとこなさなくちゃならない。まずはお前の格好をどうにかしないとな」

 「僕はこのままでいいです」エトは、服を手に入れるために子供に手をかけるギリヤを見たくなかった。

 「俺と来るなら、そうも言っていられないぞ」

 「それなら僕はここまででいいです」エトは唐突に立ち止まった。もとより、ギリヤと共にグムトの下まで行くつもりはなかった。塔の内部に入り込めた事でギリヤと行動を共にする理由はなくなっていた。一刻も早く、ホタノのいる部屋を見つけなくてはとエトの気は急いていた。

 「こんなところでお前を置いて行けっていうのか?いったいどうした。投げ出すなんてお前らしくもない」ギリヤの声に苛立ちの色が混じった。

 「ごめんなさいギリヤさん。僕には僕のやることがあるんです」エトはきっぱりそう告げると、反対の方向に身をひるがえした。

 ギリヤはエトの腕を乱暴に握り、再び歩くように促した。

 「もうすぐ仲間が用意した部屋に着く。話は、そこに着いてからでも遅くないはずだ」

 ひとつの扉の前に来ると、ギリヤは迷うことなく扉を開け、エトを押し込んだ。

 「まずはこの場に相応しい服に着替えろ」ギリヤはすでに衛兵の服を脱ぎ始めていた。

 部屋に並ぶ衣装の海をエトは割って歩いた。衣装部屋は細長くて、ほとんど隙間なく衣装が並んでいた。エトの体に合いそうな服は部屋のずっと奥にあった。部屋の奥壁には窓がなく、外の様子をたしかめることはできなかった。奥壁の近くに扉がひとつあったが、畳まれた衣服の山にふさがれていた。扉は生活区で見るようなごくありきたりな見てくれをしていた。エトは手頃な服に着替えると、ギリヤの下へ足早に戻った。政治人の服に身を包んだギリヤは、きちんとした塔の住人に見えた。

 「もうここでいいとはどういうことだ?」ギリヤは入口の扉をちらちらと気にした。

 「僕はこれ以上ギリヤさんと一緒に行けません。騙すような真似をしてごめんなさい。でも、僕には他にやることがあるんです」

 「お前がどんなことをしでかそうと勝手だが、それは一人でできることなのか?」

 「僕一人じゃないとできないことなんです」

 「友達を探すつもりか?」

 「そうです」

 「お前一人に何ができる、と他のやつなら言うだろう。あるいは、そんなことも言わずに殴り飛ばしている。でも、どうやらお前には竜の加護がついているらしいからな、お前がそう言うのなら、俺はこの先一人で行く」

 「ありがとうございます」

 「お前がいないと心細いが、仕方あるまい」ギリヤは長い手をゆっくりと持ち上げ頭をかいた。

 「僕がいない方が、ギリヤさんはずっと楽なはずです」ギリヤの言葉にエトは驚いた。ギリヤは、そんな風に世事を飛ばす人間ではない。

 「いいや、お前がいた方が楽だったと俺は思うよ。子供は、この場では重宝するのさ。さて、お前とおしゃべりしている暇はない。俺はもう行く」ギリヤはエトに背を向けた。

 「どうかご無事で」去りゆく背中に向けてエトは言った。

 「それは俺の台詞だエト。俺のように竜の加護を手放すなよ」

 入口の扉が閉まるまでエトは見送った。歴戦の戦士であるギリヤに対して、自分はただの子供に過ぎない。ギリヤの行く末を気づかう余裕などないはずなのに……。それでもエトは、ギリヤとまた再会できるようにと心の内で祈った。

 エトは部屋の奥までとって返すと、衣服の小山にふさがれた扉の前に立った。

 この扉には、何か違和感がある。

 エトは手袋を脱ぎ、外衣の小袋にしまった。乱暴に衣服の山を崩すと、剥き出しの手のひらで取っ手をつかんだ。そうすることがなぜか正しいように思えた。

 扉は、ぎぃと音を立てて開いた。その音は深い穴の底からこだまする風音のようだった。

 居心地の悪い闇がエトを包んだ。

 闇の先に一点、揺らめく炎の灯りが見える。

 扉が独りでに閉まり、その扉は二度とエトの力では開かないことを悟った。

 あの部屋に戻ってきたのだ、とエトは思った。

 むっと生暖かい風が吹いた。

 頭が重い。胃がむかむかして、吐き気がする。

 闇を手探るようにエトは慎重に歩を進めた。

 床に置かれた洋燈を手に移した。明かりはそれひとつきりだった。

 エトは意識して洋燈を膝の辺りでかざし持った。ここの住人は明かりに照らされる事を極端に嫌う。足下だけを照らすことはエトなりの配慮だった。

 暗闇の先でホタノが待っていた。彼女はモズルの木に背を預け、エトが近づくと、くすくすと笑った。

 「よくこの部屋まで自力でたどり着けたわね」

 「君が僕を呼んだんだろう?」エトはホタノを照らさぬように、洋燈を足下に置いた。 「私が?」ホタノは気だるそうにモズルの木から身を起こした。

 「あなたを呼んだのは私かも知れないし、私ではないかも知れないわ」

 「何だっていいさ。君が、会いたくなったら塔の扉を開けと言った。僕はそれに従っただけだよ」

 「あら、私は塔の扉を叩けと言ったのよ。無遠慮に入っていいとは言っていないわ」

 「力を貸して欲しい」

 「あなたがグムトを殺してくれるのなら喜んで力を貸すわ。そしてあなたは望み通り竜の心臓を持ち帰る。そうよね?」

 「心臓はいらない。代わりに人を連れ戻すことに力を貸してもらいたいんだ」

 「竜の力をいらないと言うの?誰を探しているのか知らないけれど、竜の力は大地とひとつよ。はたして竜の力と人一人を天秤に掛けることができるものかしら」

 「でも、僕にとっては大切な人なんだ」

 「世界よりも?」

 「世界のことは僕にはよくわからない」

 「竜の心臓を奪えば、たいていのことは力で解決できるようになる。魔術師ごとき敵ではなくなるのに」

 「僕に必要なものは力じゃない。可能なら、心臓はイーンに返すよ」

 「どうやって?」

 「それは、君が知っているんじゃないの?」

 「さあどうかしらね」ホタノはいつものくすくす笑いをすると、体を少し前のめりにした。「それで、あなたの連れ戻したい人のことを教えてもらえるかしら?」

 「僕の友達がホロに捕まったんだ。どこにいるのかはわからない」

 「魔術師が隠したものを見つけるのね」

 「できる?」

 「できると思うわ」ホタノはわざとじらすような声を出した。

 「炎を弱めて、布をかぶせるだけでいいから」

 エトは外衣を脱ぎ、言われた通り洋燈にかけた。ただでさえ少ない明かりが、一層心許ないものになった。心は不安を覚えなかったが、代わりに息苦しさを感じた。光の量が減ることで、まるで水の中に沈み込むような錯覚を覚える。

 「みんな、出てきてちょうだい」光量が減ったのを確認するとホタノは声を掛けた。

 音もなく部屋に人の気配が満ちた。エトは、人の心の熱を感じた。この暗い部屋では、まるで人に触れているかのように空気を伝播して人の存在を感じ取ることができた。

 「何かご用?」子供の一人が言った。他の子供たちはじっと息を殺して、エトの様子をうかがっていた。前回部屋を訪れた時とは少し様子が違う。

 「エトのために人捜しをやって欲しいのよ」

 「でもあいつが見ているよ」一人が怯えた声を出すと、周りの子供たちが口々に不満の声を上げた。

 「今は大丈夫よ。エトのお友達がホロの目を遠くにやってしまったわ」ホタノは子供たちをなだめると、エトの方に振り返り、「あなたを逃がしてからホロの警戒がずっと厳しくなったの。塔の中にまで影がうろつくようになってしまって、皆すっかり縮こまっているわ」と言った。

 「影に捕まったら私たち飲み込まれちゃうのよ」子供の一人が言った。

 「俺たち、えいえんを歩かされることになるんだ」と別の子供が言った。

 「違うわ!影の中でどろどろに溶かされてみんな一緒にされちゃうの。自分の名前だってわからなくなっちゃうんだから」子供たちは、めいめい影について知る知識を披露し始めると、やがて恐ろしくなったのか、しんと静かになる瞬間が訪れた。

 「魔術師の使役する影は本当に恐ろしいものよ。でも、目をそらすわけにはいかないこともまた事実ね。しっかり目をこらしておかないと、うっかり影につかまれてしまうから」ホタノは、エトに向けて言った。

 「それで、誰を探せばいいの?」とくに勇敢な子供の一人が、輪の中から一歩踏み出して言った。

 「私もまだきちんと説明を受けていないわ」

 「僕と同じくらいの年の女の子で、名前をヴィノと言うんだ。背も僕とほとんど変わらないくらいで、たぶん油人の格好をしたままだと思う。僕の後に続いて葬儀穴に潜り込んで、ホロに捕まってしまったんだ」

 ホロの名前を聞いて子供たちが再びざわめいた。

 「僕たちは塔の外には行けないよホタノ」

 「塔の中だけで十分だわ。たぶん塔のどこかにいると思うから」

 「どうして塔にいるとわかる?」

 「魔術師の住処である教導舎よりも塔の方が魔法の力がずっと強く働くの。魔法の根がより深く、正確に大地をつかんでいるからよ。とにかく、グムトが関わっているのなら、あなたのお友達は塔にいる確率の方がずっと高いと思うわ。私には、なぜその子が捕らわれたのか何となく見当がついているもの。グムトは、その子を生け贄に捧げようとしているんじゃないかしら」

 「でも、ヴィノが竜の子であったのは子供の頃の話で、生け贄にしたってイーンでは名ばかりのものなんだろう?」

 「あら、竜の子ならばおかしなことはひとつもないわ。祭事とはいえ、竜の子には竜の血が少しでも濃い者が選ばれるんだもの」

 「グムトは竜の心臓を自分の物にしたんだろう?どうしてまだ血を必要とするんだろう」

 「心臓の力を増すために更なる血を求めているから」ホタノは淡々と告げた。

 エトは居ても立ってもいられなくなった。

 「早くヴィノを助け出さなくちゃ」

 「そう急がなくてはね」

 「どうすればいいのか教えてくれないか。その通りにするから、ヴィノを見つけ出して欲しい」

 「あせっては駄目よ、エト。魔術師の目をそらすにはまだ騒ぎが足りないわ。でも、子供たちは使いに出してあげる」ホタノはそう言うと、子供たちを見回した。「影に近づいては駄目よ。それからホロの目がこちらを向いたらすぐに隠れなさい。帰り道はわかっているわね?」

 「わかっているよ!」子供たちは口々に答え、闇の中で頷き合った。

 「では、行ってきなさい」ホタノがそう言うと、子供たちは音もなく消え、エトの感じ取れる気配はホタノのものだけになった。

 「僕はこれからどうすればいい?」

 「まずは、灯りの覆いを外すといいわ。そうでないと、息苦しくてしかたないでしょう?」

 洋燈の覆いを外すと、呼吸がふっと軽くなり、肩にこもっていた余計な力が抜けた。洋燈の灯りは、冬場に当たる炎のように暖かな光を放って見えた。

 「外の騒ぎはもっと大きくなるのでしょう?」

 「そうなると思う」エトは不本意ながら答えた。

 「そうなってもらわないと困るわ。グムトのいる場所には、ホロの影がべったりと張り付いているの。あなただって、魔術師を呼び寄せるような真似はしたくないでしょう?ホロの目はひとつじゃない。すべての目をそらすには、よほどのことが起こらないとね」

 「もし、ホロの目が離れなかったら?」

 「その時は、どうしようかしら」ホタノは困った風もなく言葉を発した。「そうなったら、子供たちの力を借りるしかないわ。ホロの目が向いているときに、今みたいに塔のそこかしこを子供たちに駆け回ってもらうの。でもね、そんなことはしたくないのよ。子供たちを危険にさらすようなことは」

 「君は、僕をグムトの下へ送り込めると言った」

 「そうよ。でも、時間のことは言わなかったわ。私たちはいつまでも待てるもの。いつまでもね。待てないのは、エト、あなただけよ」

 ホタノがそう言う以上、エトとしては大人しく待つしかなかった。

 「グムトから竜の心臓を奪うと、君たちはどうなる?」エトは、焦る気持ちを紛らわせるために疑問に思ったことを尋ねた。「この部屋のどこかに竜の魂が眠っていると君は言ったね。心臓を取られたら、魂はどうなってしまうのだろう」

 「どうにもならないわ。だって、心臓は地上で生きるために必要な物だから」

 「竜はもう死んでいるんだろう?」

 「そうよ、竜はもう死んでいるわ。言ったでしょう?ここには魂があるだけなの」

 「心臓を取られたから?」

 「地上で生きることを放棄したから」

 「君の口ぶりだと竜はどこかで生きているように思える」

 「あなたに竜の生き死にを説明することは難しいわ。そうね、この部屋がどういった場所かを理解するとき、あなたは竜の魂の行方を知ることができると思うわ」

 その時、肺が空気を取り込むように、部屋の空気が揺らいだ。洋燈の灯りがふっと小さくなり、また燃えさかった。まるで竜の腹の内にいるように感じられた。

 エトは思わず唾を飲み込んだ。

 「あの時、夢の中で僕に問いかけたのは君?」

 ホタノは沈黙を答えとした。

 エトはそれ以上尋ねなかった。

 ホタノはくすくすと笑った。

 「もっとおしゃべりしていたいけれど、もう時間だわ。ホロが塔の見張りを緩めた。あなたの仲間が派手に騒いでくれているおかげね」

 「僕の仲間じゃない」少なくとも、砂漠の外の連中のことは誰一人知らない。

 ホタノは、子供を気づかうような瞳でエトを見つめた。

 「都市のあらゆる場所で火の手が上がっているわ。家屋は荒らされ、手当たり次第に物が盗られている。外からなだれ込んできた猛々しい者たちは、魔術師や衛兵に関わらず目につく人間を殺して回っている」

 「僕の仲間じゃない!」

 「暴徒の先頭に立つ男を私は知っているわ。竜と取引せし者の噂は、この西の果てにも届いている」

 「カデッサ隊長……?」

 ホタノは微笑んだ。

 「私は、あなたを責めているわけじゃないのよ。外でどれだけ血が流れようが、私たちには関係がないもの。それは、あなたにだって言えることじゃないかしら?」

 エトは答えに詰まった。本当に、自分には関係がないと言えるのだろうか?

 「さあ、ホロが戻ってこないうちに動かなくちゃ」ホタノは立ち上がった。

 エトは慌ててホタノの後を追った。

 目がかすむほど濃い闇の中で、部屋の奥に歩を進めたホタノの、かろうじてのぞく足先を頼りに、エトは歩いた。エトの歩みは遅かった。ホタノはエトが遅れていることに気がつくとじっと追いつくのを待ち、決して急かしたりしなかった。

 「もう覚悟はついたかしら?」とホタノが口を開いたのは、部屋を後にしてからだいぶ時間が経っていた。

 「覚悟だって?そんなものはとっくについている」

 「そうかしら?それにしてもあなたの歩みは一向に早くならないけれど」

 「時間がないんだろう!」

 「逃げるのは駄目よ」ホタノは穏やかに言った。「今この場にあなたがいるのは、あなたが選んだ結果。都合の悪いことから目をそらし、良い結果だけを得ることはできない」

 君にいったい何がわかる、とエトは反射的に思ったがホタノの指摘は的を射ていた。

 「迷っているんだ……。僕がこれからすることは、本当に正しいことなんだろうか?」

 「あなたが正しさを求めていたなんて知らなかったわ。私はてっきり、望みのものさえ手に入ればそれで十分なんだと思った」

 「その通りだよ。僕は、ヴィノさえ取り戻せればそれで良いんだ」

 「いったい何を迷っているの?迷いは、あなたを弱くするわ。私に助けられることは、ほんのちょっとのことだけよ。残りはすべてあなたが一人でやらなくちゃ。望みがあるのでしょう?後は、為すべきことを為すだけ」

 「わかっている」腰元に差した短剣の束を握ることで、エトはこれから自分が為すべきことを忘れていないことを示した。

 僕はこの短剣でもって、グムトの胸を刺し貫かねばならない。

 短剣を握る手に力がこもった。心は鋼のように冷たくなっていく。

 「本当は、グムトのいる場所にはいつだって行けたのよ」ホタノは一歩、二歩とエトとの距離を詰めた。「覚悟が決まったのなら力を貸すわ」

 ホタノは胸元から板片を取り出した。

 「これを持って行きなさい」

 ホタノが息を吹きかけると、柔らかな光が板片の周りを覆った。板片には数字を思わせる文字が記されていたが、エトには読むことができなかった。魔法の光が水面を乱す波紋のように揺らいだ。ホタノの口元が露わになった。唇の右端から頬にかけて酷い火傷跡が見えた。

 光で火照った唇が動いた。

 「イーンの加護をあなたに」ホタノがもう一度息を吹きかけると、魔法の光は静かに消えた。

 エトは板片を首から掛けた。

 「温かい」

 竜の加護を受けた板片は、小さな生き物を抱くように温かだった。

 「グムトが力を振るおうとも、竜の魂があなたを守るわ。でも忘れては駄目よ。心臓は魂に従うけれど、その力は魔術師には効かないから」

 「僕をグムトの下へ運んで欲しい」エトは板片を胸にたくしこみながら言った。

 「自分の望みを忘れてはだめよ、エト」

 がちゃりと音がしてエトの体に風が当たった。扉は、二人の立つ間の壁に現れた。扉の隙間から漏れた明かりが、扉を支えるホタノの手元を照らし出していた。

 「お願い。私をあまり見ないで」

 「ありがとう」エトはホタノの言葉を無視して言った。

 「必ずグムトの心臓を持ち帰る。だからヴィノを見つけておいて」

 

 扉を抜けると、天井の高い通路に立っていた。床には毛足の長い絨毯が敷き詰められ、その柔らかな質感は馴染みがなく、沼に沈み込むような錯覚を覚えた。

 通路を奥に進むほかエトには選択肢がなかった。引き返す気は無論なかったが、進むべき道がひとつしかないことは覚悟を固めることに助かった。通路の先は段になっていて、階下の空間は開けていたが、入口部には天井から長く分厚い布が垂れ下がり、その先に控えるものを覆い隠していた。

 エトは布の覆いの前に立った。

 腰帯から短剣を引き抜き、目を閉ざす。

 大きく息を吸って、心を整える。

 事あるごとに握りしめた短剣の握り心地は、心を静めると同時に奮い立たせてくれた。

 もう引くことはできない。引くつもりもない。ホタノとの約束を果たしてヴィノを取り戻す。今は、それだけでいい。

 エトは布地を引き裂くような気持ちで、垂れ下がる布の壁に分け入った。

 室内には男が一人、背を向けて立ちすくんでいた。男の周りには大穴に垂れ込める濃い霧のような瘴気が立ち上っている。

 「誰だ?」と男は深くくぐもった声で言った。その声には、生きることに関わるすべての悲哀が滲んでいるようだった。

 短剣を胸元に構え、エトは一歩前に踏み出した。

 血の匂いが強い。

 それに、嗅ぎ慣れない匂いが混じっている。

 「ホロではないな。あやつの影どもがお前を通したのか?」男はまだエトに背を向けたままだった。

 エトは答えを返さなかった。

 また一歩、前に進み出た。

 立ち上る瘴気がエトの歩みに合わせて揺らいだ。

 男の足下に人影が見えた。うつぶせに倒れ込み、背中に多量の剣が突き刺さっている。かつて人であった肉塊は今や血を流すための袋だ。死体から流れ出す血の溜まりは魔力によって沸騰し、きつい匂いと瘴気を発生させ続けている。

 「闖入者か」男は重い体を引きずるように振り返ると、うろんな目でエトを見据えた。上半身は裸で、子供のように肉付きが薄かった。垂れ下がる上着にも剥き出しの肌にも返り血がどっぷりと散っている。雲間にのぞく太陽のように力強く竜の心臓が浮き出ている。放射状に伸びる光の脈が男の体を這い回り不規則に脈動していた。

 「竜の心臓をもらい受ける」エトは、グムトの心臓部に短剣の刃先を差し向けた。

 「これか?」グムトは自身の胸をわしづかみにした。心臓の発する光に影差され、右手を染め上げる血がどす黒く沈んだ。「血を欲して暴れている。竜の心臓といえど、所詮は肉塊にすぎぬ。心臓のすべてをこの身に宿しても、渇きは止められん。いや、より渇いてしかたない」

 竜の心臓を目前にしてエトは動けなくなった。今この瞬間、心臓をえぐりだすために飛び出していくべきだった。しかし目の前に見る心臓には、目を引く妖しい魅力があった。

 「何故、渇くのだろう」グムトが口を開いた。

 「不完全な故に」エトは答えた。が、それは自分の声であって自分の言葉ではなかった。誰かが自分の口を使って言葉を発しているように感じられた。

 「この物の不完全さを知るお前は何者だろう。さしあたり、竜に憑かれでもしたのであろう」グムトは盛大に笑った。

 「僕は、僕の意思でここに来た」エトは今度こそ自分の言葉を発した自信があったが、その言葉を信じる事が自分でもできなかった。

 「予から心臓を奪ってどうする?お前が、新たな宿主と代わると言うのか?」

 「違う」

 「ならば、何故。竜と契約でも交わしたか?こいつを――」と言ってグムトは胸を叩いた。「奪い返したならば望みを叶えてやろうとでも?騙されるな子供よ。竜は気まぐれに言葉を発する。竜の言葉は人の意味するところと相違する。人には真実ばかりを求めて己は気ままに言葉を操るのが竜だ。予を魂の場所まで連れて行くのならば、お前に力を分け与えてやることもできるぞ。なぜなら、竜の心臓はここにあるのだからな。大魔術師が見いだせなんだ物を子供が見つける。ホロめ、さぞかし悔しがることであろう」

 「そしてまた子供を殺すのか?」エトはグムトの足下に横たわる死体に一瞥をくれた。たくさんの剣に刺し貫かれた体は人の形をなくしていたが、血の海に伸びる肢体の一部から、女か子供であることが見て取れた。

 「いいや」グムトの顔が急に曇った。「魂を手に入れたあかつきには、血の奉仕も必要なくなる。予は、先のお前の一言で確信した。心臓だけでは不完全な故に血を欲せざるをえないのだ」

 「お前が嘘をついていない理由がどこにある?」

 「竜が死してなおイーンの都市は生き続けている。そのことが何よりの信に繋がるはずだと思うのだがな。予とて竜の子に血を捧げろと告げるのは辛い。しかし竜の心臓の力なくしてはイーンの地を保てないのもまた事実だ」

 「ならば何故、竜を殺した?お前たちが竜を殺さなければそれで済んだ話じゃないか」

 「お前、この地の者ではないな。その顔つきを見ればわかる。どこぞの都市から秘密を探りに来た間諜といったところかな。お前の土地では竜はどのように振る舞う?血や財を求めるか?それとも永遠の隷属を強いられるか?そしてその代わりに生を得ているのであろうな」

 「僕には仰ぐべき竜がいない」だから村の土地は痩せ、水は毒で濁り、貧しい。

 「竜の姿はおろか、竜に生かされる都市も見たことがない。だから僕らは土地を生かすために血を流さない。血を流したところで土や水が生を得ることはないからだ。代わりに捧げられるのは村人の命だけだ。僕らは己の命を川に沈め、その見返りに次の命を得ている」

 「それはお前が世界を知らぬだけだ。大地はすべて竜と分かちがたく結びついている。お前が生きてきた土地が竜の力の薄い土地だとして、辺境に吹く風、砂漠の渇いた砂粒、毒に飲まれた木々の葉にさえ竜は宿る。お前は知らず、誰かの血の下に生かされてきたのだ」

 「違う」エトは否定した。もしそうだとして、村の生活は侘びしくありすぎた。血を捧げることで村が豊かになるのならば、村人は喜んで己の血を捧げただろう。

 「認める必要はない。それはただ純然たる事実なのだ。お前は先に、何故、竜を殺したかを問うたな?ひとつそのことを教えてやろう。我が都市の主イーンは、自ずから生を手放そうとしていたのだ。我ら歴々の賢主は竜イーンにあらゆる物を捧げてきた。竜の子もそのひとつである。古来より竜を癒やすは、人の血と決まっているからな。

 しかしイーンは我らの贈り物をことごとく拒み続けた。理由を明かそうともせず、ただ我らを遠ざけた。その間もイーンは都市の守護竜としてこの地に留まり、大地を生かし続けた。幾百も昔の世には、都市を懐柔せんと狙う遠方の竜を遠ざけるために都市の者と共に戦いもしている。イーンはこの土地を護り、抱えていたのだ。にもかかわらず、竜は死を待ち始めた。穏やかに死に向かいながら、決してこの土地を手放そうとしなかった。都市に宿るならば、大地を護るが竜の務めであろう。身を滅ぼすつもりならば、何故、他の竜にこの土地を譲らなかった。この地に生きる者を巻き込んで死に向かう竜をお前なら黙って死なせるだろうか?」

 「それは人の思い上がりというものだ、グムトよ」とエトの声は言った。「竜が大地に務めを負うと定めたのは人の望みに過ぎぬ」

 「やはりお前が憑いていたかイーン」グムトは高らかな笑い声を上げた。

 「我はこの者の声を借りているに過ぎない。我は影。我は死。我の言葉などお前の耳には届くまいが、子らに頼まれたのでな。お前が我の魂をそっとしておくのならば、この者にお前の心臓をえぐることを止める話しもつけてやろう」

 「笑止。理由をつけて死を逃れるのならば、なぜ自ずから死を求めた」

 「お前たちが我の心臓を得た時から、我はすでに死である。我の魂は我の子らの物だ」エトを通してイーンは言った。

 「何故、魂を死に損ないどもにくれてやった。竜の魂を求めるはイーンの地に生きる者すべてよ」

 「だからお前に心臓をくれてやったろう」

 「これでは不完全だ」グムトは心臓部を握りしめた。

 「血がなくてはすぐに乾く。乾いて乾いて仕方がない!」

 「かつて我は告げたはずだ。我の死から幾十年を掛けて大地は穏やかに死に向かうと。その間に土地を移り、民を導くことも出来ただろうに」

 「無の砂漠に囲われたこの地からいったいどこへ向かえというのだ。お前には翼があろうが、人には二本の足しかない。人を動かすは大変なことよ。病人や年老いた者はどうする。砂漠では、子供はおろか大人ですら死に近づく」

 「竜にすら死はあるのだ、人の子よ」

 「偽りを申すでない。東に住まう竜のひとつは、竜に死はないと答えを寄越したぞ」

 「東の竜どもは欲深く嘘つきだ。人の性が移ったのだろう、己の命すらも謀ろうとする」

 「しかし彼の地の竜は大地を生かし、その地に暮らす者を生かす。お前が役目を放擲するのならば、その役目、予が引き継ぐまで。どこぞに隠した魂もホロが探り出すであろう。死と変わりし竜イーンよ、お前はただ見ているがよい」グムトは死体に突き刺さる剣を抜いて、エトを鋭くにらみつけた。

 ――我の哀れな娘がお前の望みを見つけ出すだろう。

 頭に声が響いて、エトの体を支配していた竜の気配が消えた。

 「竜は去った」エトは自分の言葉で言った。

 「それで、お前はまだ予の心臓を取ろうとするか?」

 グムトは剣を構えた。心臓部は炉のように熱く脈打っている。

 「そのためにここまで来た」

 エトは短剣の束を強く握りしめ、抜き放った。

 「愚かなり」

 グムトは剣を振るった。

 刹那、エトの体は二つに斬れた。

 ……はずであった。

 エトはグムトの構えに遅れること数瞬、グムトの心臓めがけて飛び込んでいった。あまりに夢中であったために、胸元にたくし込んだ板片が光を放っていることに気がつかなかった。

 板片から放たれた光は、竜の心臓の鼓動を止めた。

 グムトの動きが止まった。が、それは一瞬のことであった。グムトを護るホロの魔法が板片に宿った魂の力をはねのけたのだ。

 それでも、すべては一瞬で片が付いた。わずかな隙をついて、短剣の切っ先がグムトの心臓部に届いていた。

 「愚かなり……」グムトは剣を取り落とした。代わりに空いた両の手でエトを押しのけようとしたが、短剣はますます深く突き刺さり、グムトの力は失われていった。エトの手はグムトの胸元から流れ出る血の勢いに触れていた。暖かな血が手をつたい腕に流れる感触をエトはまざまざと感じた。時の流れが遅くなったように感じられた。エトはグムトに体を接することで、訪れる死に触れていた。

 グムトが膝を屈すると、ようやく短剣は胸元から抜けた。新たな血が吹き出たが、エトの上着を汚すほどの勢いはなかった。

 「心臓を持ち帰るとて、鎮まった物の方が良かろう」グムトは虚ろな目を閉ざしながら言った。心臓部に空いた切れ目に指先を突き立てると、光の脈動する心臓に指をめりこませた。指は、光の塊に深くふかく沈み込んでいった。手が半ばほどのめり込むとグムトは胸元をこじ開けるように腕を引いた。グムトの口下が言葉をささやくように動いた。グムトの唱える呪の音は彼の口からではなく、部屋の四方から響いて聞こえた。

 竜の心臓が早鐘のように明滅を始めた。

 竜の子とグムトの血が混じり合い、血溜まりが煮え立つ。

 瘴気が立ち上り、宙を泳ぐ蛇のようにグムトを取り囲んだ。

 部屋の明かりが瞬間、消えた。

 闇の中で星が爆ぜた。

 光がほとばしる。

 露出した竜の心臓はかつてエトが見たどのような物よりも美しく、荒ぶっていた。

 星の渦巻く夜のようだ。

 瘴気が中空に渦を描いて心臓に吸いこまれていく。グムトは苦しげな呻きを漏らし、腕を引き抜いた。その手には星のように輝く心臓が握られていた。

 「どこぞなりと持ち去るがよい」

 グムトは絶命した。

 エトはグムトの手から心臓を受け取ると、その光の眩しさに目を細めた。手のひらが燃えるように熱く感じられたが、それと同じくらい冷たくも感じられた。まるで、燃える氷を手にしているように。エトは手にした心臓の扱いに逡巡したが、空いている手で外衣の胸部を剥ぐと、自身の胸に竜の心臓を押しつけた。

 竜の心臓は根を張るように、光の触手を伸ばした。

 体が自分の物ではなくなっていく。

 心が侵されていく。

 自分の名前を忘れてしまいそうだ。

 深い死の感触が流れ込んでくる。

 ひどく気分が悪い。

 エトはついに立っていられなくなった。片膝をつき、胃の腑の中身をぶちまけた。

 視界がぐるぐると回転する。

 たまらず心臓部を握りしめると、荒ぶる鼓動が腕を震わせる。

 まるで大地全体が揺れているようだ。

 鼓動が落ち着くまでにえらく時間が掛かった。目眩と耳鳴りが治まると、握りしめた胸部からようやく手を離した。心臓は熱く、鼓動の度に痛みを伴う。それでも視界が揺れるほどの勢いは鎮まっていた。

 手足を動かせるようになるとエトは無意識に短剣を求めた。心に力を取り戻すために必要だった。短剣は、倒れ込んだグムトの脇に飛んでいた。エトはそこまで這って移動した。

 ギリヤから受け継いだ短剣は、まだエトに勇気を与えてくれた。短剣の束を握りしめると、ようやくエトは立ち上がり、この場を去る気概を持つことができた。片手をつき、体を一気に起こそうとした。その時初めて、エトはうつぶせに倒れ込む竜の子の顔がこちらを向いていることに気がついた。エトは絶句した。

 「ヴィノ」エトの声はかすれて、裏返った。

 石像のように生気をなくし、顔の半分を血に染めた横顔であっても、ヴィノであることは疑いようがなかった。エトはこの一年、ほとんど毎日その顔を眺めてきた。ヴィノの表情はこの場の凄惨な雰囲気にそぐわなかった。エトは、工機のうなる採油場で、埃っぽい空気と土中からしみ出る油をものともせず、すやすやと心地よさそうに昼寝をするヴィノを思い返した。

 エトの心臓はかつてないほど激しく高鳴っていたが、それが竜の心臓を取り込んだためなのか、ヴィノの死に心揺さぶられたせいなのかわからなかった。怒りが、まるで血中を駆けるように全身に広がり、エトを支配した。右手に握りしめた短剣は、強く握りしめているためにぶるぶると震えている。

 この気持ちをどこにぶつければいい?

 怒りをぶつける対象はすでに死んでいた。たった今、心臓を奪うために短剣を突き刺したのだ。エトは両膝を引きずりヴィノの下へ近づいた。汚れた手袋を脱ぎ捨て、ヴィノの横顔に触れた。生身の手で触れているのに心の流入はない。

 ヴィノのは完全に死んでいた。

 「帰ろう」エトはヴィノの体に手を差し挟み、持ち上げようとした。突き刺さる剣が彼女を地に貼り付けて動かなかった。無理に動かすと、体が新たに引き裂かれそうだ。エトは剣を一本一本引き抜いていった。剣の持つ重みが、まるで命の重みのように感じられた。すべての剣を引き抜けば、ヴィノはずっと軽くなるだろうとエトは思った。そしてその重みの分、ヴィノの存在が地上から消える。

 ヴィノの体はエトの細い腕でも容易く持ち上げることができた。ひとつは、血を失い過ぎたために、もうひとつは、竜の心臓の力によってエトの力が増しているためだった。ヴィノの体はまだ温かかった。ヴィノから流れ込む温もりと同じ温もりを分かつことができれば、まだ生きられる気がした。温もりを分かち合うことが、どうしてできない?

 「さあ帰ろう」エトはヴィノを抱え上げ、言った。部屋内はしんと静まり、エトのつぶやきは、背の高い天井と垂れ下がる布のせいで虚ろに響いた。エトは一度もグムトの方を振り返らなかった。血の温もりの残るヴィノの亡骸を抱えて、軽々と歩いた。体の調子は、未だかつてないほど軽快だった。体の奥底から力がみなぎり、今にも破裂しそうなほどだ。変化を感じるのはそれだけではない。視野が広がり、まるで新たな目が開いたかのようだった。意識を凝らせば、自分の背にある物ですら見ることができそうだった。耳の聞こえも良く、あらゆる音が耳障りなほど耳に入る。感覚が鋭くなり、肌に触る風の動きから、様々なことが読み取れる。部屋のそこかしこに魔力の気配が漂い残っていた。血が起こした瘴気と、グムトに掛かけられたホロの魔法、それから竜の力の気配だ。

 「竜の力など、人はどうして望むのだろう」エトの新しい体は涙を流さなかった。心はただ悲しかった。

 「竜イーンよ。望みの者が見つかると言っていたではありませんか」エトはヴィノの重みを少しでも感じようと体にぐっと引き寄せた。

 「チウダ」とエトは口にしていた。

 ヴィノの体に変化があったのはその時だった。体から瘴気が立ち上り、エトの腕をすり抜けるように身をすくめた。エトは慌ててヴィノの体を抱きしめたが、その力がかえって体の崩落を早めた。ヴィノの体はぼろぼろと崩れ、地に落ち、瘴気を上げ、なくなっていった。エトはどうすることもできず、ヴィノの姿が泥のように溶け合う凄惨な光景を黙って見ていた。

 気が狂いそうだ、とエトは思った。

 足下に残るのは、黒い染みだけとなった。骨ひとつ残さずヴィノの体は消えてしまった。エトは床の染みに、そっと手を合わせてみたが、床石の感触以外、感じ取れるものはなかった。

 エトは竜のように吼えた。

 垂れ下がる厚手の布に倒れ込むように部屋を抜け、長い毛足の絨毯に足を取られながら廊下を歩いた。いっそ自分も消えてしまえればと思ったが、竜の心臓に馴染み始めた体の調子は時間を経るごとに良くなるばかりだった。もう鼓動の高鳴りも気にならない。人の心臓よりも力強く動くその鼓動こそが、竜の心臓を身に宿した証だった。

 廊下の終わりまで来ると、エトは乱暴に扉を開いた。どこに向かうとも考えなかった。ただ歩みを止めたくなかった。

 扉の先は部屋の廊下に繋がっていなかった。エトは驚かなかった。部屋は塔のどこにでも繋がるが、だからといっていつでも繋がるとは限らない。エトはふらふらと塔の通路を歩き始めた。

 「止まれ」

 誰かが後ろから呼び止めたが、エトは立ち止まらなかった。恐らくグムトの衛兵であろう。お前たちの賢主は死んだ。ヴィノと同じように、今頃溶けてなくなっているかもしれない。

 「待てと言ってるんだエト」

 自分の名が呼ばれて、エトは振り返った。そこには三つの人影があった。ただし、立っている者は一人きりで、残りの二人は床に伏せっていた。

 「お前、こんなところで何をしているんだ?」ギリヤは言った。

 「グムトから心臓を奪ったのです」

 ギリヤは足早にエトの下にやってきたが、手に持った剣を構えたまま下ろそうとはしなかった。

 「まさかお前にやれるとは思わなかった」ギリヤは警戒こそ緩めなかったが、気安い調子で声をかけた。

 「剣を下ろしてくださいギリヤさん」エトは虚ろな目でギリヤを見た。

 「いえ、やはりそのままでいいのかもしれません。竜の心臓が必要なら持っていってください。僕にはもう必要ない物ですから」

 「中で何があった?」

 「ヴィノが死にました」

 「そうか」ギリヤは剣を軽く下げたが、その握りと構えから、いつでも剣を振り切れることにエトは気づいていた。

 「ギリヤさんから、竜の気配が感じ取れます。燃えたぎる炎のような力があなたを包み込んでいる。フォンリュウの加護を失ったという話は嘘ですね?」

 「竜の力を感じ取れるということは、グムトから心臓を奪ったという話しも本当だろう」

 「イーンの心臓ならここにあります」エトは破れた外衣の胸元をはだけ、心臓を露出してみせた。

 「心臓を手に入れたのならそれでいい。俺と共に戻ろう。そろそろ陽動部隊が引き上げるころだ」ギリヤはようやく剣の構えを解いた。

 「戻るつもりはありません。心臓が欲しければ、僕からえぐり取ればいい」

 「何を馬鹿なことを言っている。心臓を持ち帰るために俺たちはここまで来たんだろう。お前はかつて言った。砂漠を越える前の話だ。竜の死の秘密を探り出し、村の生活を良くするんだと。今ならそれができる。そうだろう?」 ギリヤの声には微かだが焦りが感じられた。時間がないのだな、とエトは思った。

 「こんな物が欲しくて、僕は村を離れたわけじゃない。竜の力はあまりにも呪われている。なくした以上のものが手に入るとは僕にはとても思えない。これから先、それ以上か、もっと多くのものをなくしそうです」

 「甘ったれたことを言うな。犠牲は覚悟のうえだろう」

 「自身を犠牲にするつもりで僕は計画に参加しました。しかし犠牲になったのは、僕の大切な人たちで、僕ではなかった」

 「聞き分けのない子供でいるつもりなら、その心臓もらいうけるぞ」ギリヤは剣を構え直し、エトとまっすぐ対峙した。炎を思わせる闘気がギリヤの体を覆うのが、竜の力を得たエトにははっきりとわかった。

 竜の心臓を差し出すためにエトはぐっと胸を張り、外衣の裂け目を両手で更に広げた。迷いはなかった。それどころか、早く楽になりたくてしかたがなかった。ギリヤは剣を突く姿勢で構えた。ギリヤの腕ならば、きっと楽に心臓をえぐってくれることだろう。エトがそう考えたとき、ギリヤの背後で扉が開いた。薄く開いた扉の隙間から、子供が一人、顔をのぞかせていた。子供はかすかな声でエトにつぶやいた。

 ギリヤの鋭い突きが飛んだ。

 焔の戦士の突きをかわせる者が、この地上にどれ程いるだろう。しかしエトはギリヤの突きをかわし、その手で剣の切っ先をつかんでいた。

 「ギリヤさんごめんなさい。やらなくてはならないことができました」エトは薄く開いた扉に目を向けながら言った。子供はもう扉の影に隠れて見えなくなっていた。

 「化け物め」ギリヤは全力で剣を動かそうと努めたが、エトのつかむ剣の切っ先はぴくりとも動かなかった。ギリヤは己に宿る竜の力をすべて解放した。が、フォンリュウの加護の力をもってしても、竜の心臓を宿す者にはまるで刃が立たなかった。

 「もうすぐ廊下の向こうから衛兵たちが大勢来ます。うまく逃げてください」エトは鋭く研ぎ澄まされた聴力でそのことを知ることができた。それから剣先をつかむ手に少し力を込めた。竜の心臓が光りを帯びた。ギリヤの剣が玩具のようにふにゃふにゃと曲がった。

 「お前の好きにしろ」ギリヤは折れ曲がった剣を投げ捨てながら言った。

 エトはひとつの扉の前に歩み寄り、その持ち手に手をかけた。考えるまでもなく、その扉の向こうはあの部屋につながっている。

 何もかもを諦めるのはまだ早い。エトは、子供の告げた言葉に望みを繋ぐことにした。

 ――ホタノ姉ちゃんが呼んでいるよ。見つけたって呼んでいるよ。

 エトは思い出していた。葬儀穴の儀式で殺されたはずのダリアが、あの部屋にいたことを。ヴィノはまだ生きている。少なくとも、あの部屋に辿り着いていることを期待することはできるはずだ。エトはヴィノを迎えるために再び扉を開いた。

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