6 ヴィノ

  たくさんの手に押さえ付けられながら、政治人の娘を見上げていた。

  彼女は竜の子の儀礼を引き合いに出しながら、

  土と血に汚れた祭司服をまくり上げた。

  膝こぞうから引きずった汚れが、太ももまで伸びていた。

  私の血を舐めなさいと娘は言った。

  私は本物の竜にでもなったつもりで彼女の傷口にかみついた。

  血は、油よりも少しだけましな味がした。

  


 花のむせるような匂いが満ちていた。それは精製途中の油が漂わす独特の甘い香りに似ていた。

 エトはモズルの木の根元に横たわっていた。

 太陽の眩しい光が斑に届いていた。頭上には空の青を縫って、細い枝木が広がっている。木は、部屋に生えていた木と同じように見えたが、葉の落ちた枝木は骨のように頼りなく、まるで生きた気配がしなかった。この木が、ホタノが枯れると言った外の木だとして、いったい誰が、どのような理由で彼女たちの木を欲しがるのだろうとエトは思った。

 ぐちゃぐちゃと不快な地面を支えにしつつ、エトは立ち上がった。

 手足に張り付いた花弁や液がずるりと垂れた。

 大地は腐っていた。

 酸味のある匂いが鼻腔に届き、嘔吐きそうになる。

 手のひらは血を思わせる花の液で染まっている。

 葬儀穴の内で行われた儀式を思い返さずにはいられない。ダリアは、あのとき確かに死んでいた。剣を胸に突き刺されて生きていられる人間などいるはずがない。グムトは血の流れをよくするために、二度も娘を刺した。にもかかわらず、ホタノが呼び寄せた少女はダリアだった。彼女はあの奇妙な部屋で生きていた。

 エトは、向かうべき方向もわからぬまま歩き出した。足取りは重かった。部屋で感じた妙な体の重さは消えていたが、単純な疲れのために体が気だるかった。どれだけ歩いても生き物の姿を見かけなかった。小動物はおろか、鳥の一羽すら空を横切らない。森の草木はどれも奇妙な形状をしていて、そのすべてが死んでいた。腐った果実の重みに耐えきれず枝を曲げた樹木は、白骨のように色を変え、樹皮がめくり上がっていた。

 森の中を百歩も歩かないうちに、この森が忘我の森であることをエトはほとんど確信していた。忘我の森に立ち入った者は気を狂わすと言われている。しかしエトは、自身の気が狂う心配を覚えなかった。――この森は、もう死んでいる。人の気を狂わす力も失われているに違いない。

 森の終わりは存外早く訪れた。行く手を阻む茂みがほとんどなかったからだ。森を抜けてようやく、当てずっぽうに選んだ道が正解であったことを知った。エトは、大穴の外縁を辿るようにして帰路を急いだ。太陽はいよいよ天辺に近づきつつあり、時刻は間もなく昼をまわりそうだった。

 ヴィノはまだ下宿で帰りを待っているだろうか、とエトは考えた。仕事の開始時刻はとうに過ぎている。エトの帰りを諦めて仕事に出ているとしても不思議ではない。ヴィノのことを思うとエトの歩みはますます早くなった。下宿へと下る道に足をかける頃には、ほとんど息切らせるほどの速度で駆けていた。

 「戻りました」と小さな声で言いながら、エトは下宿の表扉を開いた。食堂を見回しても。昼飯目当ての客が一人二人いるかぎりで、そこにヴィノの姿はなかった。食事を待つ年老いた油人の一人が、今日は仕事じゃないのかい、とエトに声をかけたが、エトは空返事をひとつしたきり、厨房に足を運んだ。

 厨房は穏やかだった。食材の刻まれる音や、鍋のことことと動く音が一定の調子で聞こえる他は話し声ひとつ聞こえない。昼時は食堂にとっても中休みの時間だった。油人たちは朝早く大穴の奥底に弁当を携えて潜っていく。次に食堂の忙しくなるのは、彼らが引き上げてくる夕方時だろう。

 リシアは、大鍋の蓋を持ち上げて味を見ているところだった。彼女は目ざとくエトの姿を認めると、手伝いの者に指示をあたえるなり、エトの方にやってきた。ぞんざいに前掛けを脱ぐと、手近な椅子の背にかけた。静かな表情とは裏腹に、その荒々しい動作からリシアが怒っているようだとエトは感じた。

 「エト、あなたがどこで何をしていようと、私にとやかく言う権利はないわ。でもね、人並みに心配はするのよ」リシアの声はよく自制されていたが、その代わりに冷ややかだった。

 「すみません」エトは謝るほかなかった。

 リシアは、エトの目を数秒覗き込むと、くるりと身をひるがえした。

 「お腹は空いているの?」

 「ええ、とても」

 「そう」リシアは、食器棚から大きめの深皿を引き出すと、無駄のない動作で鍋から汁物をよそった。

 「ヴィノはどこです?」エトは服の汚れを気にして、厨房の中に入ろうとしなかった。

 「ヴィノ?」リシアは、困惑した面持ちで答えた。

 「あの子は今日、ここに来ていないわ」

 「じゃあ、昨日のうちに帰ったということですね?」

 「いいえ、エト。ヴィノは昨日もうちに寄ってはいないの……」

 リシアの答えをすべて聞かぬうちに、エトは厨房から飛び出していた。

 昨日からヴィノが顔を出していない?それならばヴィノは、どこにいるのだろう。もしかするとヴィノは、僕の頼みに腹を立てて、知らんぷりすることに決めたのかもしれない。でも、ヴィノが人の頼みを放っておくだろうか。ヴィノか、ヴィノの家族に何かあったと考える方がよほど自然だ。

 エトは下宿の表扉を勢いよく開き、飛び出していったが、次の瞬間には、同じ勢いで扉の内側にはじき返されていた。思いきり打ち付けた腰をさすりつつ、体を起こした。

 真昼の太陽を背に二人の男の姿があった。

 「小僧、いったい何をやらかした?」カデッサはものすごい剣幕でエトに迫った。エトの胸ぐらをつかむと、ぐいと引きつけ、再び突き放す。

 「今まで、誰の指示でどこで何をしていた。さあ言え!」

 「やめなさい」リシアが食堂から駆けつけたが、カデッサは相手にしなかった。カデッサはエトを強引に立ち上がらせると、そのまま壁に押しつけた。その横でギリヤは腕組みをして様子をうかがっている。エトはギリヤと目を合わせたが、ギリヤは黙って首を横に振った。水族の人間なら今にもチウダと言い出しそうな顔をしている。

 「葬儀穴の警備が突然物々しくなったと思ったら、忘我の森が枯れた。枯れた森を見張らしていると、何と森から出てきたのはお前じゃないか」

 エトは言い訳を試みようと口を開きかけたが、首を押しつける腕の力がさらに加わり、ひゅうと苦しい息しか出てこなかった。

 「まだある」カデッサの顔には青筋がいくつも浮かび、エトの体を半ば持ち上げる腕はわなわなと震えている。「塔から今朝発表があった。グムトの娘のダリアが賊の侵入により殺され、その下手人としてお前と仲の良い娘の名前が挙がった。聞くとお前たち二人は昨夜から戻ってないと聞くじゃねぇか。さぁ、知っていることを全部言え。お前のおかげでイーンの警戒は最悪だ。そこらじゅう魔術師の影で溢れかえっている」

 カデッサはようやくエトを離した。エトは床に転げ落ち、咳き込みながらカデッサを見上げた。ギリヤが丁度良く椅子を引きずって来て、カデッサはどさりと腰を下ろした。

 「ヴィノが捕まった?」エトは、リシアを見て尋ねた。

 リシアは、とても残念そうな表情をして、うなずき返した。

 「そんなはずはない!ヴィノは僕の頼みを聞いて先に戻ったはずだ。それに、ダリアを殺したのはグムトだ」

 「小僧!」カデッサが拳を握りしめ立ち上がった。

 「隊長、あんた頭に血が上りすぎている。最後まで話を聞こう。エトは確かに何かを知っているみたいだが、何もかもがこいつのせいだと言うのは気が早い」

 ギリヤは鼻息の荒い二人を椅子に座らせ、さあ話しを聞こうじゃないかと凄んだ。ギリヤは激昂するカデッサとは違い落ち着いていたが、まるでエトが敵であるかのようにするどい視線を向けていた。

 エトは、ヴィノと共に葬儀穴に潜り込んだこと――そしてその際にヴィノを送り返したこと――を説明し、グムトとホロが行った血の儀式のことを話した。それから、ホロに見つかり必死に逃げたことと、どこか穴の深いところに落ちた話をした。そこでエトは話を端折った。エトは不思議な部屋とホタノの存在を隠すことに決めた。ホロの目から隠れられる場所が塔に存在するとわかれば、カデッサはたちまち利用しようとするだろう。望みの物がついに手に入るのだ。ホタノの話を聞く前ならば、その望みはエトも含めた仲間全員の望みだった。ところがホタノの提案はイーンの都市を破滅に追い込むものだった。カデッサはそれを良しとするかもしれないが、エトはそれを認めなかった。

 エトは、穴に落ちた際、頭を強く打ちつけたようなのだと説明し、竜の夢を見て、気がついたら忘我の森で目を覚ましたのだと続けた。

 「穴から落ちて、気がついたら森にいました、だと?お前じゃなければとても信じられん話だぞ小僧」

 「砂漠で瀕死の傷を負った子供が、ファで一日以上の距離を隔てた都市で見つかるよりはまだ説得力がある」ギリヤは肩をすくめてみせた。

 「お前が見たものが本当なら、竜の心臓はグムトが握っている。面倒だが、狙いの物がどこにあるかわかっただけ良しとしよう」カデッサは椅子の背にもたれ、頭をぐっと上向けた。「グムトに近づくには魔術師を遠ざけねばならん」

 「ヴィノはどうなったんですか?」エトは尋ねた。

 「お前の友人は牢獄にぶち込まれている。おそらくお前を追って葬儀穴に潜り込んだところを捕まって、ダリア殺しの下手人に仕立て上げられたんだろう。賊の侵入を装うにしても、子供相手では無理のある話だが、昨日、塔に子供が紛れ込んだことは確かな筋から伝わっている。都合の良いことに大勢の衛兵がダリアの部屋から現れた子供を目撃したらしい」ギリヤは鋭くエトをにらんだ。

 エトは何もわからない態度をとることに注意した。なぜなら彼は塔に忍び込んでいないことになっているからだ。

 「実の娘を殺すくらいだ、子供を走らせるぐらいするだろう。一人でも奇妙なもんを見れば、その噂は瞬く間に広がりをみせる」カデッサが鼻で笑った。先ほどまでの激情をすでに抑え込んでいる。

 「ヴィノはどうなるのでしょう?」

 「処刑か、やつらに情があれば幽閉だろう」ギリヤは言った。

 「そんな」

 「それがグムトの筋書きならしょうがあるまい」カデッサはもはや上機嫌だった。葬儀穴に増強された衛兵が、自分たちの計画とは無縁であることがはっきりし、さらには望みの物の在処もわかったからだ。

 「助けにいかないと!」エトは声を荒らげた。

 「どうやって」カデッサが嘲るように言った。

 ギリヤは、黙ってエトを見ていた。

 「わかりません」エトはそう答えながら、再びあの部屋を訪れることを考えていた。カデッサたちの力を借りずにヴィノを救い出すためには、ホタノの力を頼るほかない。

 「見張りをすべて引き上げろギリヤ!枯れた森も、心臓の失われた葬儀穴も、もう見張る必要はあるまい。竜の心臓が森を維持していた。まったく素晴らしい力じゃないか!」

 「それで、どうする?」ギリヤはカデッサの言葉に耳だけを傾けた。彼の意識の半分は未だにエトの様子を探っていた。

 「グムトを殺る。そのために派手に騒ぐ」カデッサは髭面を歪めて邪な笑みを浮かべた。

 

 ***

 

 窓の外に、ぽっかりと丸い月が浮かんでいた。いつもの見慣れた月ではなかった。魔術師の月だ。油の絞りかすの色をした、大きな、まん丸の月だった。月の表面を覆う多量の痘痕からは、ほんのりとナララの実のような赤い光が滲んでいる。

 ヴィノは鉄格子越しに月を眺めて、大きくため息をついた。窓の外は、ずっと夜だった。たぶん、夜であっているのだと思う。月が出ているから夜だと判断しているが、星もないのに空は明るく、刻々と変化する空と月の色味以外、景色に目立った変化は訪れない。

 私は魔術師の牢獄に囚われている。でも、どうして?

 ヴィノには、そのような特別の待遇を受ける理由がわからなかった。立ち入りの禁じられている葬儀穴に潜り込んだのだから、捕らえられたことには納得がいく。でも、どうして魔術師の創り出した空間に囚われているのだろう。ヴィノは、牢獄というものを話に聞いているだけであったが、それでも自分が今いる空間が人々が語る牢獄とはまるで成り立ちが違うことくらい、すぐにわかった。油衆の荒くれ者たちが語る牢獄には、魔術師の月も、影のような実体のない獄卒も、宙に浮かぶ牢獄も決して出てこない。

 ヴィノは目の前の格子に顔を押しつけるようにして、外の様子をうかがった。牢獄は浮遊していた。上にも下にも、同じような石組の構造物が見て取れる。きっとあの場所から見れば、自分も似た様な物の中に入っているのだろう。牢獄のどれにもエトはいないと魔術師は言った。それでもヴィノは、エトが近くの牢獄に入っていることを夢想せずにはいられなかった。

 「その少年はここにはいない」

 魔術師はヴィノの額にかざした手を引っ込めるなり、そう答えた。魔術師はヴィノにどんな質問もしなかった。にもかかわらず、魔術師はただ手をかざすだけで知りたいことをすべて知った。

 ヴィノははっきりとしない頭の内に、波紋のように波打つ意識の変化を感じた。心に何者かが入ってきて、様々なことを問いかけていった。それはまるで自分の声のように響いたが、実際には魔術師の謀った言葉だった。ヴィノは魔術師の言葉に抵抗することができなかった。竜の次に強い言葉の持ち主なのだから、魔術師の問いかけに対抗することなどできはしない。それでもこうして意識がはっきりしてくると、そのことが無性にくやしく、また心配の種となった。私はエトのこともしゃべってしまったのだろうか?

 ヴィノはエトの背中が通路に吸いこまれていくまで見送るとエトの腰袋をひっさげて元来た道を大人しく戻っていった。道々、それまでのやりとりを思い返しては、エトの横柄な態度に悪態をついた。

 エトが自分をのけ者にしたことがあっただろうか?私のことが心配だとエトは言う。でも、そんなのって勝手だ。

 照明の不安定な採油道は一人で歩くには寂しい道だったが、生まれた時から穴蔵育ちのヴィノの気にはならなかった。ヴィノはとにかく怒っていた。エトの態度に傷ついたことを隠すために怒っていた。

 なにさ、エトのやつ!

 道々転がる廃材やレール留めなんかを力任せに蹴飛ばしながら大股で歩き戻ったヴィノだったが、昇降機に乗り込んだところで、エトのことが心配で堪らなくなった。

 このままいなくなったりしないだろうか。ある日突然、不思議な力がエトをこの都市に導いたように、いなくなる時も、魔法のように消えてしまうかもしれない。

 やっぱり私も付いていくことにしよう。エトがなんて言ったって知るものか。そもそも油人は、大穴の中で一人になってはいけないものだ。暗い闇の底ではどんな危険が待ち構えているかわからない。勝手知ったる作業場ですらそうなのだから、見知らぬ通路などもってのほかだ。

 ヴィノはエトの下に引き返す間、十も二十も言い訳を思いついてみたが、結論はすべてエトの安否の気遣いに落ち着いてしまった。通路の入り口に戻り着く頃には言い得ぬ不安に胸がどきどきと高鳴るくらいだった。

 身をかがめて通路に潜り込むと、ヴィノはすぐに異変に気がついた。通路の奥底から、光が迫ってくる。それも赤や、緑に色の移り変わる落ち着かない光が。

 いったい何が起こっているのだろう?

 気持ちは急いたが、通路の先から届く光は、ヴィノの手足下を照らすほど明るくはなかった。

 「そこでいったい何をしておる?」

 幻聴が聞こえたのは、光が息苦しく感じられるほど色濃く変じた時だった。突然の呼びかけに、ヴィノは体を強ばらせ、通路の壁に頭をぶつけた。いくら目をこらしてみても声の主は見つからなかった。

 「答えられぬのか?」

 声は、またヴィノに問いかけた。ヴィノは奥歯をかみしめるように口をつぐんだ。どうして姿も見せぬ者の声に応えることができよう。

 「それもよかろう……」

 謎の声は、大きくも小さくもならなかったが、声の主が段々と近づいてくるような不思議な感覚があった。ヴィノは恐れおののいた。彼女の目に映る世界は、今や赤く煙る霧のような光だけになっていた。

 人の気配が、ヴィノの背後にあった。

 百の目にも見つめられているような感覚が彼女を襲った。

 ヴィノは振り返った。

 そしてそこに、赤い光に照らされた自分自身の影を見た。

 

 牢獄の中では、時間の流れがまるでつかめなかった。ヴィノは定期的に眠気を催し、実際に眠り込みもしたが、それは日の移ろったためというよりも、頭の芯がぼやけるような病に似た眠りの感覚に襲われたからだ。

 こうして眠りに落ちるのは何度目のことだろう。抗いがたい眠気に襲われたかと思うと、次の瞬間には何事もなかったかのように目覚めている。通路のときもそうだった。自身の影を見たかと思うと、すぐに眠りがやってきた。

 あれは、魔術師の魔法だったのだろうか?

 そう考えると、ヴィノは自身の影が気になり始めた。色の薄くなったように感じられる影をそっと撫でてみても、当然のことながら、牢獄の冷たい床石に触れるばかりだ。

 影を取られた人間はどうなってしまうんだっけ?

 ヴィノは影にまつわるおとぎ話を思い出すことができなかった。油人区で語られる物語は、すべて土の底にまつわるお話で、差異に乏しく、語る人間によって細部にまとまりがなかった。地表で語られるような、子供向けのお話――天高く舞う竜や、魔法や、異境の都市を巡る冒険――からは縁遠く、油人の生活を教え込むような面白みに欠ける話しばかりだった。

 月が欠ける頃、魔術師が姿を表した。

 「始めに言っておくが、お前さんを出すことはできない」ホロは開口一番そう告げた。「もちろんエトとかいう小僧もわしらの手元にはおらん。探してはおるが、煙のように消えてしもうた。誰かがわしの目を曇らせているのかもしれん」

 「どうして」エトの名を知っているのか、とヴィノは言いかけたが、目の前に立つ老人が、イーンの魔術師を束ねる長であることを思い出し、口をつぐんだ。魔術師を相手に心を隠すことなど不可能だ。ヴィノはとっさに、自身の影をかくまった。

 ホロは、きょとんとしてその様子を見やったが、やがてその行為の意味するところに気がつくと、誰もお前さんの影など取りはせんよと笑った。

 「お前さんに客人を連れてきた。どうしてもお前さんに会うといって聞かなくてな」ホロは、空を撫でるように手を動かした。魔法の光が手の軌跡を追うと、そこに一人の男が現れた。

 「賢主様」ヴィノはイーンに住まう者として、自然と頭を下げていた。

 「かしこまる必要はない」グムトは支配者らしく言葉を発したが、その実、体に取り入れた竜の心臓が悪さをする苦痛を堪えていた。

 「はい、賢主様」ヴィノはなかなか頭を上げることができなかった。

 「なぜ、お前が牢に囚われているかわかるか?」

 「禁じられた場所に立ち入ったからです」ヴィノはようやく頭を上げたが、グムトの隣にいるはずの魔術師はいなくなっていた。

 「禁を破れば罰もあろう。しかし、お前がここにいる理由はそのためではない」

 グムトの声はイーンを統べる者らしく老成していたが、その容姿はまだ青年と言っても差し支えないほど、若々しく見えた。油人の中でヴィノほど間近に賢主の姿を見た者はいないだろう。油人は、いつだって遠くの、豆粒ほどの姿を生活区の人々の背中越しに覗き込むしかなかった。

 「お前のことは調べさせてもらった。かつて竜の子であったと聞くが本当か?」グムトの目はまっすぐヴィノの目を捉えていた。ヴィノは、恐ろしさと気恥ずかしさのために何度も瞬きを繰り返したが、それでも視線をそらすことはできなかった。

 「本当です賢主様。私は竜の子で、賢主様に御目通りを許されたこともございます。私は人々の安寧を願い、竜のご加護の返礼のために選ばれた誉れ高き捧げ物です」

 「それとて過去のこと。竜が死した後、この地は竜に子を差し出すべき理由を持たない」

 「その通りです、賢主様。竜は身罷り、この地は賢主様と教主様の御力で豊かさをなくさずにすんでいます」ヴィノは深々と頭を下げた。

 「予の力か」グムトは喉から絞り出すように声を出した。

 グムトは心臓のある位置をつかみ、顔をしかめたが、頭を下げていたヴィノはグムトの苦しそうな表情を見ていなかった。

 「豊かさに変わりがないと、本当にそう言えるか?」

 「もちろんです賢主様。生活は慎ましくも変わりありません。私たちは賢主様の庇護の下、豊かな大地に生きることを許されています」ヴィノは答えたが言葉の歯切れが悪かった。ヴィノの言葉を迷わせたのは離心病に罹った両親の存在だった。竜が死んだから、病が流行ったと噂される。人々が暗にその病を竜の呪いと呼ぶことをヴィノは知っていた。

 「油の衆が生きる場所は、より大地の核に近い……」

 グムトが顔を月に向けたので、ヴィノはその横顔をよくよく眺めることができた。病み上がりのように目は落ちくぼみ、頬は痩けていたが、顔の皺の少なさや、凛々しさから、齢三十よりも上にはとても見えなかった。ヴィノの年の近い兄と呼んでも疑う者は少ないだろう。

 「両親のことは聞いている。使いをやって、ホロに見させよう」

 「はい、賢主様」

 「地の毒は人を狂わす。予の力も未だ大地の底までは届かぬ」

 「大穴に毒があるのですか?私たちはずっと平気でした」竜が死ぬまでは、という言葉をヴィノは飲み込んだ。「両親の病状を見て竜に魂を抜かれたのだと言う者もいます」

 「竜は死んだ。よって魂を抜くものもいない。お前が忍び込んだ場所にこそ、毒の源があったのだ」

 「葬儀穴にですか?葬儀穴に毒があるのですか?」

 「慌てるでない、娘よ」グムトは眉一つ動かさず淡々と言葉をついだ。「毒は消えた。すくなくともあの場からは退いた」

 「賢主様が毒を消してくださったのですか?」

 「予の力ではない」グムトは言い、心臓の辺りに指を突き立てた。

 「だが予の持つ力ではある」

 「ありがとう……ございます」

 「お前の案じている少年も、見つけ次第無事に家に帰すことを約束しよう」

 「エトを?」

 「その者には、いくつか問いたださねばならないことがある。だが、答えさえもらえればその者を捕らえることはしない。お前は、少年に続いて廃棄された通路に潜り込んだ。隠さなくてもいい。魔術師の目から心を隠すことなどできはしない」

 「その通りです」

 「よろしい」グムトは父のように言った。「しかしホロに探らせても少年は見つからなかった。魔術師の目をかいくぐることができる者がこの都市に存在しえようか。お前の心に浮かぶ少年は、どうやら塔で見つかったようだ。見つかって、再び煙のごとく消えてしまった」

 「エトは無事なのですね……」ヴィノはエトが塔に現れたと聞いても驚かなかった。エトならばそんなこともありえると思えたのだ。

 「油衆たちは塔に繋がる秘密の道でも知っているのか?」

 「いいえ賢主様。そのような道を私たちは知りません」

 「そうであろう。私もホロも知らない道があろうはずがない。かつて塔の地下からは、たしかに大穴へ通ずる道が続いていた。それは地下深く隠された道で、塔の呪に関わる者しかその存在を知らなかった。しかしその道も予がまだ幼き頃に崩れてしまった。道を知らぬ者がどうして塔に入り込めよう」

 「わかりません」

 「だがその者に聞けばわかる。ホロも知りたがっている。あやつの目をすり抜けた者の正体を確かめたいのだ」

 「エトはただの子供です」ヴィノは語気を強めた。「私とそう変わるところがありません。仕事もまだ一人前じゃありません。私とエトとで一人前なんです」

 「そう力まなくてもいい。その者が隠し立てをしていると言うつもりはない。それでも予は知っているのだ。子供の姿とて、その魂までが子供だとは限らないということを。巧妙なものは上手く姿を隠すことができる。お前の友人に、何かが巣くっていると考えることもできるのだ。力に長けた魔術師ですら見逃すが取り憑いているともな」

 「エトを許してください」ヴィノは、なぜ許してくれと頼むようなことを言ったのか自分でもわからなかった。

 「許しを請うべきは予の方だろう。イーンの竜は死んだ。大地の摂理に従えば、我らは滅び行く定めであった。力には犠牲を……」

 「犠牲には糧を」グムトに促され、ヴィノは言葉の続きを引き取った。

 グムトは祈りの言葉に続く一礼をした。

 「イーンは世界のどこよりも孤絶している。予は、この手で都市を維持する必要があった。予はこれまで多くの犠牲を捧げて、都市の安寧を実現してきた。竜は死んだ。予はこれを最後の捧げ物とした。そのつもりだった。ところが、予の差し出したつもりの犠牲だけでは、代償として不足があることがわかったのだ」

 「代償を知る者はなし。捧げられるだけを捧げよ」ヴィノは祈りの一節を引用した。

 「かつて竜の子であった娘よ。予はお前に頼まねばならん。イーンを生かすために、血を流す覚悟をつけてもらいたい。此度のことは祭事にあらず。真の血を流し、竜を生かす糧と変わるのだ」

 「竜は死んだのではないのですか?」

 「竜は、ここにいる」グムトは賢主の外衣を矧ぎ、その胸を露出させた。グムトの少年のような胸元に、炉のように熱せられて見える光が肉を透かして蠢いていた。光は血脈となり、心臓部から体の内に枝を伸ばしていた。生命の脈打つ力強い光が、牢獄を隅々まで照らした。

 「嫌……」ヴィノは思わず後ずさった。

 心臓が、不揃いに脈を打つ。そのたびに命の光が零れ出る。ヴィノの体は恐怖のために小刻みに震えた。にもかかわらず、目をそらすことができなかった。光に脈打つ心臓は美しくすらあった。

 「こう見えて鼓動は止みつつある。心臓の死は、イーンの終わりと同義だ。予は、都市を維持するために竜の力を物にしなくてはならない。この身を捧げてすむのであればそれが良かった。しかし心臓はここにあり、予は他者の犠牲を喰らう他ない」

 「私を喰らうのですか?」

 「イーンのため、両親のため、少年のために」

 グムトは外衣を羽織りなおし、心臓を覆い隠したが、ヴィノには衣を透かして脈動する心臓が見えるようだった。

 「もともと竜の子に選ばれた人間には素質があるのだ。犠牲として竜の鼓動を生かす素質ではあるが、他の人間では替えがきかないことは確かだ。今や竜の子は祭事を司るに過ぎぬ。だが、その役割を始まりから変じていない。お前はイーンの秘密を知ってしまった。その場に出くわしたことを運命さだめと思ってはくれないだろうか」

 グムトは両手を椀の形に組み、ヴィノに向けて差し出した。それは、ヴィノのよく知る竜の子の儀式のひとつだった。

 グムトの瞳が異様な煌めきを帯びた。

 抗うことはできなかった。

 「私の血は水に変わり、皆に分け与えられる」ヴィノは震える手を伸ばしながら言った。

 「祝福されし子の血が、大地を潤す」グムトは祝言を述べた。

 ヴィノはグムトのかざした椀に水を注ぐ仕草をした。

 グムトは厳めしくその水を飲んだ。

 「血は水に変わり、私たちを永遠に生かすだろう」

 

 ***

 

 夕空の下、エトとギリヤは、エトがヴィノの両親の薬をもらいに行く必要があると主張したために、市場の目抜き通りを薬屋に向けて歩いていた。エトは、裏道を使うべきだと主張したが、ギリヤは笑って取り合わなかった。

 「異境の二人が、裏道を歩いてどうする。かえって怪しまれるぞ。フォンリュウではそのような二人組は警邏に見とがめられる」

 ギリヤは薬屋の前まで来ると、用事が済むまで外で待つと言って日陰にある壁に背を預けた。エトは一人で薬屋に入っていった。

 「お前さんか。そろそろ姿を現すと思っておったぞ」エトの力に味をしめた店主は快くエトを迎えた。

 店の棚板の上には真偽のわからぬ<濁石アウモ>の欠片が小山となって積まれている。きっと儲けが上がっているのだろう、訪れる度にその山の高さは増していた。店主が、わざと薬の量を少なく渡すことによりエトの訪れる頻度を上げようとしていることに気がついていたが、薬代をずっと安く負けてくれているので不満を言うつもりもなかった。

 「離心病の薬をください」手袋を外し、石に手をかざしながらエトは頼んだ。

 「あの薬はよう効くじゃろう」

 「ええ、そうですね」薬の効果がどれほどのものか、エトにはわからなかった。いつ見ても二人の反応に快復の兆しを見ることはできなかった。時にはより悪くなったと思わせる日もあったが、ヴィノは薬のおかげで良くなってきていると言い張った。

 「これで終わりです」エトは素早く仕分けを終えた。

 「ほほ」店主は右と左に仕分けられた石の小山を見て、手を擦り合わせた。エトが、より大きな方の山が本物だと告げたので機嫌も良い。黒く重そうな鉄鉢を手元に引き寄せて、そこに仕分けたばかりの<濁石アウモ>をかつんと落とした。

 「今作ってやるから待っておれ」そう言うと店主は巨大な鉄の棒を振り下ろして、<濁石アウモ>をすりつぶしはじめた。エトは店主の行動を見て苦い表情を浮かべた。

 「それが薬なのですか?」とエトはたまらず尋ねた。石の選定屋を自称しておきながら、まったくおかしな質問だった。店主は片方の目をこちらに向けた。

 「おかしなやつじゃ。<濁石アウモ>は万病に効くでな」

 そんな馬鹿な、とエトは思った。もしかしたら口をついて言葉が漏れたかもしれない。

 店主は一層、怪訝な顔をして言った。

 「<濁石アウモ>には万の命が宿っておる。昔から魔術師どもに重宝されておったろう。こんなところに回ってくるのは、屑か偽物まがいの物ばかりだが、すりつぶして飲む分には事足りるだろうて」

 エトは暗い気持ちになった。<濁石アウモ>が薬になるなんて考えたこともなかった。魔術師が石を光らせて遊ぶと聞いたことがあった。都市の連中を飾り立てる宝石の類いに変わるのだとうそぶく者もいた。しかし<濁石アウモ>がどのように利用されようとも、村人にとっては、僅かばかりの食料に変わる、ただのくすんだ石ころに過ぎなかった。その石を探すために、村人は毒の川に身を沈めているというのに、その代わりに得られた物が、誰かの命を埋め合わせるというのか。<濁石アウモ>を得るために村人たちは、いったいどれ程の物を捧げているだろう。村の男たちは四十も生きれぬというのに、彼らはまるで都市の人々を生かすために死んでいくようではないか。激しい怒りがエトの中で渦巻こうとしていたが、かといって<濁石アウモ>の産地が、故郷の村ばかりではないということに気がつく分別は残されていた。

 「その石がどこから採れるかご存じですか?」とエトは震える声で尋ねた。

 「はてな、常夜の国から運ばれてきたと耳にするくらいだ」店主は一心に石をつぶした。 店の中には、ごりごりと石をつぶす固い音だけが響いていた。まるで骨でも砕いているようだとエトは思った。北の蛮族たちは、人の臓腑を薬として用いると聞く。片や都市に暮らす者たちは、愚者の命を吸った石を砕いて薬に変えている。

 「買えなかったのか?」薬屋から出てきたエトの暗い顔を見てギリヤは尋ねた。

 「いいえ」エトは薬包みの入った袋をかざしてみせた。今ではその粉の入った袋が嫌に重みをもって感じられる。

 「イーンの都市以外にも離心病は存在しているのでしょうか?」

 のろのろと路地を歩きながらエトは尋ねた。

 「離心病は触れの病と他の都市では呼ばれている。竜の呪に触れると言うわけさ。だから、フォンリュウでは離心病はない。フォンリュウは呪で触れる前に人を焼き殺してしまうからな」

 「ギリヤさんは<濁石アウモ>という石をご存じですか?」

 「魔術師の石だな。魔術師の少ないフォンリュウでは売り物になりはしないが、その代わりアズライの商人に高く売れる。なんでもペネリネの深き森でしか採れないと聞く」

 「僕の村でも採れましたよ。ギリヤさんの言うとおり高値で売れました」少なくともわずかばかりの村人が糊口をしのげる程度には。

 「その石がどうかしたのか?」

 「<濁石アウモ>をすりつぶした物がここにあります。何でも、万病に効く薬なのだそうです」

 「そうかい。知らなかったな」

 「この石を採るのがどれ程大変か知っていますか?」

 「すまないが」

 「水族の人間は石のために死んでいきます。彼らは自分の子供が成人するほどには長く生きられないのです。石が採れる川は、死の川と呼ばれるほど毒性の強い水が流れているからです」

 「だからこそ高値で取引されるんだ」ギリヤは吐き捨てるように言った。

 「これでどれ程の人が助かるのかわかりません。でも、捧げた犠牲に対して、救われる人間の数が多いようには思えません」

 「お前の言いたいこともわかるがな、エト。その逆にしたって醜悪なのは変わりない。生き残る人間は多くの犠牲を喰らっているんだ。今更そのことを言っても始まらないさ」

 夕日が視界のすべてを赤く染めていた。もうすぐ夜の時刻だというのに市場の喧噪は衰えをしらなかった。エトは道の中央をやって来る二頭立てのファの荷車を見て、砂漠越えの犠牲になった自身のファを思い返した。あいつの羽根は硬く、よく風を切って走った。ギリヤの言う犠牲とは何も人ばかりのことではないだろう。ファを始めとして、たくさんの動物や、大地が今のエトを形作っていた。代わりに僕は何を返しているのだろうとエトは考えたが、答えはまるで浮かんでこなかった。

 市場の終わりに近づくと、ギリヤは用事があると言って、一人どこかに向かった。

 市場通りの雑踏に溶け込み、ギリヤの姿はすぐに見えなくなった。

 エトは、ギリヤを見失った辺りをしばらく眺めていたが、やがて大穴へ戻っていった。


 ヴィノの部屋は空っぽだった。ヴィノはもちろんのこと、彼女の両親もマドゥ婆すらもいなかった。人も、家具も、部屋にあった物は何ひとつ残されていなかった。

 エトはがらんとした部屋の中心で途方に暮れた。

 「上から下りてきた連中が、みんな運びだしていったよ」

 エトが振り返ると、アグノアが腕組みをして立っていた。

 「あっという間だった。連中、普段こんなところまで下りてきやしないのにね、まるで道を知っているかのようだったよ。いつだってそうさ。あたしらのことなんてまるで興味がないと地面に唾を吐きかけながら、それでいて目をそらすことができないでいるのさ」

 「上の連中?」エトは呆然と尋ねた。

 「魔術師かぶれのいけ好かない連中さ。教導舎の下っ端で、あたしらよりも風体が怪しいときてる。油の代わりに衣を染めるのは竜の血だともっぱらの噂さ」

 「教導舎の人間が、なぜヴィノの家族を連れ出したりするんです?」

 「さあね。何でも魔術師が面倒を見るんだって言ってたよ。放っておきなと言っても聞きやしない。ヴィノに許可を取ったのかと尋ねると、問題ないの一点張りさ」アグノアは苛立ちをごまかすように、二の腕の上でしきりに指を動かした。「ねえエト、あたしは別にあんたを責めているわけじゃないんだ。でもね、あんたたち二人が仕事に来ないと思ったら、ヴィノは捕まって、あんたは行方知らずさ。あんたが帰ってきたと思ったら、今度はヴィノの家族が消えちまった。一体全体どうなっているんだか私にはちっともわからないよ。少しは教えてくれてもいいんじゃないかい。力にだってなれるかもしれないよ」

 「すみません」謝ることしかエトにはできなかった。これまでのことも、これからのことも、イーンに暮らすアグノアたちの生活を脅かすことに繋がる。そんなことを、どうして説明できよう。

 「言いたくないなら、別にかまやしないけどね。あたしはあんたの預かり役だからさ。こんな時くらい役に立たないで、何が採油頭なもんさ」アグノアの言葉には、非難めいた感じがまるでなかった。

 「それは薬かい?」アグノアはエトの抱える薬包みを指さした。

 「そうです。でも、必要なくなってしまいましたね」

 「そうだね、もう必要ない。どうしてそんな話しになったんだろう。魔術師があたしら油人を治療するなんて聞いたことがないよ。いつだってあたしらが土塊に還るまで放ったらかしのくせにさ。なんだかね、イーンはおかしくなっちまってるよ。忘我の森が枯れたって、あんた知ってたかい?」

 「はい」エトは頷いた。

 「忘我の森が枯れるなんてね。干魃の年ですら、あの場所の緑だけはあたしらを小馬鹿にするようにいつも青々としてたもんだよ。あそこはそもそもがあたしらのあずかり知らない森だから、どうなろうと別にかまやしない。でもね、何かがおかしいと気がついた時には、たいてい何もかもが手遅れの時なんだ」

 「忘我の森以外にもイーンには森がたくさんあります。それも、明るく生に満ちた、人に開かれた森が」とエトは言ったが、アグノアが口にした森がイーンの森の根っこの部分なのだと考えると、残された森のすべてが、明日枯れたとしてもおかしくなかった。

 「森はまあ、そうかもしれないね。あたしら油人には関係の薄い話をしちまったよ。愚痴っぽくなっているのはね、葬儀穴の方からどろどろが吹き出して来たからなんだ。えらく匂ってね。今まで見たこともないおかしな色合いの油泥さ。場所柄、本当は油ではないのかもしれないってみんな思っているよ。今まで捨ててきた人間が、溶けて流れ出てきたのかもしれない」アグノアは壁の向こうを透かし視でもするかのように目を細めた。

 「違います」とエトはとっさに口にしていた。

 「違うってあんた、おかしな子だよほんと。外の人間ってみんなあんたみたいな感じなのかい?」アグノアは組んでいた腕を解いて、珍しく笑顔を見せた。

 空調が、がこんと音を立てて止まったかと思うと、再びうなりだした。

 部屋に物がないと音の響きがまるで違って聞こえるとエトは思った。ここには廃材の鉄板を利用した食卓代わりの大机があった。アグノアの足下には骨のように乾燥した植物の植木が置いてあったはずなのだ。ヴィノの飾り立てた衝立は、砂埃が描いた脚の線を床に残して持ち去られていた。壁面に張られた絵の布片や壁に直接書かれた落書きも、壁をはぎ取るようになくなっていた。ヴィノの家族を連れ去った連中は、生活の痕跡の一切を根こそぎ奪っていった。

 「ヴィノが戻ったらがっかりしますね」

 「あぁ、そうだね」

 がやがやと部屋の外が騒がしくなった。仕事を終えた油人たちが通りがかりに中をのぞき見ては怪訝な顔をして去って行った。一人がアグノアに声を掛けたが、アグノアは短い返事しか返さなかった。

 「ヴィノの家族は上の連中に任せておけばいいさ。魔術師の治療なんて、そうそう受けられるもんじゃないからね」

 「僕たちは教区に立ち入ることが許されていません」

 「立ち入る必要もないさ」

 「でも、僕はヴィノを家族の下に連れて行かなくちゃ」

 「ヴィノは――」もう帰って来ないかもしれないね、という言葉をアグノアは飲み込んだ。「その時は、どうにでもなるよ。家族に会いたいってもんをむげに追い返すこともしないだろう」

 「そうですね……」エトの返事は室内に力なく漂った。

 アグノアは空調のうなる音に合わせて指先で腿を叩いた。それから泥汚れでごわつく髪をかきまわした。

 「エト、早く仕事に戻って来な」アグノアはそれだけ言うとエトの頭をぽんと叩き、部屋を後にした。

 エトはもう二度とアグノアに会うこともないのだろうと考えながらその背に向けて深々と頭を下げた。

 

 「こいつの手を握れ」とカデッサは食堂に集った面々に向けて言い放った。エトは手袋を外し、入口に待機していた。

 「事を起こすにあたって、俺たちは悪い鼠をあぶり出す必要がある。こいつは人に触れる事で心を読む。各々の持ち場に向かう前に、こいつの手を握って潔白を証明しろ。俺たちの狙いはあまりにもでかい。これくらいのことはしてもらうぞ」

 カデッサはいよいよエトの力を隠さなくなった。今回の作戦が、最初にして最後の大がかりな動きである証拠だろう。

 食堂には以前の会合とは比べものにならないくらい多くの人間が集まっていた。食事が供されていたが、和やかな雰囲気はまるでなかった。嵐の前触れを思わせる張り詰めた空気が場を支配していた。イーンの衣服を身につけている者はほとんどいない。油人区や生活区に紛れて生活を続けてきた人間までもが、所属不明の砂漠服に身を包んでいる。夜闇に隠れやすいように、濃い藍や茶に染めた砂賊の好む砂漠着だ。エトの知る計画では、グムトから竜の心臓をえぐり出した後、彼らはすぐに砂漠に逃れるつもりだった。ひとつの机にはイーン中のファの厩舎が記された地図が開かれていた。計画に参加する全員が砂漠を越えるためには、カデッサが用意したファでは足りないからだ。

 「さあ諸君、竜の死をこの手に持ち帰ろうではないか」カデッサが吠えるように言った。

 出口に向かう人間は渋々ながらエトの手を握っていった。中には自身の潔白に自信を持ち、エトにさえ激励の言葉を残して行く者もいたが、たいていの人間が嫌悪の眼差しでエトを見やった。代わるがわる流れ込む心にもそのことはよく現れていた。心の文様は、決起に伴う興奮と恐れ、そしてエトに向けられる敵意の気持ちで描かれていた。人の心に触れることはただでさえきついことなのに、意識をこちらに向けられているとなると、エトに掛かる負担は何倍にも増した。お前を殺してやるぞと剥き出しの敵意を向けてくる者がいてもエトにはどうすることもできなかった。それは自分に向けられている敵意であって、組織に対しての裏切りではないからだ。ギリヤは前回と同じように、エトからの合図を待って入口扉の近くに背を預けていた。ギリヤはもはや腰元に吊した剣を隠そうとしなかった。ギリヤがその場所に立つ意味を勘ぐらない者はこの場にはいなかった。

 列をなした最後の一人を送り出すと、食堂に残ったのはカデッサとギリヤ、そしてエトだけになった。厨房からはリシアと手伝いの者が片付けに追われる賑やかな音が聞こえていた。エトは床にへたりこんだ。こんなに多くの人の心に触れたのは初めてだった。それも、自分に好意を持たない多くの人間の心に。

 「小僧、立て」カデッサは机に並ぶ半ば乾いた肉をかじり取った。大きく口を開けて物を咀嚼する仕草が、エトにはひどく醜く感じられた。

 「まだお前の仕事は残っている」

 カデッサが顎で合図すると、ギリヤがエトの脇に手を差し込み力強く体を起こした。

 「でも、全員を送り出しました」とエトはめまいに似た感覚を抑えながら声を出した。

 「僕へ向けられた嫌悪の他には、誰も心に裏切りを隠していませんでした」

 「連れて行け!」

 ギリヤはふらつくエトを支えながら、厨房まで運んでいった。

 厨房ではリシアが汚れた皿を水に沈めているところだった。

 「すまないが、エトの手を取ってもらう必要がある」とギリヤは言った。強い口調に手伝いの子供は怯えの色をみせた。

 「大丈夫だから、エトの手に触れてきなさい」リシアは濡れた手をぬぐいながら言った。

 手伝いの子供は恐るおそるエトに片手を差し出した。まるで飢えた獣の口に手を伸ばすようだった。エトは自分から手を伸ばし、距離の足りない隙間を埋めた。

 手を握っても、その手のひらを通して、当惑の心しか伝わらなかった。

 エトは首を横に振った。

 「この場に対する怯えしか感じ取れません」

 手伝いの子供は、まるで病気持ちを扱うように手を振り払うと厨房の奥へと逃げ帰っていった。エトは気にしなかった。彼の意識は、これから触れるリシアの想いに向けられていた。エトは手を伸ばした。リシアは、少しためらってみせたが、ギリヤは急かしたりしなかった。

 「いいわエト、私の心に触れてみなさい」リシアはエトの手に触れると誰よりも優しく握ってみせた。

 「何も隠していません」とエトは言った。

 「食堂を出て行った人たちと同じように、計画の成功と失敗の間で感情が揺れているだけです」

 リシアはエトが報告を終えるまでその手を離さなかった。エトには彼の瞳をまっすぐにのぞき込むリシアの瞳がぐらぐらと揺れているように感じられた。そしてギリヤもその瞳を見ているはずだった。

 「じゃあなエト」ギリヤはエトに一瞥を投げることもなく、厨房に背を向けた。「隊長、俺も出るぜ」と大声で言った。

 「待ってくださいギリヤさん」エトは急いで振り返った。リシアがエトの手を引いたがエトは構わず続けた。「僕も連れて行ってください。まだ役に立てます。きっと役に立ちますから」

 「もうここには戻れなくなるぞ」ギリヤは足を止めた。

 「僕には始めからイーンに戻る場所などありませんでした。僕の家は砂漠を越えた先に、セオの都市を更に遠くへ行った地にあります」

 ギリヤは数刻動かずにいたが、すぐに支度を調えろと言い放った。エトはありがとうございますとギリヤに返した。その間、袖口を引くリシアの存在が熱となって感じられたが、彼女を振り返り、正面から対峙する勇気を持つことができなかった。エトは、階上の部屋に向かって這い上がっていった。

 身支度はすぐに終わった。もとから持ち出す物など何もなかった。エトの持ち物は、砂漠を越えた際に身につけていた服と、短剣だけだった。エトはあえて、己の血と彼を運んで倒れたファの血が染みこんだ手袋を身につけた。革は血を吸って固まり、動きがぎこちなかった。それでもエトは、その手袋のおかげで覚悟を固めることができた。血のこわばりを肌で感じると、なぜか自分が異境人であるという自覚が沸いてくる。イーンの地に生活を根付かせようなどという考えはもとよりありえなかった。――僕はこの地から死の秘密を奪うために来たのだから。

 「どうしても行くのね?」

 気がつくとリシアが部屋の入口に立っていた。

 「僕はここにいるべきではないんです」

 「イーンに生きる道だってあるのよ。あなたはもう立派な油人として認められているじゃない。油衆の皆は同じ油人であるあなたの味方よ。それに、私はあなたの力だって気にしたりしないわ、エト。あなたが、私の心を隠してくれたようにね」

 「リシアさんは裏切りの心など持っていませんでした」

 「私の心を読んだのでしょう?私の心は彼らへの猜疑でいっぱいだったはずよ」

 「だからといって、それは隊長が探る裏切りとは違います」

 「同じ事よ。不信は裏切りの心が育つ素地として十分なものだわ」

 「何にせよもう遅すぎます。これからイーンで起こることを止める手立てはありません」

 「私は、あなたを止めたいのよエト」

 「僕はヴィノを取り返さなくてはなりません。そのためには僕も計画に加わるしか手立てがないんです」

 「あなたに何ができて?」リシアは母親がよく子供を諭すように言った。

 「僕には何もできないかもしれない。でも、僕に力を貸してくれる人がいるんです。きっとヴィノを見つけてみせます」

 リシアは大きく息を吐き出した。声の調子が変わった。

 「いつか出て行くのだろうと思っていたわ。そしてもう二度と戻らないのだろうということもね。だってあなたは私の子ではないのだもの」

 「イーンの地で、僕はひとつの居場所を得ることができました。この部屋があったおかげで、僕はイーンの油人にだってなれたんです」

 エトはわずかばかりの持ち物を携えて部屋の戸口に立った。

 リシアはじっとエトを見ていた。

 「もう行きなさい」

 「さようならリシアさん」

 二人は最後の抱擁を交わし、互いの温もりを分け合った。

 階下に降りていくエトの背中を見送りながら、リシアはいってらっしゃいという言葉を飲み込んだ。別れの言葉は出てこなかった。リシアは、言葉が人を遠くに運んでしまうわけではないことを知っていた。――エトのくれた熱が消えていく……。いつだって時間が私から温もりを奪ってしまう。離心病は少しずつ、夫と子供の心を奪っていった。それはひどく残酷な時間で、いっそ自分も同じように狂えたらと思えた。あの子との生活は看護に明け暮れる日々と、心の怯え方がよく似ていた。あの子に馴染む度に、心がすくんだ。いつか出て行くことはわかっていた。竜があの子をイーンに導いたように、ある日突然いなくなってくれれば良かったのに。

 リシアは、窓枠に寄って小さな人影が暗がりの中を駆けていく様子を見守った。

 「竜のご加護がありますように」

 リシアは、家族が去って以来、初めて竜に祈りを捧げた。

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