第21話天使の表情

 ランスはアトリエでキャンバスに向かっている。彼は凄まじい集中力で絵筆を動かし、キャンバスの中の天使に命を与えていく。


「……ふあ」


 ソファーに寝転んだ優は欠伸を漏らした。かれこれ三時間、同じ体勢でソファーの上に居るとさすがに疲れる。しかし、泣き言を言わずに優は辛抱強くランスに付き合っていた。優の欠伸に気が付いたのか、ランスが手を止めて言う。


「ユウ、疲れた?」

「あ……少しだけ。あの、身体を動かしても良いですか?」

「もちろん。ちょっと休憩しよう」


 優は腰のバスタオルが落ちないように注意しながら起き上った。いつものように裸なのだ。

そうして、両手を上げて伸びをする。肩の骨がぱきり、と鳴った。


「ランスさん、完成までもう少しですか?」

「うん。もう……完成かな? 描き続けるといつまでも終わらないや……ここに、サインを入れてね、完成させるんだけれど」


 ランスがキャンバスを指差すので、優はそちら側に向かった。バスタオルを風呂上りの時のように腰に巻きつけ、裸足でランスの横に立った。


「うわあ……」


 キャンバスの中には、今にも動き出しそうな天使――優が居た。肌よりも白い羽が眩しく光り、穏やかな顔で微睡む天使の絵に、優は心を奪われた。


「なんか、実物より良いって言うのも複雑ですね……」

「何のこと?」

「絵の中の俺の方が綺麗だし……」

「何を言ってるんだい? 実物のユウの方が綺麗だよ」


 言いながら、ランスは優を抱きしめた。ランスからは油絵の具の独特の強いにおいがしている。初めから嫌では無かったが、今ではすっかり慣れてしまい、そのへんのお香よりも良いにおいだと優は感じている。


「僕が、優を完璧に絵にするには、まだまだ時間が掛かりそうだよ」

「そんな……大げさです」

「ふふ。謙虚だなあ、ユウは」


 二人が結婚して、一か月が経とうとしていた。結婚する前と後での生活は、これと言って大きく変わったことは無い。変化と言えば、王宮でのランスの絵が大きく評価され、絵の依頼が増えたことぐらいだろうか。

 ランスは忙しい合間をぬって、約束通り優の絵を進めている。今日も午前中は依頼された絵を描いていた。肖像画と言うことで、依頼者の元までランスが出向き、帰って来たのが午後一時を回った頃。遅い昼食を取ってアトリエに入ったのが午後二時頃なので、もう夕方になっている。夏なのでそう遅くは感じないが、窓の外はすっかり夕焼けに染まっていた。

 照れ臭くて、優は話題を変える。


「次の依頼の絵は肖像画って言ってましたよね? どんな方なんですか?」

「すっごいお金持ちのおじさんだった。椅子にね、金の装飾が付けられているんだ。絵具で汚したらどうしようかって、さすがの僕も震えたよ」

「ポーンさんの家より豪邸ですか?」

「うーん。大きさは同じくらい。ポーンだって金の椅子を買おうと思えばいつだって買えるくらい貯めてると思うよ? ただ、彼、お金は研究の為に使うから」

「なるほど」


 人の暮らし方もそれぞれなんだなあ、としみじみと思った。

 ランスも贅沢をしないタイプだ。朝、昼、晩と美味しいご飯が食べられればそれで良いという考え方。優はそんなランスがとてもとても好きだ。


「ねえ、ユウ。ここに一緒にサインを入れない?」

「えっ?」


 ランスは、細めの絵筆を手に取り優に言った。優はランスの言葉に耳を疑う。


「サインって、絵を描いた人が入れるものですよね?」

「そうだよ」


 当然だ、というようにランスが言った。優は息を吐く。


「なら、俺がサインを入れるなんてのは、間違ってます」

「そんなこと無いよ。この絵は……ユウ、君がいないと完成しなかった。初めて僕が心から大切にしたいと思った特別な絵なんだ。だから、二人で完成させたい。絵は、サインを入れて初めて完成するものだから」


 優は困る。

 嬉しい言葉だが、ランスの傑作に自分の下手くそなサインが入るのは気が引けた。言葉に詰まる優に、ランスは優しく言う。


「お願いだユウ……一緒に完成させよう。僕たちの世界を」


 世界――。

 優の心が揺れた。

 ランスは優の世界が見たいと何度も言っていた。塗り絵の時、優の肩の力を抜かせてくれたその言葉は、優にとって何よりの宝物になっている。

 ――ここにサインを描けば俺もランスさんの世界に触れられるのかな……ランスさんの世界の一部になれるのかな……。


「俺、油絵って描いたこと無いから、上手く描けないかもしれません」

「誰だって、初めては上手くいかないものだよ」

「……失敗するかも」

「油絵はね、失敗しても上から塗って重ねれば良いんだよ。だから、失敗は帳消しに出来る」

「……なら、やってみようかな……」

「ユウ……! その気になってくれて嬉しいよ!」


 ランスは赤色と茶色の絵具を混ぜて、少し暗い赤い薔薇のような色を作った。それをさっきの絵筆に付ける。


「絵より目立ちすぎてもいけないし、逆に目立たなくてもいけない。サインって、一番、気を使うんだ」

「そうなんですね」


 適量の絵具を取り、ランスは絵の向かって右下にサインを入れた。慣れた手つきで入れられたそれは、とても美しい筆記体だった。

 ランスはまた絵具を絵筆に取り、優に手渡す。緊張で震える手に力を入れながら、優はそれを受け取った。


「それじゃあ、いきますよ……」

「頑張って、ユウ」


 震える右手の手首を左手で押さえながら、優はサインを入れた。ランスのものに比べたら小さくて、歪で、いかにも「初心者」といったサイン。優は項垂れるが、ランスはとても嬉しそうだ。


「完成だ……ユウ、完成したよ!」

「わ、ランスさん……!」


 優から絵筆を取り上げると、ランスはまた優を抱きしめた。ずれて、バスタオルが落ちそうになるのを優は慌てて押さえて阻止した。


「初めての共同作業だね」

「……はい」


 幸せそうに微笑むランスの腕の中、優もまた極上の幸せを感じ取っていた。

 絵を完成させる、と約束を守ってくれたランス。

 その完成に自分も関わらせてくれたランス。

 好きだ。すべてを愛している。


「ランスさん……」

「うん」


 どちらからともなく、くちびるを合わせた。甘いキスは、どんどん深くなり、互いの息を荒くさせる。


「……っは」

「ふふ。ユウ、キス上手になったね」

「そう、でしょうか?」

「うん。良い子良い子」


 ランスは優の頭を撫でた。心地よさに目を閉じると、自分の顔がキャンバスの中の天使と重なるのを感じた。

 ――ランスさんは、きっとこの顔が好きなんだろうなあ……。

 そんなことを思いながら、優は訊いた。


「ところで、この絵はどうするんですか?」

「飾るよ。僕の寝室に」

「えっ……それは、恥ずかしいですよ!」


 ランスの寝室で寝起きを共にしている優にとって、自分の顔が飾られるというのは恥ずかしい。


「玄関とか……」

「だーめ。それじゃあ誰かに見られちゃう。ユウを独り占め出来ないよ」

「じゃあ、アトリエに飾って下さい。それなら、ランスさんと俺しか見ないから」


 ランスは顎に手を置いて、しばらく考え込んでいたようだったが、やがて「良いね」と明るい顔で返事をした。


「それならオーケーだよ」

「ありがとうございます」

「寝室だと、二人のユウを感じられると思ったんだけどね」

「もう、ランスさん!」

「あはは! 冗談だよ!」


 優の機嫌を取るかのように、ランスは優にもう一度キスをした。

 ――ああ、幸せだ。

 優は心があたたかくなるのを感じながら、キャンバスに一瞬、目をやった。


 天使は微睡んでいる。

 穏やかに。

 幸福そうに。

 

 いつまでも、こんな表情をランスに見せることが出来ますように。

 心でそう祈りながら、優はランスに抱きついた。

 ランスの腕の中で、天使は微笑む。

 これからも続く幸せを、ずっとずっと、噛みしめながら――。

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キャンバスの中で天使は微睡む 水鳥ざくろ @za-c0

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