拳で応えてこそ

「老兵は死なず、ただ去るのみ」

 そんな言葉とは随分と縁遠い男が、この賭博試合に一人。

 最早、戦士としての全盛期も過ぎ、体は年老いて見る影もなく、だがしかしなおも生き汚く賭博試合の壇上に上がる老輩の男。その男の試合は常敗無勝、試合に立った時点で結果が見えるものだから、客からも罵詈雑言が飛ぶわ飛ぶわの評判の悪さ。

 同じ闘技者からも、彼のような落ち目を相手するのも嫌がるものが出る始末。まあ、彼らも生死の境を彷徨うかのような戦いを求める者共なので、彼のような老輩などは相手にもならず退屈といったところか。

 実際、彼の戦いぶりというのは惨めの一言だ。果敢に繰り出した拳はあまりにも脆弱、そもそも相手に届く間も無く反撃される始末。立ったところで老い枯れた体では、彼よりもいくつも若く意気溌剌な動きを前にしては翻弄されるばかり、終いにゃ受けもままならず拳と蹴りの雨晒し。

 そうして倒れ伏しても、惨めに相手の足首を掴んで反撃に転じようするのだから、哀れを通り越して滑稽の産物。せいぜい客としては、この情けない姿を嘲笑う程度の楽しみしかない。

 そんな評判がスポンサアの耳にも届いているはずなのだが、どうも右から左へといったところ。むしろ、嬉々として必ずどこかしらに彼の試合をマッチングする始末。彼らしいといえば彼らしいが。


「それで、今回は俺が押し付けられ役……ってわけかねえ……」


 その日の組み合わせを配られた時、セイマは思わずそんな言葉を零してしまった。それというのも自分の相手にあるその名前、いくら見ても彼の名である。

 正直、気乗りしない。それが彼の本音であった。

 その男とは未だに試合を組まされていたことはなかったが、セイマは何度か観戦をしたことはあった。だが、やはりというか、あの試合ぶりには手を覆いたくなって仕方なくてしょうがなかった。あそこまで無様だと、流石のセイマも目を逸らしたくなるか。


 いや、むしろありゃ勝負の二文字を当てはめていいんかね。俺から見たら、ただの一方的な嬲り殺しにすぎやしねえぜ、ほんとに。


 だからこそ、あんな試合をすることになるのかと考えると、気が重い。

 セイマがやりたいのは、それこそ対等な試合だ。殴り殴られ、てめえとてめえの本気と本気のぶつけ合い。

 あんな弱いものイジメみたいな、試合とも呼べない試合なんてやる気もやの字も起きやしない。いっそ、今回は試合をふけてその辺の輩でも見つけて憂さ晴らしでもしようか、なんて邪な考えも浮かぶ始末。

 最低な行為だというのは分かっているが、それでもあの老いぼれを相手にすると思うと、どうしても。


「やあ、セイマくんじゃあないか」


 噂をすれば影がさす、とはこのことだろうか。振り返ると、件の彼はそこにいた。

 白髪交じりだがさっぱりとした短髪に気の良さそうな顔、しかし其処彼処に刻まれた傷は年来の闘いを思い起こさせる。それでも見るからに老いの感じる肉体、特に筋肉などは枯れ木を思わせるほどだ。ひと蹴りでも浴びれば、呆気なく折れてしまうのではないか。


「……どうも」


 そんな彼に対して、セイマは気の抜けた返事しかできなかった。

 どうにも間が悪い、としか言いようがない。さっきまで、この目の前の男との対峙を気が乗らないなどと思っていた矢先である。それがこうして出くわしてしまったとなると、どうにも気まずさというのが抜けきらない。

 しかして、老輩はと言えばそんなセイマの心境なんて梅雨知らずといったところ。むしろ、これから戦う相手に対しては馴れ馴れしいぐらいに親しげな雰囲気すら見せる。


「今日の試合は君が相手だとスポンサアさんから聞いたよ。正々堂々、死力を尽くしてやろうじゃないか」

「え、あ……そ、そっすね……」


 どうにも応える言葉も歯切れが悪くなる。というか、胸の内が言葉にもろに滲み出てしまう、そんな感覚。

 思っていることを隠し立てするのは、セイマはどうにも苦手だったのだ。そのせいでいらぬ喧嘩も何度も買っている。喧嘩自体は好きだが、いらぬ騒動までついてくるとなると話は別。

 だが、老輩は別段彼の態度を何か気に留める、ということはしなかった。にこやかに、じゃあまた試合で、と彼の背中を叩くに留める。

 見送る背中は、ちっぽけとしか言えないほどに小さなものだった。吹けば飛んでいってしまうような、そんな小ささ。

 

 ……やっぱり、あれを相手にするってえのは気が乗らねえよ。


 常に自分よりも高みにいる相手へ、と挑みかかっていた闘犬からすれば、やはりかの老輩の男は役不足であるらしかった。



 だとしても勝負は勝負、試合に臨んでしまったとならば、決着はつけなくちゃならない。

 罵詈雑言飛び交う壇上にて、男二人は対峙し合う。老木と闘犬、一見しただけでも勝負の行方は相変わらず明らかにもほどがある。

 賭博試合と言いながらも、もはや賭けになっているのかどうか怪しい。この馬鹿げた試合に金を突っ込む輩もおらず、大体の観客がこの後の大一番をメインに観戦に来てるといってもいいほどだ。

 しかしまあ、それ以上にセイマとしては目の前の男に対してどうやり合うか、そちらの方が問題だったに違いない。

 対峙してみても、やはり老輩に圧という圧は全く持って感じ取ることができやしない。先ほどのようなにこやかさはなく、顔つきはあくまで真剣そのものであるが、そいつに身体が追いついていない、というのが率直な感想であった。

 意気軒昂なのはいいが、だからとてそれで勝負を制するのは些か甘い話。それは、セイマも身を以て知っている。


 本気を出せばあっという間に終わる。

 だけど、それはやはりただの一方的な嬲り殺しでしかないんじゃねえか。そんなんやるために俺はここに立っちゃいねえんだよ。


 などと考える間に、老輩は動く。

 ゆっくり、いやゆらりとした身体こなしからの当身。その速度は、はらりと落ち風に舞う落ち葉の如く頼りない。故にか、払いのければ老輩の体もあっというまにくずれ、大きな隙が垣間見えた。

 だからとて、拳を突き入れられるか。拳一つであっけなく砕け散ってしまうような、この老木に入れられるか。


 いや、ここで入れなきゃ戦いじゃねえ。あくまで俺がやるのは、戦いだ。


 セイマは拳を握り直すや否や、そいつを老輩の腹深くに叩き込んだ。その腹というのも筋肉で引き締まっているのだろうが、老いた筋肉ではその拳の前においては薄っぺらな紙同然。内臓には言葉に尽くせぬ痛みが渦巻いているに違いない。

 だが、この老輩は倒れぬ。無様に舌を出しつつも、しかしその目からは光は失われてはいない。いや、まだ戦いはこれからだと、脂汗の顔に笑みを浮かべ黄ばんだ歯を見せつける。

 だったら、とセイマはさらに拳を叩き込み続ける。老輩に反撃の余地なんて与えない。それこそもう、このまま捲し立てた攻勢でもって、目の前の老木を沈めんとばかり。

 顔、腹、頰、胸、終いにゃ鳩尾を貫くまでに止めどなく拳を浴びせ続けてみせるが、だがどうだ、老木はなおも立ち続けてみせるじゃないか。青痣だらけの顔は、なおも前に向き続けている。

 どころか、攻撃を受け続けながらもめざとく己の腹に深々と喰らい付いている腕を掴んでみせたのは、流石幾多の修羅場を越えてきただけのことはあるのではないか。相手をそのまま投げとばそうと足に踏ん張りをかけてみせる。

 だが、所詮は枯れた老木の腕。セイマはビクとも動かず、むしろその腕は掴まれていることを利用して、老輩の足を地から浮かばせてみせる始末。

 こうなっては抵抗のしようもない。老輩は足をばたつかせてみせるが、あまりにも無意味が過ぎる。そのあまりの虚しさに、相手のセイマの方がどこか歯噛みしたくなる気分だった。


 こうなったら、もうさっさと終わらせるしかねえ。


 そう言わんばかりに、セイマはその身体を天高く掲げるや否や、地の底へと突き落とした。頭蓋を砕くまでとはいかないが、それでも骨の一本や二本は折れてくれないと困る一撃。実際、身体に伝わるダメージは相当なものがあるはずである。老いた身体ではなおさら。

 試合としては、あまりにもあっけない幕引きかもしれない。しかして、観客だってこの試合が長引くことをよくは思わないだろう。もはや戦士とは言い難い男の見苦しい戦いなど、彼らの望むところじゃない。

 それは当のセイマも同じく。いっそこれで終わってくれさえすれば、彼としてはこの上ないものだった。


 そうさ、これで終わってくれさえすれば、俺は弱いものいじめみたいな真似をしなくて済むんだ。頼むから、これでもう眠ってくれ。



「……君、そこは頭蓋を砕くところじゃあ……ないのかね」



 だが、勝負というのはそう甘くない。それは、このときこの場でも同じくといったところか。

 枯れた身体に鞭を打ち、その男はなおも立ってみせるじゃあないか。額には夥しい血を流すも、そこから垣間見える瞳の光というのは、輝きを一切も失っちゃいない。

 いや、むしろ光どころか、その瞳には燃え盛るものがあるんじゃあないか。それこそ、セイマがいつも対峙する相手と同じような、いや、それ以上によくよく燃え盛るものが。

 

「私は……死力を尽くそうと……言ったんだ。そして私は、尽くしているつもりなんだ。……だけど、君は、違うのかね……」


 男は、静かに問う。だが、その言葉の重さというのは、足の指先一つさえ動かせないと感じるほどで。

 もはや立っているのだってやっとな筈だ。それ以上下手に戦いに挑めば、呆気なく死んじまったっておかしくもない。

 それでも、男は歩み寄る。幾多の戦いを乗り越えた拳を握り、血に濡れた瞳は確かに目の前の獲物を捉え、鷹の瞳の如く狙い済ます。

 

 ……畜生ッ。


 そんな目を前にして、セイマももう立ち竦むばかりじゃあいられない。腹を括った男は、今度こそ、とばかりにその拳を彼の顔面へと抉り込んでみせる。

 かくして老木は揺らぐ、だが前を向き続けることはやめはしない。その瞳は、なおもセイマを捉えてならない。だからこそ、セイマの拳も止まることは許されない。

 賭博試合は、一度始めてしまったが最後、相手を倒すか、自分が倒されるかまで終わりやしない。この舞台から降りるには、この目の前の男を倒さなきゃあしょうがない。

 セイマも、それは重々承知している。むしろ、倒れなきゃあ終わりじゃあねえんだ、とばかりになおも立って戦い続けた己を知っているからこそ、今ここで奴を砕き倒さんと拳を振るうのだ。

 突き出した拳には飛び散る汗、穿ち抜いた頰には舞い散る血飛沫。唸り、響き、劈き、叫ぶ。

 それら一切が終わりを迎えるのは、きっとかの老木が倒れ伏した頃なのだろう。

 けれどどうだ、老木は倒れたか。

 否、老木はその二の足で地面を掴み、皮は随分剥げたように思えるが、しかしなおも力強く立っているじゃないか。拳で倒され、蹴りで飛ばされ、投げで沈み落とされても、なおもセイマの前に立ち塞がるじゃあないか。


「……ま、だ……まだだ。……私は、君に死力を……尽くされては、いない」


 随分と多くの傷を刻み込まれている筈なのに、青痣で醜く歪んでいるはずの顔はなおも笑みは浮かべてみせる。

 もう何発入れた、もうどれだけ殴り倒した、いや、数えることすら億劫になる程にこの拳を叩き込んだはずだ。しかして、どうしてそこまでして立っていられる。何がそんなに譲れなくて、立っていられるというのだ。


「……わからない、って顔してるね。……でもねえ……私はねえ……今の君の拳にゃ、倒されてやろうなんて思わんよ」


 もう、身なりはボロ雑巾同然と言っていい。なのに、その言葉の圧はなんだ、重みはなんだ。

 男は、ゆらり、ゆらりとなおも歩み寄る。いや、間合いを詰めると言った方がいいか。力強く握られた拳を翳して、目の前に立ちはだかるセイマを見据える。


 また、どうせあのひょろくて、のろくて、弱々しい拳だ。喰らったところで痛くも痒くもねえ、むしろさっきのように払いのけて拳を叩き込んでやろうじゃあねえかよ。


 でも、それはかの老木もそうされるだろうことを分かっている筈だ。どうせ己の拳が届かないということは、わかっているに違いない。

 では、何故に彼は拳を翳す。到底かなわないと確信する男に対し、何故になおもこう挑み掛かる。


 ……いや、それは……そいつはまるで、どこぞの誰かと同じじゃねえかよ。


 老輩の拳が、いや、その拳に握り締められた意地が、セイマにめがけて撃ち抜かれる。

 だが、セイマは避けもしなければ払いもしない。向かい来るその拳に対し、彼もまた拳で受けて立ってみせた。

 老輩の拳は、そんなセイマの顔面に入る。ひょろくて、軟弱で、だけどそれでも思いの丈が篭っているのか、心がひどく焼けた様な、そんな痛みがセイマに滲みる。


 ああ、やっぱりそうか。見かけにゃやらねえ、ってえのは、このことか。だったら、俺もこうして応えなきゃあ、男が廃る。

 それに、それは俺も……同じだから、なァ!


 拳を喰らい、歪みつつある顔はなおも前を向く。最早容赦も何もない、意地に対して執念を握り締めた拳を力いっぱいに叩き込む。

 老輩の枯れた身体が、その力を前に落ちかける。遂に老木が砕け折れる。

 かに思えたが、彼の血に流れる意地は、なおも日本の足を踏ん張るや、愚直にこちらに対してなおも拳を振るってみせる。

 それこそ、子供が大の大人に向かってやる様な、駄々っ子の様な見かけの拳。それは、観客からすれば嘲笑って当然の様な醜態。

 だが、それは違う。

 弱々しくもあり、醜くもあり、貧弱なまでのそれは、しかしこの男の全てなのだ。この男は、その全てを賭けてこの戦いの場に、「これまで」の戦いの場に立ってきたのだ。

 観客者達からは歓迎されず、同じ闘技者にからは腫れ物扱いを受けてもなお、かの老犬はその拳に意地を握り締めて戦ってきた。

 そんなにも戦いに拘る理由がなんなのか、そんなのはわかりもしないしわかろうとも思わない。そんなこと、今は知らない。

 そう、今は。


 今はただ、本気で己をぶつけてきてる一人の男が握る拳に、一人の男として拳で応えてこそ筋ってえもんじゃあねえかェ!


 だからもう、セイマは相手がどうなろうとは考えない。嬲り殺しの弱いものいじめになろうが、関係ない。本気の拳をぶつけない方が、それこそ筋の通らない話。

 闘犬は唸る。老犬は吼える。本気の牙をもって、互いが互いに喰らい付く。

 しかして、やはり年の差が如実に現れる。老犬の動きのそれは、今を全盛する闘犬の若さにはついていけないのは当然の話。いくら喰らい付こうにも、奴の牙に捉えられては、何度も噛み倒されるばかり。

 満身創痍、なんて言葉すら生緩い。腕は動くかどうか、土を踏む足もどこか覚束ないものがあり、焦点だってあってるかどうかすら定かではない。あと一発でも食らってしまったのならば、砕けることは必定か。

 だが、立っている、拳は握られている、そして顔はなおも前を向いている。セイマの顔を、見据えている。


 そこに浮かぶは、『十分だ、戦うには十分だ』、などと言わんばかりの老犬の笑み。


 ならばと、セイマもまた拳を握り締める。

 もう随分と血に濡れているその拳、そこに油断も慢心もチリひとつとて握られちゃいない。あるのは、この目の前の老いた闘犬に対して、己が全てを叩きつけんとする執念。

 老犬が、進む。その動きに合わせて、闘犬は駆ける。

 互いの拳が交差し合い、狙い澄ました顔面を、いいや、その魂をも砕かんと撃ち抜かれる。

 どちらの拳が届くが早いか、それはあまりにも明白すぎた。もう既に、勝負は決まっていたと言っていい。

 だけれど、それでもやっぱりちゃんと勝負はつけなきゃならないだろう。誰が見ても明らかだが、だがそれでもまだ立って、そして戦うのならば、終止符はつけねばならない。それでこそ、戦いは戦いたり得るのだ。

 その果てに何が待っていようが、関係ない。この今に本気にならなければ、しょうがないにも程がある。


 だから俺は、この拳であんたを。




「……で、まあ単刀直入に言えば、彼は死んだ。思い切り頭蓋を砕かれたんだ、当然の話だね」


 正直な話、セイマからしたらスポンサアの口から出たその結果は、わざわざ聞くまでもない代物だった。


 だってそりゃあ、そうなるだろうと思って放った拳なんだからな。


 セイマは、握り締めた拳に視線を下ろす。その瞳の色は、どんなものかは知る由もない。ただ、一つの戦いを終えた拳の血は、まだ拭い切れるものではなかった。

 スポンサアはといえば、何かしら面白ことになっているかな、という風な期待を抱いていたのか、素っ気のないセイマの反応にどこか肩をすくめる。

 まあ、そもそもこの試合を組んだ事自体、そういう意図があったのかもしれないとさえ思えるが。相変わらずの黒幕趣味である。


「しかしまあ、彼もよくまあ戦い続けようと思ったもんだね。どれだけ負けて挫けようと、老いた身体もままならなくなろうと、それでも戦いにしがみつく。だからこそ面白かったわけだけど、それでもまあ、他に何か生きがいってのが無かったのかな」

「無かった……いや、捨てきれなかったんじゃねえのかね」

「捨てきれなかった?」


 疑問符を浮かべるスポンサアに対して、セイマは未だ拳を握ったまま。傷だらけの痣だらけ、形もひどく歪んだ拳。まるで、誰かを殴ることしか知らないような、見るに耐えない拳。

 思い出してみれば、あの老輩の拳もそれと、いやそれ以上の拳だったかもしれない。

 今更、頰に刻まれた拳痕の痛みが、ひりっと滲む。


「誰にだって、捨てれねえもんってのはあるだろうよ。他にも道があるかもしれねえ、生き方ってのがあるかもしれねえ。だけど、それでも捨てれない意地だとか、執念だとかはあるんじゃねえかね。或いは……そうだな、そうすることしかできない生き方、ってえやつとか。あの爺さんは、それが戦いだった。一体、戦いの何を捨てられなかったのか、俺にゃやっぱり知る由もねえがさ」


 でも、何となくわかる気がする。

 あの爺さんと俺は、きっと同じなのだろう。同じような思いを、この拳に握っていたのだろうから。


 もう一度、その拳を強く握り締め直す。あの老犬の魂を砕き、その命をも奪った拳だ。

 だけれど、その結果にセイマは一片たりとも悔いちゃいない。いや、悔いたらそれこそあの老輩に対して無礼なのかもしれない。

 その結果がどうであろうと、互いが互いに拳に意地と執念を握り、本気で撃ち合ったことには変わりはないのだから。

 それが全てであり、それで十分。

 

「じゃあ、キミも戦い続けるのかな。キミだって、あの野良犬だった頃から挑んで戦って、勝つか負けるかばかりの生き方知らなかったじゃあないか。……でもやっぱり、人はいつかは老いる。あの老人のように、キミも……ね。それでもキミは、戦い続けるのかな? 戦い続けることが、できるのかな?」


 老いて、枯れて、そして朽ちて、そんな先は近くもないがそう遠くもない。セイマもいつかは、かの老犬の如く成り果てる。

 それでもまだ、その拳を握れるか、握り振るい続けることができるか。……老犬と成り果ててなお拳を振るった、彼のように。

 そんな先のことなんて、いくら考えたところでやはり実感など湧きやしないというのが本音なところか。自分が老いたその時、自分がどうしているかなど、今ばかりに喰らいつくこの男にとっちゃ、想像の余地すらない話。

 

 ……でもま、あんな生き方魅せられちゃあ、俺だって。


 いつも通りの、あの面白そうにニヤついたスポンサアの瞳が、セイマの姿を映す。

 だが、その顔には迷いも戸惑いもありゃしない。



「舐めてくれてんじゃあねえぜ、なァ」



 そこにはあるのは、憎らしいスポンサアの笑みに、それこそ負けぬばかりの不敵さ一つ。



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