観客席の小説家



 この観客席に座る彼らは、一体何を感じたくてそこにいるのだろう。優越か至福か、それとももっと別の何かか。

 だが、どうせそう大した代物じゃないに決まっている。


「おおおおおッ!」

「うらああああッ!」


 彼らの瞳の先は、よくよく猛る獣どもの喰らい付きあい。闘犬や闘鶏を思い出させるが、しかしそこにいるのは獣は獣でも、人の形をした獣。だが、その野性味はモノホンの獣に勝るとも劣らない勢いだ。

 地下に造られた大層御立派なんぞと言ってもいいだろう闘技場で行われるこの賭博試合なる見世物は、今日も今日とて盛大な催しだ。熱狂犇めき合い、ヤジも飛べばものも飛ぶ、だがよくよく飛ぶのは獣の汗と血かもしれないが。

 まあ、己が賭けた金をドブに捨てる結果になりたくねえ観客どもがいなけりゃあ、ここまで盛大になるということもないか。下手をすれば、数百万なんていう自分がいくら稼いだって手の届かない額まで賭けているやつだっているほどだ、熱に浮かされないで何になるって話だ。

 じゃあ、そんな奴らと並んで観客席に座り、しかし奴らを小馬鹿にするような自分はなんなのか、という話にもなるか。

 言ってしまえばただのしがない小説家である、というほかない。別に隠し立てするような話でもなしに。今日この場の賭博試合は、正直ただの気まぐれでおこしたネタ集めでしかない。このような試合に金を賭ける趣味もなければ、人と人とが血を流し汗を飛ばす殴り合いに何かを見出したわけでもない。

 むしろ、この殴り合いに笑って泣いてを繰り返す観客どもの気持ちなんてわかりゃしないし、そもそもこのような賭博試合で殴り合う愚か者の気も知れない。借金の肩代わりに奴隷の如く遊ばれている、ということならまだ納得の余地はあるが。

 だけど見るがいいよ。なんだ、あの闘技場のど真ん中で戦う彼らの表情は。獣が獲物をその瞳に捉えた、と言わんばかりの笑みを浮かべているじゃあねえか。獰猛な猿が恐れ知らずに喧嘩を挑むような、そんな心地すら感じさせられる戦いぶりよ。一体どこに、奴隷のどの字もあるってんだ。

 だからこそ、なんてくだらねえ、そんな風にも思うわけで。

 そりゃあそうだろう。自分なんて痛いのなんて御免だ。そもそも飢えた獣の瞳をした輩を目の前にするのだって、腰がすくんでビビっちまう。

 だが、この闘技場で拳を振るう奴らは、そんな輩を毎度相手にしてやがる。しかも、自分も彼らと同じような瞳を宿して。

 一体全体、奴らはどうしたってそんな目を出来るんだ。しかも、どれだけ殴られ倒れたとしても、きっとその痛みは骨身に響いて立つのすらやっとだというのに、奴らは立ってみせてくれるのだろうか。

 今もそうだ。腹に一発、いい蹴りが入り闘技場の壁まで吹っ飛んだ癖に、その男はなおも血反吐を吐きながらも立ってみせやがる。そんでもって、見たところ実力が一段上であろう敵に喰らい付く。

 技術もなってない、速さも足りてない。だが、その打たれ強さと執念だけは今日この日の賭博試合の中でも、一級品だった。

 しかし、こいつは命が惜しくないんかね。そんな、傷を背負って、背負い尽くしているような戦い方じゃ、いつかは潰れてしまう、スクラップだ。

 自分は惜しいぜ。命が惜しい。惜しいからこそ、こんな戦いを見てるとぶるっちまう。自分の小説のスポンサアなんかは、これこそ生きることだとか言って気持ち悪げに笑っていたのを見たことがあるが、正直そんな心地になれる輩の気が知れねえ。

 もしも自分があの場に立っていたとしたら、なんて考えばかりが頭の中を何度も過って巡り巡る。遂にはその恐ろしい結果を想起して、吐きたい衝動に襲われたのは、もう数えきれやしない。


「でも、案外八坂さんだって人のこと言えないじゃあないですか」


 それは、自分の隣でこの殺伐にも程がある試合を平然と眺めていた連れ合いの言葉だった。

 まだ十五にも満たないってのに、自分のようにこの試合模様に腰を抜かすことなく、むしろ笑って見てられるようなその女。正直それだけでもこの女への理解が追いつかないというのに、今度は一体何を言い出した?


「自分が人のことを言えない? 待てよ、あの賭博試合で血反吐吐いて、何度だってぶっ倒れて、それでも恐れ知らずに立ち上がるあの愚かな野郎と、自分とが一緒とでも言いたいんかね」

「そうですよ、一緒ですよ貴方とあの人。だって、貴方だって、そうじゃなかったですか。ほら、警察に捕まった時の話ですよ」


 警察に捕まった時、なんてもう数え切れやしないのだが。

 自分の書く小説が、どうにも警察側の琴線に触れることが多いので、捕まる事はしょっちゅうなのだ。発禁になった数だって、最早指で数えることすらできやしない。巷じゃ、奴は発禁記録を更新し続けるためだけに小説を書いているようなもんだ、なんて笑い話にされる始末。突いたあだ名が、発禁小説家。

 それでも、自分は小説を書かにゃあしょうがねえのだ。胃から込み上げてくるような思考、吐き出さなきゃ気が済まねえ嫌悪感、撒き散らさなきゃ晴らせぬ衝動。

 だが、悲しいかな。そうして書いた小説どもは、昨今の国の風潮にどうにも合わないらしい。最近の国の表現の規制、ってえのは目に余るものがあるが、特に戦争を控えたこの国じゃあ自由な言論はひどく都合が悪いということだ。

 そして、自分の小説はそんな国を茶化したり罵倒するような要素がある故に逮捕。そして、その後は思い出すだけで冷や汗は噴き出るし、古傷は疼いて仕方ない。

 わかっている。自分でも、その行為があまりにも愚かだというのはわかっちゃあいる。だけど、やめられないのだ。書くのをやめたら、それこそ自分の最期なのだ。そうしてずっと生きてきた故に、最早執筆というのは呼吸と同義なのだ。


「だから、貴方とあそこの人は同じ、そう言っているじゃあないですか」


 連れ合いが指を指す先、もう何度目か数えることすら忘れる程に昏倒を繰り返しているその男は、その身に夥しい傷を背負いながらもやはり立つ、立ってみせる。

 正直、その姿にもう負けたっていいじゃないか、と思わずにはいられない。そんな怖い思いして、痛い思いして、一体何になるってんだ。どうせあるのは、体がイカれてしまうというだけの結果だ。そんなことになるくらいだったら、さっさとやめてしまえばいい。どうしてわざわざ、自らポンコツになりにいこうとしている。

 ……そこまで思って、どこかそいつに既視感があるように思えた。どっかの誰かと、微妙にその男との姿が被るような、あるいは誰かと重ねることができるような。

 夥しいほどの生傷を背負ったその男は、しかしてそれがなんだと言わんばかりに、悪態をついてみせる。拳握り、膝を屈してやるものかと強気な笑みを浮かべ、そして愚直な程に真正面から拳を振り上げてみせる。

 それは、姿や振る舞いこそ違えど、やはり誰かに重なって見えるようで。


「そりゃあそうですよ。だってそれ……形は違えど、貴方がいつもやってることじゃないですか」


 ……自分が、いつもやっていること。


「毎度毎度、国にケンカを売るような小説やら、自分の納得のいかないものにケンカを売るような小説やらを書いて、発禁になって、捕まって、ついでに痛い思いをして。……いっそ、そんな地獄を見て泣き喚くくらいなら、いっそ書くのをやめたっていいのに、貴方は書くのをやめようとしない。筆を執って走らせるのをやめようとしない。だって、貴方にとって小説を書くことってのは、生きることと同じくらいに譲れないものだから。ついでに言えば、惨めにやられるだけじゃあ我慢ならない、なんて。……それと同じように見えませんかね、あそこの彼と」


 ぐうの音も出やしなかった。一言一句、どれもこれもが、全部疑いの余地のない言葉として自分を突いてくる。たかが十五の娘、この自分より十歳も下の小娘に、完全に言い負かされる始末。

 そう言われてしまうと、確かにそうだ。奴のあの振る舞いは、確かに自分と同じようなもんだ。まるで譲れないものがあると言わんばかりに、己が身がスクラップ寸前になろうが構わず立ち向かうその姿。


「……だが、同じといってもやはり、奴の方が数倍自分より大きく見えちまうな、自分にゃあな」


 それは至極当たり前の話であったかもしれない。

 こんな矮小で、痛みにはすぐに泣いちまうような、恐怖にはすぐに小便でも垂らしてしまいそうな、そんな自分と違って、その男はそんなそぶりを一片たりとも見せやしない。

 痛みが平気なわけじゃない、恐怖を感じないわけじゃない。奴だって平気なように見えて、何も感じないように見えて、小刻みに体が震えてしょうがないてえのがよくよく目を向けりゃあ見え隠れ。

 それでも、なんでもねえように、むしろそんな痛みに、恐怖に逃げてたまるかと言わんばかりの愚直っぷり。

 同じとはいえ、ありゃあ真似できやしない。できるわけがない。だから、こう、羨ましくも思える。

 あんな風に強ければ、と。

 痛みがなんだと、恐怖がなんだと、夥しい生傷を背負った奴は嵐の中を突き進むが如く立ち向かい、己が拳を瞳に捉えた獲物に対してぶちかまさんと食らいつく。

 やはり愚直、どこまでいっても愚か者。けれど、そういう男に心震えて憧れてしまうのは、自分もまた一人の男であり、そして何より愚か者ゆえに、ってか。

 

 だからこそ、こいつぁ書かなきゃしょうがねえだろう。


 この憧れ、この震え、全てありったけのままに紙面に叩きつけなきゃあ自分じゃねえ。それこそ奴が今まさに、己が執念を拳に握り、眼前に立ち塞がる存在に叩きつけたのと同じように。

 歓声が、波を立てたように湧き上がる。随分と熱狂的、一度渦を巻いたらそれこそ周りを飲み込まんとせんばかり。

 だが、己が衝動はそんな渦に飲み込まれるほどやわなもんじゃあない。むしろ、その渦すら真二つに割ってしまいかねないほどに、轟いて仕方ない。

 もはや、どうして抑えられる。いいや、今この場にペンと原稿用紙があるなら、沸き立つままに数百枚の原稿を書きあげてみせてもいいぐらいさ。


「ふふ、きましたか、いつものやつ」

「知った風な口を利くなよ」

「ですけど、そんなに笑みに打ち震えてちゃ、わかりたくなくても分かっちゃいますって」

「う、五月蝿えな……」

「それで、タイトルは決まったりしてるんですかね?」


 タイトル、別にタイトルなんざ考えてもなかった。だがまあ、それなりのなら一つ、あるかもしれない。

 いくら打ちのめされようと、いくらのし倒されようと、しかし最後はその二つの足で、男は一人立ちのさばる。逆境の嵐の中で、なおも執念をその拳は掴んで離さぬ。そいつを、己が前に立ち塞がる壁にぶつけ、突き壊すその時までは。

 故に、題はここに一つ。



「『逆境の拳』、ってえのはどうだがね」

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